太子建成派‐『新唐書』袁朗伝の整理

『新唐書』列伝第百二十六 文藝上 袁朗伝にある李建成・世民・元吉の党について
太子李建成の党とされる14名の正史の列伝の抄訳
『旧唐書』ベースに『新唐書』と『資治通鑑』から補完しています
『新唐書』袁朗伝の整理 / 太子建成派 / 秦王世民派 / 斉王元吉派
参考:『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』『貞観政要』


『新唐書』列伝第百二十六 文藝上 袁朗伝

武徳初、太子李建成、秦王李世民、斉王李元吉は各々勢力を持ち、名臣を致して自助とした。
太子李建成には詹事李綱竇軌、庶子裴矩鄭善果、友賀徳仁、洗馬魏徴、中舍人王珪、舍人徐師謨、率更令欧陽詢、典膳監任璨、直典書坊唐臨、隴西公府祭酒韋挺、記室參軍事庾抱、左領大都督府長史唐憲があった。


詹事 李綱 / 字:文紀(?‐630)

李綱、字は文紀。観州蓚の人である。祖父の李元則は後魏で清河太守を、父の李制は周で車騎大将軍を務めた。はじめ名を瑗、字を子玉といったが、『後漢書』張綱伝を読み、張綱を思慕して綱と改名した。周に仕官し斉王宇文憲の参軍となった。隋の開皇末に太子洗馬となり、隋文帝に信任され尚書右丞となった。李綱は朝廷で左僕射の楊素や蘇威の意見に異を唱えることが多く、この二人と対立した。文帝が劉方を林邑(ベトナム)の討伐に向かわようとした際、楊素は李綱を行軍司馬として出向させるよう推薦し、文帝はこの言葉に従った。劉方は楊素の意を汲み、林邑で李綱を痛めつけ、彼は死ぬような目にあった。林邑から帰還して蘇威から弾劾を受けるも、赦免されて鄠県で屏居した。

大業末に西域の商胡である何潘仁に攫われ、彼の下で長史を務めた。潘仁が李氏の家奴である馬三寶に説得されて唐に降ると、潘仁は李綱を使者として李淵のもとに派遣した。李淵は喜んで李綱を長安に留めて政治を掌握させた(『資治通鑑』巻184)。丞相府司録を授けられ、新昌縣公に封ぜられた。李淵が即位すると礼部尚書となり、太子詹事を兼ねた。李綱は李淵に度々進諫し、李淵もまた李綱の言葉を重んじた。

世民の功績が大きくなると建成は世民に猜疑の目を向けるようになり、また無頼の人間と親しむようになった。李綱は建成を諌めたが聞き入れられず、さらに筮者の言葉もあり辞職を申し出た。李淵は激怒し「何潘仁の長史にはなれたのに、朕の宰相には恥ずかしくてなれないというのか?また東宮で太子の指導役としているのに、なぜ辞職を申し出ることができる」と言い罵ったが、李綱は「潘仁は賊で妄りに人を殺そうとしましたが、その度に私は諌めて止めさせました。ですから奴の長史となっても恥じ入るところはありません。陛下には創業の功績があり、またそれを誇っておられますが、臣は凡劣で才は元凱(八元八凱)に遠く及びません。臣の言葉は石が水を跳ね返すように聞き入れてもらえておりませんのに、どうして久しく尚書となれましょう。また愚臣は詹事も兼ねていますが、太子には卑見を述べても受け入れてもらえず補益するところはありません。故に退職を願い出ているのです。」と言った。李淵は態度を改めると、李綱に礼部尚書、太子詹事、太子少保の三つを兼ねさせた。

武徳二年(西暦619年)、劉文静が叛心を抱いているとして弾劾されると、世民、蕭瑀と共に文静を擁護したが、聞き入れられなかった(新旧唐書劉文静伝)。最初、李綱は建成に礼遇されたが、建成の猜疑心が強いことや狩猟を好むこと、飲酒が過ぎることを諌めても聞き入れられず、鬱々と過ごすようになった。同年に再び退職を申し出、尚書の任を説かれたが、太子少保だけは継続して務めた。李淵は李綱や隋朝の名臣に甚だ礼節を加え、ことあるごとに手敕を賜って賞賛し、彼らをそのように重んじた。世民が即位すると、貞観三年(629)に太子少師となり、貞観五年(631)に85歳で卒した。

