人物紹介(『旧唐書』列伝4)

隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5
隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア


【『旧唐書』巻百九 列伝第五十九:馮盎、阿史那社爾、契苾何力】

阿史那社爾(あしなしゃる) / 都布可汗(609?1620年に頡利可汗が即位すると、その子欲谷設(ユクク・シャド/官名)と共に11歳にして鉄勒・回紇の部族を統治したという記述から、609年生まれと推測する説がある。‐655 在位:628?‐635)
処羅可汗の次男。若くして知勇で名が知られ、清廉な人柄で統治にあたり衆望を得た。頡利可汗が滅亡すると兵を率いて独立し、西突厥の領土の半分を奪い都布可汗を自称した。臣下の反対を押し切り薛延陀に挑むも大敗し、民衆統治に挫折して貞観九年(635)に部衆と共に唐へ帰順した。李世民から将軍として信任され、高昌、高句麗、亀茲の討伐に貢献し、また宿願であった薛延陀平定を果たした。世民が崩御すると殉死を望んだが、高宗に制止され叶わず、その六年後に長安で亡くなった。

契苾何力(けいひつかりき)(?‐677)
鉄勒契苾部の出身。契苾哥楞の孫にあたる。族長として伊塞克湖(イシク・クル湖)周辺を統治していたが、貞観六年(632)に部衆を率いて唐に帰順した。吐谷渾・高昌・亀茲・薛延陀・高句麗征戦に従軍し功績を上げた。羈縻政策下で辺境の統治を任ぜられたが部族の人間に背かれ、捕らえられると薛延陀に身柄を送られた。真珠可汗から離反を促されたがその場で耳を切り落し唐への忠誠をダイナミックにアピール。その報せを薛延陀の使者から聞いた世民は何力の忠誠を知って涙した。唐に帰還後は薛延陀を破り、阿史那社爾とともに亀茲平定に尽力した。社爾と同じく李世民が崩御すると殉死を願い出たが、高宗に制止され叶わなかった。


【巻百八十三 列伝第六十三:獨孤懐恩】


【巻百八十七上 列伝第百三十七上 忠義上:夏侯端、劉感、常達、羅士信、呂子臧、張道源、李公逸、李馮立、張善相、李玄通、敬君弘、馮立、謝叔方、王義方】


【巻百八十八 列伝第百三十八 孝友:趙弘智】


【巻百八十九上 列伝第百三九上 儒学上:徐文遠、陸徳明、曹憲、欧陽詢、朱子奢、張士衡、張後胤、蓋文達、文達宗人文懿、蕭徳言、敬播】

陸徳明(陸元朗)(りくとくめい / りくげんろう) / 字:徳明(?‐630) 
諱は元朗。字で通称される。蘇州呉の人。はじめ周弘正に学び玄理をよく談じた。陳で任官して始興国〔王陳叔陵の府の〕左常侍、国子助教を歴任し、陳が滅ぶと帰郷した。楊廣が即位すると秘書学士に抜擢され、国子助教となり、越王楊侗のもとで司業となり、入殿して経学を教えた。王世充が帝を僭称すると、その子である王玄恕の師となり束脩の礼を受けることとなった。徳明はこれを恥じて巴豆散(峻下剤)を服用し、王玄恕が礼拝しても口を利かず、この仮病によって成皋に移され人付き合いを杜絶した。世充が平定されると世民に召し出されて文学館学士となった。李淵が釈奠に臨んだ際、博士の徐文遠、沙門の慧乗、道士の劉進喜を召し出し、それぞれ孝経、般若経、老子を講義させた。徳明はこの三人よりも大義を理解しており、要点をくまなく説き、三人は太刀打ちできなかった。李淵は喜んで「三人とも誠に弁が立つが、徳明は一人で彼らを凌いでしまった。まさに賢というべきだろう」と称えた。著作の多くが世に伝わっており、のちに世民が徳明の遺した『経典釈文』を読み、甚だ感嘆して徳明の家に帛二百段を賜った。

