秦王世民派‐『新唐書』袁朗伝の整理

『新唐書』列伝第百二十六 文藝上 袁朗伝にある李建成・世民・元吉の党について
秦王李世民の党とされる27名の正史の列伝の抄訳
『旧唐書』ベースに『新唐書』と『資治通鑑』から補完しています
『新唐書』袁朗伝の整理 / 太子建成派 / 秦王世民派 / 斉王元吉派
参考:『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』『貞観政要』『太平御覧』『歴代名画記』


『新唐書』列伝第百二十六 文藝上 袁朗伝

武徳初、太子李建成、秦王李世民、斉王李元吉は各々勢力を持ち、名臣を致して自助とした。
秦王李世民には友于志寧、記室参軍事房玄齢虞世南顔思魯、諮議参軍事竇綸蕭景、兵曹杜如晦、鎧曹褚遂良、士曹戴胄閻立徳、参軍事薛元敬蔡允恭、主簿薛収李玄道、典簽蘇勗、文学姚思廉褚亮、敦煌公府文学顔師古、右元帥府司馬蕭瑀、行軍元帥府長史屈突通、司馬竇誕、天策府長史唐倹、司馬封倫、軍諮祭酒蘇世長、兵曹参軍事杜淹、倉曹李守素、参軍事顔相時があった。


友 于志寧 / 字:仲謐(588‐665)(兼文学館学士)

于志寧、字は仲謐。京兆高陵の人である。祖父の于公謹は周で太師となり、燕國公に封ぜられた。父の于宣道は隋で内史舍人となった。(続)

参考:『旧唐書』列伝第二十八 于志寧伝、『新唐書』列伝第二十九 于志寧伝


記室参軍事 房玄齢 / 字:喬(578‐648)(兼文学館学士 / 凌煙閣二十四功臣 第五席)

『旧唐書』列伝第十六 房玄齢伝


記室参軍事 虞世南 / 字:伯施(558‐638)(兼文学館学士 / 凌煙閣二十四功臣 第二十席)

虞世南、字は伯施。越州餘姚の人である。隋の内史侍郎虞世基(楊廣の側近官僚である五貴の一人)の弟にあたる。祖父の虞検は梁の始興王の諮議を、父の虞荔は陳の太子中庶子を務め、共に名声があった。(続)

参考:『旧唐書』列伝第二十二 虞世南伝、『新唐書』列伝第二十七 虞世南伝


記室参軍事 顔思魯(?‐?)

新旧唐書に列伝なし。敦煌公府文学顔師古の父にあたる。学芸で名を知られ、武徳年間に秦王府記室参軍となった。

顏籀、字師古、雍州萬年人,齊黃門侍郎之推孫也。其先本居琅邪、世仕江左。及之推、歷事周、齊,齊滅、始居關中。父思魯、以學藝稱、武德初為秦王府記室參軍。(『旧唐書』列伝第二十三 顔師古伝)

参考:『旧唐書』列伝第二十三 顔師古伝、『新唐書』列伝第百二十三 儒学上 顔師古伝


諮議参軍事 竇綸(?‐?)

新旧唐書に列伝なし。『新唐書』志第四十九 藝文三と『歴代名画記』巻十に名前が見える竇師綸と同一人物?

 竇師綸畫《內庫瑞錦對雉鬥羊翔鳳遊麟圖》字希言、太宗秦王府諮議、相國錄事參軍、封陵陽公。(『新唐書』志第四十九 藝文三)

 竇師綸、字希言、納言、陳國公抗之子。初為太宗秦王府恣議、相國錄事參軍、封陵陽公。(唐 張彦遠『歴代名画記』巻十)


諮議参軍事 蕭景(?‐?)

新旧唐書に列伝なし。蕭瑀の兄の蕭璟か?


兵曹 杜如晦 / 字:克明(585‐630)(兼文学館学士 / 凌煙閣二十四功臣 第三席)

『旧唐書』列伝第十六 杜如晦伝


鎧曹 褚遂良 / 字:登善(596‐658)

褚遂良、字は登善。父は十八学士の一人でもある褚亮。隋末は父褚亮と共に隴右におり、薛挙が西秦霸王を自称すると、その下で通事舍人となった。薛挙の後を継いだ薛仁杲が世民に討伐されると唐に帰順し、秦州都督府鎧曹参軍(『新唐書』によれば秦王府鎧曹参軍)を授けられた。(続)

