March 27,2022 李世民、侯君集、李道宗の生年


Picrewの「오뱅이어」でつくった尉遅敬徳x李世民 可愛い

別所にメモしてた李世民、侯君集、李道宗の生年についての考察

李世民さんの生年
・『旧唐書』太宗本紀は隋開皇十八年十二月戊午とする
旧暦598/12/22生まれ、新暦換算で599/1/23生まれ
これが一般的に一番採用されてる説だと思います。日中の出版物はだいたい598年生まれ表記
うちのサイトでは新暦換算で599年生まれと表記しています
(こう書いておけば617年に満年齢18歳になり、ギリギリで「太宗十八舉義兵」が成り立つから)

・『新唐書』太宗本紀は貞観二十三年(649)に五十三歳で崩御したとする
隋開皇十七年(597)生まれ?
この説も古い本だと見なくはないです。韋貴妃と同じ年カップルということになる。いいじゃん

・『新唐書』太宗本紀は大業十一年(615)に16歳であったとする
隋開皇二十年(600)生まれ?
ダークホースですが、谷川道雄先生の『唐の太宗』は600年説をとっています
そうすると617年に数え18歳になるので「太宗十八舉義兵」が問題なく成り立ちます
『唐の太宗』では楊堅が太子楊勇を廃し楊廣を立太子したのと同年に世民が生まれたと小説的な書き方で触れていて、これは正直めっ…ちゃくちゃ巧いと思います

李道宗の生年
・『旧唐書』宗室 太祖諸子代祖諸子 李道宗伝では永徽4年(653年)に五十四歳で死去したとする
隋開皇二十年(600)生まれ?
・同じ『旧唐書』宗室 太祖諸子代祖諸子 李道宗伝では李世民の劉武周征討(西暦619年)に年十七で従ったとする(※同一史料に矛盾する記述が併存する)
隋仁寿三年(603)生まれ?
どっちでもいいんですけどうちでは李世民・侯君集・李道宗の萌える年齢差の兼ね合いで603年説を取ってます
李世民に従軍し十八歳で戦死した李道玄は603年生まれで、その弟李道明、李神通の子李道彦と唐初の宗室で「道」の字を輩行字に使っている人たちは全員だいたい同世代だと思います

侯君集の生年
・『新唐書』列伝第十九侯君集伝には〈少事秦王幕府〉とあり、二十歳未満のうちに秦王府に仕えたとする
隋開皇二十年(600)以降生まれ?
李世民が秦王に封じられたのは武徳元年(西暦618年)六月なので、当時数え19歳以下であったとすると600年以降生まれになります
ただ近年出土した《大唐泰州諸軍事泰州刺史侯使君夫人潞国太夫人竇氏墓志》によれば、侯君集の母竇氏は貞観六年(632)に79歳で亡くなっており、果たして553年生まれの竇氏が47歳以降に侯君集を産めたのか…という疑問が残ります
あとかつて中文wikiで侯君集の生年が573年となっていたのですが、墓誌によれば君集は竇氏の第五子にあたり、当時の貴族が12〜13歳で嫁いだことを踏まえても20歳で5番目の子である君集を産んだとは考えにくいように思います
なので整合性とか関係なく創作では600年以降生まれを採用したい。なぜなら凌煙閣二十四功臣x世民のなかで唯一侯君集が年下攻めだと萌えるから

結論
うちのサイトではひとまず李世民(599生まれ)>侯君集(600生まれ)>李道宗(603生まれ)の設定を採用します
でも李世民さんは600年生まれで君集と同い年設定でもいい 萌えるから

ところで君集母竇氏は墓誌によれば扶風竇氏の出身らしいのですが、おそらく李世民の母竇氏(河南竇氏)の同族だと思われます
武徳元年に君集が段志玄らとともに幕府功臣として車騎将軍を拝命しているのも、君集母竇氏が唐の外戚に近い立場だったからではないでしょうか
『周書』によれば君集の祖父侯植は「容貌奇偉、武藝絕倫」の人であり、侯君集の「玩弓矢而不能成其藝、乃以武勇自稱」「出自行伍、素無學術、及被任遇、方始讀書」といった性質も武門貴族で育ったためと考えると納得です(君集が無学だったのは、単に若いうちに挙兵に参画して勉強する暇がなかっただけという可能性も高いと思いますが)
隔世遺伝で君集も高身長であってほしいな…