欧陽詢 / 字:信本(557‐6412維基百科情報。
欧陽詢、字は信本。潭州臨湘の人である。祖父の歐陽頠は陳で大司空を務めた。父の歐陽紇は陳で廣州の刺史となったが、謀反の罪で処刑された。詢も連座して罰せられるところであったが、かろうじて(新唐書:匿われて)罪を免れた。陳の尚書であった江総は歐陽紇と旧交があり、詢を引き取って養育し学問を教えた。詢は容貌が甚だ醜かったが、聡明さは人より抜きん出ており、書を読めば一度に数行を読み下すことができた。広く経書や史書を読み、特に三史(『史記』『漢書』『後漢書』)に詳しかった。隋に仕え太常博士に任ぜられた。李淵とはしばしば共に遊び、〔挙兵するに及んで?〕賓客となり、唐が興ると給事中に累遷した。詢は初め王羲之の書を学んだがその後書風を改め、自らの書風を築き上げた。筆力は險勁であり、その当時の絶とされた。人々は詢の尺牘の文字を得、それを楷書の手本とした。高麗では詢の書が重んじられており、あるとき使者を派遣して彼の書を求めた。李淵は嘆息して「詢の書名がこのように遠くの夷狄にまで伝わっているとは。彼の書からはその体つきの大きさは想像もできないだろう」と言った。武徳七年(624)、詔を受けて裴矩、陳叔達と共に『藝文類聚』一百巻を撰文して奏上し、反物二百段を賜った貞観の初めに太子率更令、弘文館学士となり、渤海県の男爵に封ぜられた。八十五歳で亡くなった。

蓋文達(がいぶんたつ) / 字:藝成(5783《唐太傅蓋公墓碑》に拠る。‐644)
冀州信都の人。経典や史書を渉猟し、『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『春秋左氏伝』の三伝に特に通じた。人となりは雅正で鬚貌が美しく、君子の風格を持っていた。冀州刺史であった竇抗が儒生を集め討論を行わせた際、劉焯、劉軌思、孔穎達といった儒家の大家が居並ぶ中、文達は難しい問題にも諸儒の意表をつく答えを出したので、一坐の者はみな感嘆した。竇抗が文達が誰に学問を学んだのか尋ねると、劉焯は「『多きを以て寡きに問う』の言葉の通り、この焯を師としております」と言った。竇抗は「『氷は水から生まれて水よりも冷たい』とはこのことだろう」と感嘆した。世民に召し出されて文学館の学士となり、貞観十年(636)に諫議大夫に転じ、弘文館学士を兼ねた。宗族の蓋文懿も儒業で名が知られ、当時において「二蓋」と称された。


【巻百九十上 列伝第百四十上 文苑上:孔紹安、袁朗、従父弟承序、賀徳仁、庾抱、蔡允恭、張蘊古、張昌齢、崔行功】

袁朗(?‐?)
雍州長安の人で。父は陳で尚書左僕射を務めた袁樞。勤学で文を好んだ。陳で秘書郎となると、江総に才能を認められた。千字詩を作り人々から賞賛された。後主はその才能を聞き袁朗を禁中に召し入れて《月賦》《芝草》《嘉蓮》を作らせ、それらはいずれも賞賛された。太子洗馬・徳教殿学士に累遷した。陳が滅亡すると、隋に仕えて尚書儀曹郎となった。武徳初に斉王府の文学を授けられ、祠部郎中となり、汝南縣に封ぜられ、給事中となった。貞観初に在官のまま死去した。世民は彼を悼んで一日廢朝し、高士廉に対して「朗は私に仕えて日も浅かったが、謹厚な人となりであった。人をして悼惜しよう。」と語った。詔して喪費を給し、その家を見舞った。朗には文集14巻と、詩4首があった。

袁承序(?‐?)
父は陳で尚書僕射を務めた袁憲。武徳年間に建昌令を務めた。承序は任にあって清廉であり、士吏たちは彼を慕った。貞観十三年(639)、世民が中書侍郎の岑文本に「梁、陳で名臣と呼べる者はいるか?また子弟が招引するにふさわしい者はいるか?」と尋ねた。文本は「隋朝の師が陳を平定した際、百官が逃げ出す中ただ尚書僕射の袁憲のみが一人君主の傍におりました。王世充が隋から受禅しようとするや、群僚は上表して禅譲を勧めましたが、憲の子の国子司業の承家は病と称して一人署名することはありませんでした。この父子は忠烈と称するに足るでしょう。また承家の弟に承序がおり、今建昌の県令を務めております。清貞雅操はまことに先風を継いでおりましょう。」と言った。これによって承序は晋王(李治)の友として召し出され、兼ねて侍読となった。後に弘文館学士に抜擢された。

賀徳仁(?‐?)
越州山陰の人。父の賀朗は陳で散騎常侍を務めた。従兄の賀徳基とともに周弘正に師事し、文章の才能で名を知られた。時の人は「学行の師とすべきは賀徳基であり、華も実も備えているのは賀徳仁である」と言って讃えた。兄弟8人が優秀であったため、漢の荀氏にたとえられ、会稽郡太守の王伯山により賀氏の居住地の甘滂里は高陽と名を改められた。はじめ陳に仕え、呉興王(陳胤)の友となった。隋に入ると、楊素の推薦を受けて、予章王記室に任ぜられ、予章王楊暕の厚遇を受けた。楊暕が斉王に徙封されると斉王府属となった。楊暕が廃位されると、属官の多くが罪に問われたが、徳仁は忠謹だったことから免罪され、河東司法参軍に任ぜられた。李淵が起兵すると、建成は隴西公に封ぜられ、徳仁は建成の友に、また庾抱は記室に任ぜられた。唐王朝が立つと太子中舎人となった。老年のため吏職に耐えられないとして、太子洗馬に転じ、蕭徳言や陳子良らと共に東宮学士となった。貞観年間に趙王(李福)の友となり、卒した。