参考:『旧唐書』列伝十二 李綱伝、『新唐書』列伝二十四 李綱伝


詹事 竇軌 / 字:士則(?‐630)

竇軌、字は士則。太穆竇皇后の従兄弟にあたる。父の竇恭は周で雍州牧を務め、酂國公に封ぜられた。竇軌は剛毅果断な性格で威厳があった。隋の大業年間に資陽郡東曹掾となったが、後に官を棄て家に帰った。李淵が挙兵すると、竇軌はおよそ千人程の人間を集めて長春宮において李淵を迎えた。李淵はそれを見て大いに喜び、高座から降りて握手し、平生のことについて語り、良馬十匹を賜った。李淵から派遣され渭南を後略すると、永豊倉を落とし、五千の兵を得て長安平定に従った。贊皇縣公に封ぜられ、大丞相諮議参軍となった。稽胡が五万人あまりを率いて宜君に侵攻した際、李淵は竇軌に討伐を命じた。黄欽山にて稽胡の軍と遭遇すると、稽胡は高所に陣取って弓を射てきたため、王師1初唐の軍人。新旧唐書に列伝なし。『貞観政要』によれば、玄武門の変が起きた際に東宮府陣営として応戦した。は軍を撤退させた。竇軌はその部隊の将十四人を斬り、その隊の中小帥をその代わりとした。そして自ら数百騎を率いて殿として軍の後ろにつくと、「鼓の音を聞いて進まない者は後ろから斬る」と命じた。鼓の音が鳴り出すと、士卒は争って敵陣に進み、稽胡は進軍を止められず、これによって竇軌の軍は稽胡を大いに破った。千あまりの首級をあげ、男女二万人を得た。武徳元年(618)に太子詹事となった。

赤排羌が薛挙、鍾倶仇と共に漢中に来寇すると、竇軌は秦州総管に任ぜられ討伐にあたった。連戦して皆勝ち、残党の多くを降将として得た。世民が薛仁杲を平定すると酇国公に進封された。武徳三年(620)、益州道行台左僕射となった。党項が吐谷渾と共に松州に来寇すると、詔を受け扶州刺史の蒋善合と共に救援に向かった。党項と吐谷渾の軍勢は精鋭であり、竇軌より先に到着した蒋善合は鉗川で敗走した。竇軌は臨洮に進軍して左封を攻撃しその部隊を破った。度々羌が来寇するのが患いとなったため、松州において屯田を行うようになった。詔を受け、蜀の兵を率いて世民の王世充征討に従軍した。竇軌が行台僕射屈突通と兵を率いて陣営へ向かっている際、偶然にも王世充軍と出くわした。戦況は不利だったが、世民が救援に駆けつけたので、世充は大敗した。洛陽が平定されると、世民に命じられ蕭瑀と共に府庫を封印にあたった(『旧唐書』太宗本紀)。武徳四年(621)に益州に帰還した。

当時の蜀には賊の来寇が多かったが、竇軌は悉くこれを平定した。竇軌は常に戎服で討伐に臨み、あるときなどは数ヶ月鎧を解かないこともあった。賊を捕らえると、拝命がなくともその部隊の長を処刑した。竇軌は高位に昇っても厳格であり、毎日吏士を鞭打ち、庭は流血で満ちたので、見る者は足を震え上がらせた。入蜀した際、自身の甥を腹心としていたが、ある夜に呼び出してもやってこなかったため、激怒してこれを斬った。また家奴に外出しないよう戒めていたが、あるとき家奴を官厨まで遣いにやり糊を取りに行かせてしまい、これを悔いた。竇軌は家奴に「お前を遣いに行かせたのは私だが、法に照らし合わせれば、お前の頭を切らなければならないのは明らかだ。」と言った。そして部下に家奴を斬るよう命じた。家奴は冤罪であると訴え、監刑者も処断を決められずに入ると、竇軌は怒り両者を合わせて斬った。行台郎中である趙弘安2趙弘安…趙弘安は趙弘智の兄にあたる。趙弘智については舍人徐師謨の欄で後述。は名士として名前が知られていたが、竇軌は常に彼を榜棰(棒打ち)して痛めつけた。