参考:『旧唐書』列伝第三十 褚遂良伝、『新唐書』列伝第三十 褚遂良伝


士曹 戴胄 / 字:玄胤(?‐633)

戴胄、字は玄胤。相州安陽の人である。貞正な性質で、才能と器量の持ち主であり、律令を学び文簿に通じた。隋末に門下録事となり、納言蘇威、黄門侍郎裴矩から厚く礼遇された。東都洛陽にて王世充が越王楊侗を擁立すると、その下で給事郎となった。

隋末の動乱の最中に王世充が禅譲を画策すると、戴胄は「君臣の関係は父子の関係に等しく、幸不幸も同じです。公は社稷の任にあり、国家と存亡を同じくして今日があるのです。願わくは王室を尊輔し、伊尹、周公旦のようにあられることが天下の幸いです。」と言った。世充は詭弁を使って「善し」と言い、戴胄を慰労した。世充が九錫を受けるに至って、戴胄はまた切に諫めたが、聞き入れられなかった。これにより鄭州長史に出向させられ、王行本と共に武牢を守った。世民はこれを攻め陥すと、戴胄を幕府に召し秦王府士曹参軍とした。武昌縣公に封ぜられた。貞観元年(西暦627年)、大理少卿となった。(以下省略)

参考:『旧唐書』列伝第二十 戴胄伝、『新唐書』列伝第二十四 戴胄伝


士曹 閻立徳(閻讓) / 字:立徳(?‐633)

閻讓、字は立徳。字で通称される。京兆萬年の人である。父は隋で殿内少監を務めた閻毗。閻毗は工芸の才能で名を知られ、立徳は弟の閻立本と共に早くに家業を継いだ。武徳年間、秦王府士曹参軍となり、世民の東征に従軍した。また尚衣奉御に任ぜられ、冕、大裘などの六服、腰輿、傘扇などを典式に依って作袞し、人々から賞賛された。貞観年間に将作少匠などを歴任し、太安縣公に封ぜられた。李淵が崩御すると献陵の設営にあたり、そのため将作大匠に抜擢された。貞観十年(636)、文徳皇后(李世民の皇后である長孫氏)が亡くなると、昭陵の設営にあたった。怠慢した人間に連座して解職されたが、にわかに博州刺史となった。世民が洛陽に行幸する際、立徳に避暑のための離宮(襄城宮)を建設させた。宮城は完成したが、その土地は蒸し暑く、また毒蛇が多かったため、世民は襄城宮を廃止し、民に分賜し、立徳を罷免した。貞観十三年(639)、将作大匠に復職した。

貞観十八年(644)、高句麗遠征に従軍し、洪州で軍糧を積むための舟の建造にあたった。師旅が遼東に到着した際、東西二百里に渡ってぬかるみが広まっており、人馬が進むことができなかった。立徳が橋を作って道を補填し、兵は滞りなく進軍できるようになったため、太宗は大いに喜び立徳を褒賞した。詔を受けて翠微宮、及び玉華宮を造営し、人々から賞賛され、甚だ褒賞を受けた。にわかに工部尚書に転遷した。貞観二十三年(649)、昭陵の営護にあたった。世民が崩御すると代理司空となって典陵の事を司り、功労によって大安縣公に封ぜられた。永徽五年(654)、高宗が萬年宮に行幸すると、京師の留守を任された。顕慶元年(656)に卒し、吏部尚書、並州都督を追贈された。昭陵に陪葬され、諡を康と言った。

参考:『旧唐書』列伝第二十七 閻立徳伝、『新唐書』列伝第二十五 閻立徳伝


參軍事 薛元敬(?‐626)(兼文学館学士)

秦王府十八学士列伝訳:薛元敬伝


參軍事 蔡允恭(?‐?)(兼文学館学士)

秦王府十八学士列伝訳:蔡允恭伝


主簿 薛収 / 字:伯褒(592‐624)(兼文学館学士)

薛収、字は伯褒。蒲州汾陰の人である。父は隋で内史侍郎を務めた薛道衡だが、伯父の薛孺の家を継いだ。(続)

参考:『旧唐書』列伝第二十三 薛収伝、『新唐書』列伝第二十三 薛収伝


主簿 李玄道 / 字:元易(577‐645)(兼文学館学士)

秦王府十八学士列伝訳:李玄道伝


典簽 蘇勗/ 字:慎行(?‐?)(兼文学館学士)

秦王府十八学士列伝訳:蘇勗伝


文學 姚思廉 / 字:簡之(557‐637)(兼文学館学士)