蔡允恭(さいいんきょう)(?‐?) 
荊州江陵の人。梁の左民尚書蔡大業の子。容姿が美しく、詩を巧みとした。隋に仕え、著作佐郎、起居舍人を歴任した。楊廣は詩を賦すと必ず允恭に諷誦させた。楊廣に宮女へ詩を教えるよう遣わせられたが、允恭はこれを深く恥じ入り、度々病気と偽って召し出しに応じなかった。また内史舍人に任ぜられ、宮廷に入って宮人に詩を教えるよう求められたが固辞して従わず、これにより楊廣から疎んじられるようになった。生き辛い。江都の難にあたって、宇文化及に従い西上したが、化及が滅亡すると竇建徳に捕らえられた。世民が建徳を平定すると秦王府に引き入れられ秦府参軍となり、文学館の学士を兼ねた。貞観年間、太子洗馬となり、まもなく致仕して自宅にて卒した。


【巻百九十一 列伝第百四十一 方伎:薛頤、袁天罡、孫思邈】

袁天綱(えんてんこう) / 字:?(573‐645)
袁天罡と記される場合もある。

孫思邈(そんしばく) / 字:?(?‐682)


【巻百九十二 列伝第百四十二 隠逸:王遠知】

王遠知(おうえんち) / 字:方平4『三洞群仙録』巻十八に拠る。(528‐635)


【巻五十五 列傳第五:ソグド系人士の安一族】

安修仁(あんしゅうじん) / 字:?(?‐?)

安興貴(あんこうき) / 字:?(?‐?)
安修仁の兄。

安元寿(あんげんじゅ) / 字:茂齢(607‐683)
安興貴の子。《安元寿墓誌》によれば十六歳にして秦王府の幕僚になり、軍馬の調達を担当した。


【正史に列伝のない官僚】

牛進達(牛秀)(ぎゅうしんたつ / ぎゅうしゅう) / 字:進達(595‐651年1月16日)
諱は秀。字で通称される。《牛進達碑》《牛進達墓誌銘》によれば祖先は隴西の人であり、官職に伴って濮州の雷沢に移住した。曽祖父の牛定は魏の定州刺史・上柱国・平原県公であり、祖父の牛双は北斉の鎮東将軍・淮北太守を務め、父の牛漢は隋で濮州主簿、清漳県令を務めた。進達は隋末に李密の幕僚となり、李密が王世充に敗れると王世充の配下となった。王世充が恭帝楊侗を即位させたことに納得せず、李世民の陣営を訪ねると賢士として礼遇された。李世民が即位すると右武衛中郎となり、魏城男に封ぜられた。貞観十二年(638)には松州へ侵入した吐蕃のソンツェン・ガンポを撃退し、貞観四年(640)には侯君集に従い薛萬均、契苾何力らと高昌征戦に従軍した。貞観十九年(645)、貞観二十一年(647)の李世民の二度の高句麗遠征に従軍し、647年の遠征では百度以上の会戦にことごとく勝利し、左武衛大将軍を拝命した。永徽二年、雍州万年県の邸宅にて五十七歳で死去した。

常何(じょうか) / 字:大来(586‐653)
《常何墓誌銘》によれば汴州浚儀の人で、祖籍は河内郡温県であったという。

周孝範(周紹範)(しゅうこうはん / しゅうしょうはん) / 字:孝範(588‐633)
諱は紹範。字で通称されるほか5《左屯衛大将軍周孝範碑銘》など。、史料によっては武照(武則天)を避諱し周範の名で記される。6『旧唐書』『新唐書』では周範の名で記されている。隋の周法尚の子。


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    620年に頡利可汗が即位すると、その子欲谷設(ユクク・シャド/官名)と共に11歳にして鉄勒・回紇の部族を統治したという記述から、609年生まれと推測する説がある。
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    維基百科情報。
  • 3
    《唐太傅蓋公墓碑》に拠る。
  • 4
    『三洞群仙録』巻十八に拠る。
  • 5
    《左屯衛大将軍周孝範碑銘》など。
  • 6
    『旧唐書』『新唐書』では周範の名で記されている。