のちに入朝した際、御榻の座を賜ったが、竇軌は容儀が慎ましくなく、また座ったまま詔に答えた。李淵は激怒し、「公が入蜀したとき、車騎・驃騎の従者は二十人もいたが、公は考えるままに斬り殺してしまった。私が車騎を砕いても、公に与えるには足りないだろう」と言った。詔して竇軌を獄に落とした。しかしにわかに釈放され、再び益州の鎮静にあたった。

竇軌と行台尚書の韋雲起3韋雲起については『旧唐書』列伝二十五、『新唐書』列伝二十八に伝がある。雍州萬年の人で、伯父の韋澄は唐武徳年間に國子祭酒、綿州刺史を務めた。雲起は隋の開皇年間に進士となり符璽直長となった。楊廣が揚州に行幸すると、雲起は長安に帰郷した。李淵が挙兵すると長楽宮において謁見し、義寧元年(617)に司農卿に任ぜられ、陽城縣公に封ぜられた。武徳元年(618)、開府儀同三司を加えられ、判農圃監事となった。武徳四年(621)、西麟州刺史となった。趙郡王李孝恭が夔州刺史となると、転じて遂州都督となった。夷獠を懷柔し、民心を手懐けた。益州行台民部尚書となり、転じて行台兵部尚書となった。玄武門の変が起きると、益州で竇軌により殺害された。、郭行方4隋〜初唐代の軍人。正史に列伝なし。の二人は不仲であった。武徳九年(626)に建成が誅殺されると、益州にも詔が到着したが、竇軌はこれを懐に入れて隠してしまった。韋雲起は竇軌に「詔書はどこにあるのか?」と尋ねた。竇軌は詔を示さず、「卿は乱を欲するのか!」と言い、韋雲起を捕らえて殺した。5『旧唐書』列伝二十五 韋雲起伝によると、竇軌は殺戮を多く行い、みだりに獠の謀反を上奏し、集兵を行っていた。また刑罰が厳しく凶暴な性質だったため、雲起は彼の意見に従わないことが多かった。雲起は利殖を規制したり、竇軌に意見することも多く、両者の間には溝が生まれ、互いに猜疑しあうようになった。玄武門の変が起き益州に詔が届くと、竇軌は雲起の弟の慶倹、慶嗣ら親族の多くが東宮に仕えていたことから、知らせを受けた人間が変事を起こすのを警戒し、先に雲起を討つ手配を整えてから変事を告げた。雲起は信じることができず、「詔書はどこにあるのか」と問うと、竇軌は「公は建成の党である。今詔を受けてはいないが、謀反を起こすのは明らかだ。」といい、遂に雲起を殺害した。郭行方は大いに恐れ長安に逃亡し、竇軌はこれを追ったが殺すことができなかった。同年、行台が廃止され、益州大都督に任ぜられ、食邑六百戸を受けた。貞観元年(627)に召し出されて右衛大将軍となった。貞観二年(628)、洛州都督として出向した。洛陽は隋末の動乱もあり荒廃していたが、竇軌は務農政策を徹底し、諸県に命じて生業につかず遊んでいる者をつかまえては仕事につかせた。人々は竇軌を恐れたが、益州は教化され治安は整備された。貞観四年(630)在官のまま卒し、並州都督を追贈された。

参考:『旧唐書』列伝十一 竇軌伝、『新唐書』列伝二十 竇軌伝、『旧唐書』列伝二十五 韋雲起伝


庶子 裴矩 / 字:弘大(547‐627)

裴矩、字は弘大。河東聞喜の人である。祖父の裴佗は後魏で東荊州刺史を、父の裴訥之は北斉で太子舍人を務めた。(続)

参考:『旧唐書』列伝第十三 裴矩伝、『新唐書』列伝第二十五 裴矩伝。『隋書』列伝三十二にも伝がある


庶子 鄭善果 / 字:?(569‐629)

鄭善果、鄭州滎澤の人である。祖先は魏の顕家であった。祖父の鄭孝穆は西魏で少司空、岐州刺史を務めた。父の鄭誠は北周で大将軍を務め、開封縣公に封ぜられた。誠が尉遲迥の討伐にて戦死したため、善果は九歲にして詔によって官爵を継いだ。家人が善果に誠の死を告げ、詔を受けるに及ぶと悲慟を抑えられず、見る者はみな涙を流した。隋の開皇初に十四歳にして武德郡公に改封され、沂州刺史を拝命した。大業中に累轉魯郡太守を務めた。(続)

参考:『旧唐書』列伝第十二 鄭善果伝、『新唐書』列伝第二十五 鄭善果伝


友 賀徳仁(?‐?)