秦王府十八学士列伝訳:姚思廉伝


文學 褚亮 / 字:希明(560‐647)(兼文学館学士)

褚亮、字は希明。杭州錢塘の人である。褚遂良の父にあたる。(続)

参考:『旧唐書』列伝第二十二 褚亮伝、『新唐書』列伝第二十七 褚亮


敦煌公府文学 顔師古 / 字:籀(581‐645)

顔師古、字は籀。雍州萬年の人である。父は記室参軍事顔思魯。祖父の顔之推は斉で黄門侍郎を務めた。顔之推は元々瑯邪臨沂に住んでいたが、周、斉に仕え,斉が滅亡するに至って関中に移り住んだ。(続)

参考:『旧唐書』列伝第二十三 顔師古伝、『新唐書』列伝第百二十三 儒学上 顔師古伝)


右元帥府司馬 蕭瑀 / 字:時文(575‐648)(凌煙閣二十四功臣 第九席)

蕭瑀、字は時文。梁武帝の子孫にあたる。父は梁明帝の蕭巋。(続)

参考:『旧唐書』列伝第十三 蕭瑀伝、『新唐書』列伝第二十六 蕭瑀伝


行軍元帥府長史 屈突通(557‐628) (凌煙閣二十四功臣 第十二席)

屈突通、雍州長安の人である。屈突氏は代々昌黎郡徒何県に住んでおり。後に雍州長安に移った。父の屈長卿は周で邛州刺史を務めた。(続)

参考:『旧唐書』列伝第九 屈突通伝、『新唐書』列伝第十四 屈突通伝


司馬 竇誕 / 字:光大(580‐648)

竇誕、竇抗の第三子にあたる。隋の仁寿年間に朝請郎となった。義寧年間に丞相府祭酒となり、殿中監に転じ、安豐郡公に封ぜられた。李淵の娘である襄陽公主を妻とした。世民の薛挙征戦に従軍し、元帥府司馬となった。刑部尚書、太常卿を歴任した。李淵の諸子の内、まだ幼く宮中に住む荊王元景などの家産を一任されていた。のち梁州都督として出向した。

貞観年間、召されて右領軍大將軍に任ぜられ、転じて大理卿となり、莘國公に封ぜられた。太廟を修営し、絹五百段を賜った。殿中監となり、病気によって一度任を解かれたが、宗正卿に復職した。竇誕は病気により、世民と喋っているときも健忘によって受け答えが難しくなった。世民は手ずから詔して彼を慰労し、竇軌を光禄大夫とした。にわかに卒し、工部尚書、荊州刺史を贈官された。謚を安といった。

参考:『旧唐書』列伝第十一 竇誕伝、『新唐書』列伝第二十 竇誕伝、『唐代墓志匯編続集』収録《大唐故光禄大夫工部尚書使持節都督荊州刺史駙馬都尉上柱国莘安公竇府君墓志銘》


天策府長史 唐倹 / 字:茂約(579‐656)(凌煙閣二十四功臣 第二十二席)

唐倹、字は茂約。並州晋陽の人である。祖父の唐邕は北斉で尚書左僕射を務め、父の唐鑑は隋で戎州刺史を務めた。唐倹は豪放な気性で法律を侵すこともあったが、親に篤孝をもって仕えて名を知られていた。父の唐鑑は李淵と交友を持ち、またともに軍事にあたったので、唐倹もまた世民と誼みを結び、常に太原で遊んだ。隋末に動乱が起こり李淵が太原留守となると、唐倹は世民と秘かに話し合い、挙兵についての大計を立てた。(続)

参考:『旧唐書』列伝第八 唐倹伝、『新唐書』列伝第十四 唐倹伝


天策府司馬 封倫(封徳彝) / 字:徳彝(568‐627)

封倫、字は徳彝。觀州蓚の人である。(続)

参考:『旧唐書』列伝第十三 封倫伝、『新唐書』列伝第二十五 封倫伝


軍諮祭酒 蘇世長(?‐?)(兼文学館学士)

秦王府十八学士列伝訳:蘇世長伝


兵曹参軍事 杜淹 / 字:執礼(?‐628)

『旧唐書』列伝第十六 杜淹伝


倉曹 李守素(?‐?)(兼文学館学士)

秦王府十八学士列伝訳:李守素伝


參軍事 顔相時 / 字:睿(?‐645)(兼文学館学士)

秦王府十八学士列伝訳:顔相時伝


(計27名)