賀徳仁、越州山陰の人である。父の賀朗は陳で散騎常侍を務めた。従兄の賀徳基とともに周弘正に師事し、文章の才能で名を知られた。時の人は「学行の師とすべきは賀徳基であり、華も実も備えているのは賀徳仁である」と言って讃えた。兄弟8人が優秀であったため、漢の荀氏にたとえられ、会稽郡太守の王伯山により賀氏の居住地の甘滂里は高陽と名を改められた。

はじめ陳に仕え、呉興王(陳胤)の友となった。隋に入ると、楊素の推薦を受けて、予章王記室に任ぜられ、予章王楊暕の厚遇を受けた。楊暕が斉王に徙封されると斉王府属となった。楊暕が廃位されると、属官の多くが罪に問われたが、徳仁は忠謹だったことから免罪され、河東司法参軍に任ぜられた。

李淵が起兵すると、建成は隴西公に封ぜられ、徳仁は建成の友に、また庾抱は記室に任ぜられた。唐王朝が立つと太子中舎人となった。老年のため吏職に耐えられないとして、太子洗馬に転じ、蕭徳言や陳子良らと共に東宮学士となった。貞観年間に趙王(李福)の友となり、卒した。

参考:『新唐書』列伝第百二十六 藝文上 賀徳仁伝


洗馬 魏徴 / 字:玄成(580‐643)(凌煙閣二十四功臣第四席)

魏徴、字は玄成。魏州曲城の人である。(続)

参考:『旧唐書』列伝第二十一 魏徴伝、『新唐書』列伝第二十二 魏徴伝


中舍人 王珪 字:叔玠(570‐639)

王珪、字は叔玠。太原祁の人である。祖父の王僧辯は梁で太尉と尚書令を、父の王顗は北斉で樂陵太守を務めた。(続)

参考:『旧唐書』列伝第二十 王珪伝、『新唐書』列伝第二十三 王珪伝


舍人 徐師謨(?‐?)

新旧唐書に列伝なし。『新唐書』列伝第四 隠太子建成伝と『資治通鑑』巻191には、楊文幹の乱に際し当時の舍人徐師謨が建成に挙兵を進言したことが記されている。

 帝遣司農卿宇文穎驛召文幹、元吉陰結穎、使告文幹、文幹遽率兵反。帝以建成首謀、未忍治、即詔捕王珪、魏徴及左衛率韋挺、舍人徐師謨、左衛車騎馮世立、欲殺之以薄太子罪。乃手詔召建成、建成懼、不敢往。師謨勸遂舉兵、詹事主簿趙弘智諫建成捐車服、輕往謝罪。(『新唐書』列伝第四 隠太子建成伝)

上記に名前の見える詹事主簿趙弘智については『旧唐書』列伝第百三十八 孝友と『新唐書』列伝第三十一に列伝がある。河南新安の人であり、祖父の趙粛は元魏で車騎大将軍を父の趙玄軌は隋で陜州刺史を務めた。弘智は母を早くに亡くし、父に篤孝をもって仕えた。《儀禮》、《禮記》、《周禮》、《史記》、《漢書》などの書伝に通じた。隋に仕え司隸従事となった。武徳年間に大理卿郎楚之に推挙され、詹事府主簿となった。また《六代史》の編纂に預かった。武徳年間、秘書丞令狐德棻、斉王文学袁朗ら十数人と共に《藝文類聚》を編纂し、転じて太子舍人となった。藝文類聚の編纂者については別記。


率更令 欧陽詢 / 字:信本(557‐641)

欧陽詢、字は信本。潭州臨湘の人である。祖父の歐陽頠は陳で大司空を務めた。父の歐陽紇は陳で廣州の刺史となったが、謀反の罪で処刑された。詢も連座して罰せられるところであったが、かろうじて(新唐書:匿われて)罪を免れた。陳の尚書であった江総は歐陽紇と旧交があり、詢を引き取って養育し学問を教えた。詢は容貌が甚だ醜かったが、聡明さは人より抜きん出ており、書を読めば一度に数行を読み下すことができた。広く経書や史書を読み、特に三史(『史記』『漢書』『後漢書』)に詳しかった。隋に仕え太常博士に任ぜられた。李淵とはしばしば共に遊び、〔挙兵するに及んで?〕賓客となり、唐が興ると給事中に累遷した。

詢は初め王羲之の書を学んだがその後書風を改め、自らの書風を築き上げた。筆力は險勁であり、その当時の絶とされた。人々は詢の尺牘の文字を得、それを楷書の手本とした。高麗では詢の書が重んじられており、あるとき使者を派遣して彼の書を求めた。李淵は嘆息して「詢の書名がこのように遠くの夷狄にまで伝わっているとは。彼の書からはその体つきの大きさは想像もできないだろう」と言った。武徳七年(624)、詔を受けて裴矩、陳叔達と共に『藝文類聚』一百巻を撰文して奏上し、反物二百段を賜った。あるとき道すがらに索靖の書いた碑を見つけ、それを監察し、数歩歩いて再び戻り、疲れると座り込み、宿に泊りその碑の傍らにいること三日あまりにしてようやく立ち去った。彼の好むところはこのようであり、他に類いはなかった。貞観の初めに太子率更令、弘文館学士となり、渤海県の男爵に封ぜられた。八十五歳で亡くなった。

参考:『旧唐書』列伝第百三十九上 儒学上 欧陽詢伝、『新唐書』列伝第百二十三 儒学上 欧陽詢伝


典膳監 任璨(?‐?)

新旧唐書に列伝なし。『旧唐書』列伝第九 任瓌(任瑰)伝に、建成が誅殺されるに至って、任瑰の弟の璨が当時典膳監を務めていたため、瑰が連座して通州都督に左遷されたことが記されている。

隱太子之誅也、瑰弟、時為典膳監、瑰坐左遷通州都督。(『旧唐書』列伝第九 任瓌伝)

任瓌については『旧唐書』列伝第九と『新唐書』列伝第十五に列伝がある。字は瑋、廬州合肥の人である。陳鎮東大将軍蠻奴の弟の子にあたる。父の任七寶は陳に仕えたが早くに亡くなり、瓌は蠻奴に養育された。19歳で衡州司馬になり、都督の王勇に重用されたが、王勇が隋に降ると官を棄てて家に戻った。李淵が山西の討伐に当たった際に轅門にて謁見し、河東縣戸曹に任命された。太原では建成とともに留守を任された。また龍門で李淵に謁見し、挙兵を勧めた。李淵が即位すると谷州刺史となり、王世充討征で功績を上げ、管國公に封ぜられた。瑰は親戚を多く重用し人事が公平ではなく、妻の劉氏は嫉妬深く残酷であったため、人々はこれを批難した。輔公祏を討伐した功績により、邢州都督となった。玄武門の変が起こると、瑰の弟の璨は典膳監であったため、瑰も連座して通州都督に左遷された。貞観四年(630)に卒した。


直典書坊 唐臨 / 字:本徳(600‐659)

唐臨、字は本徳。京兆長安の人である。祖父の唐瑾は周で内史を務め、伯父の唐令則は開皇末に左庶子となり太子楊勇に仕えたが、楊廣が即位するに至って誅殺された。(続)

参考:『旧唐書』列伝第三十五 唐臨伝、『新唐書』列伝第三十八 唐臨伝


隴西公府祭酒 韋挺(590‐647)

韋挺、京兆萬年の人。父の韋沖は隋に仕え民部尚書となった。挺は若くして李建成と共に親しみ、李淵が長安を陥すと隴西公府祭酒となった。累進して太子左衛驃騎、檢校左衛率となり、建成からの厚遇は宮臣に比べる者がいないほどであった。(続)

参考:『旧唐書』列伝第二十七 韋挺伝、『新唐書』列伝第二十三 韋挺伝


記室參軍事 庾抱(?‐?)

庾抱、潤州江寧の人である。元々は潁川に住んでいたが、祖先が家を移した。祖父の庾衆は陳で禦史中丞を、父の庾超は南平王(陳嶷)の記室を務めた。庾抱は隋の開皇年間に延州参軍事となり、しばらくして調吏部となった。尚書の牛弘(隋の廷臣。楊堅・楊廣の2代にわたり重用された。)は庾抱の学才を知り、書簡などを代筆させた。後に元徳太子楊昭(楊廣の長子)の学士となり、甚だ礼遇された。楊廣の孫(楊昭の子?)の誕生を祝い楊昭が賓客を招いて宴席を開いた際、庾抱は座中で《嫡皇孫頌》を作り賞賛された。後に越巂郡の主簿となったが、病と称して出向しなかった。義寧年間に建成に召されて隴西公府記室となった。唐は建国したばかりで軍務が溢れていたが,公府の檄文は皆庾抱が担当した。転じて太子舍人となったが、幾ばくならずに卒した。著作に文集十巻があった。

参考:『旧唐書』列伝第百四十上 文苑上 庾抱伝、『新唐書』列伝第百二十六上 藝文上 庾抱伝


左領大都督府長史 唐憲 / 字:茂彞(?‐?)

唐憲、字は茂彞。唐倹の弟にあたる。隋代は東宮左勛衛を務めていたが、太子が廃立されると職を辞め故郷へ帰った。細行を治めず狩猟を好み、亡命してから付き合うものは皆博徒軽侠の類いであった。李淵が太原留守になると、甚だ親しんで遇ぜられ、大義に参与することとなった。李淵が挙兵すると正議大夫を授けられ、左右に置かれ、最も信倚するところとなった。安富縣公に封ぜられた。武徳年間に雲麾將軍となり、郡公を加えられた。貞観年間、金紫光祿大夫で終わった。

参考:『新唐書』列伝第十四 唐憲伝

(計14名)


  • 1
    初唐の軍人。新旧唐書に列伝なし。『貞観政要』によれば、玄武門の変が起きた際に東宮府陣営として応戦した。
  • 2
    趙弘安…趙弘安は趙弘智の兄にあたる。趙弘智については舍人徐師謨の欄で後述。
  • 3
    韋雲起については『旧唐書』列伝二十五、『新唐書』列伝二十八に伝がある。雍州萬年の人で、伯父の韋澄は唐武徳年間に國子祭酒、綿州刺史を務めた。雲起は隋の開皇年間に進士となり符璽直長となった。楊廣が揚州に行幸すると、雲起は長安に帰郷した。李淵が挙兵すると長楽宮において謁見し、義寧元年(617)に司農卿に任ぜられ、陽城縣公に封ぜられた。武徳元年(618)、開府儀同三司を加えられ、判農圃監事となった。武徳四年(621)、西麟州刺史となった。趙郡王李孝恭が夔州刺史となると、転じて遂州都督となった。夷獠を懷柔し、民心を手懐けた。益州行台民部尚書となり、転じて行台兵部尚書となった。玄武門の変が起きると、益州で竇軌により殺害された。
  • 4
    隋〜初唐代の軍人。正史に列伝なし。
  • 5
    『旧唐書』列伝二十五 韋雲起伝によると、竇軌は殺戮を多く行い、みだりに獠の謀反を上奏し、集兵を行っていた。また刑罰が厳しく凶暴な性質だったため、雲起は彼の意見に従わないことが多かった。雲起は利殖を規制したり、竇軌に意見することも多く、両者の間には溝が生まれ、互いに猜疑しあうようになった。玄武門の変が起き益州に詔が届くと、竇軌は雲起の弟の慶倹、慶嗣ら親族の多くが東宮に仕えていたことから、知らせを受けた人間が変事を起こすのを警戒し、先に雲起を討つ手配を整えてから変事を告げた。雲起は信じることができず、「詔書はどこにあるのか」と問うと、竇軌は「公は建成の党である。今詔を受けてはいないが、謀反を起こすのは明らかだ。」といい、遂に雲起を殺害した。