『貞観政要』巻第二求諌第四

『貞観政要』巻第二求諌第四より 李世民と魏徴(と劉洎と温彦博)と塩対応問題


「李世民が臣下に指摘されて群臣への態度を和らげる話」は複数の史料に見えます
この漫画では意図的に史料の記述をごちゃ混ぜにしています


上神采英毅、羣臣進見者、皆失舉措。上知之、毎見人奏事、必假以辭色、冀聞規諫。嘗謂公卿曰「人欲自見其形、必資明鏡、君欲自知其過、必待忠臣。苟其君愎諫自賢、其臣阿諛順旨、君既失國、臣豈能獨全。如虞世基等諂事煬帝以保富貴、煬帝既弑、世基等亦誅。公輩宜用此爲戒、事有得失、毋惜盡言。」
(『資治通鑑』巻百九十二)

(訳)
上(太宗)は神のような風采で、英邁剛毅な性質あった。群臣で謁見するものはみな、挙動がしどろもどになった。上はこれを知り、上奏する者を見れば顔色を和らげ、規諫を聞くことを切望した。あるとき公卿へ言った。
「人が自分の姿を見ようとすれば、必ず鏡を必要とする。主君が自らの過失を知ろうとすれば、必ず忠臣を待つものだ。いやしくも主君が自分を賢人だと思って諫めに逆らい、臣下が阿諛追従すれば君は国を失う。臣下もどうして一人全うできようか。虞世基等の如きは煬帝にへつらって富貴を得たが、煬帝が弑逆されると世基等もまた誅殺された。公等は宜しくこれを戒めとしなさい。事に得失があれば、言葉を惜しんではならない。」と。


二月、癸丑、帝與侍臣論安危之本。中書令温彦博曰「伏願陛下常如貞觀初、則善矣。」帝曰「朕比來怠於為政乎?」魏徴曰「貞觀之初、陛下志在節儉、求諫不倦。比來營繕微多、諫者頗有忤旨、此其所以異耳!」帝拊掌大笑曰「誠有是事。」
(『資治通鑑』巻百九十四)

(訳)
二月、癸丑。李世民は侍臣と安危の本質について論じた。中書令温彦博が言った。「陛下が常に貞観の初めの頃であるよう、伏して願い申し上げます。そうあれば大丈夫です。」と。
李世民は言った。「朕は最近政に怠け始めただろうか?」と。
魏徴が言った。「貞観の初めは、陛下は倹約を心がけ、諫言を求めて止みませんでした。この頃は宮殿の改修が多く、進諫する者の考えに不満を表しています。ここが大きく異なるところです。」と。
李世民は手を打って大笑いして言った。「誠にその通りだろう。」と。


上問魏徴曰「羣臣上書可采、及召對多失次、何也?」對曰「臣觀百司奏事、常數日思之、及至上前、三分不能道一。況諫者拂意觸忌、非陛下借之辭色、豈敢盡其情哉。」上由是接羣臣辭色愈温、嘗曰「煬帝多猜忌、臨朝對羣臣多不語。朕則不然、與羣臣相親如一體耳。」
(『資治通鑑』巻百九十四)

(訳)
上が魏徴に尋ねて言った。「群臣の上書に採るべき内容のものがあっても、いざ召し出すと受け答えの覚束ないことが多い。どうしてだろうか?」と。
魏徴は答えた。「臣の見るところ、百司は上奏する際、常に数日その事に思いを巡らせながら、上に謁見すると三分の一も言葉にできません。ましてや諫者は逆鱗に触れるのを恐れるでしょう。陛下が顔色に気を使わなければ、臣も真情を尽くすことなどできません。」と。
上は群臣と接する際、顔つきを温和とするようになった。上はあるとき語った。
「煬帝は猜疑心が強く、朝廷へ臨んでも群臣へ多くを語らなかった。朕は違うぞ。群臣とは一体の如く親しんでいる。」と。


太宗威容儼肅、百僚進見者、皆失其舉措。太宗知其若此、每見人奏事、必借顏色、冀聞諫諍、知政教得失。貞觀初、嘗謂公卿曰「人欲自照、必須明鏡、主欲知過、必藉忠臣。若主自恃賢聖、臣不匡正、欲不危敗、豈可得乎。故君失其國、臣亦不能獨全其家。至於隋煬帝暴虐、臣下鉗口、卒令不聞其過、遂至滅亡、虞世基等、尋亦誅死。前事不遠。公等每看事、有不利於人、必須極言規諫。」
(『貞観政要』巻第二 求諌第四)

(訳)
太宗は容姿に威厳があり厳粛で、進見する百官たちは皆どぎまぎした。太宗はそれを知り、奏事の度に必ず顔色を和らげて諌諍を聞き、政教の得失を知ろうとした。貞観の初めに公卿に語って言った。
「人が自身の姿を照らそうと欲すれば、必ず明鏡を用いる。主君が自身の過失を知ろうと欲すれば、必ず忠臣に頼らなければならない。もし君主が自身を賢聖であると思い込めば、臣は匡正せず、国家の危敗を避けようとしても、できることはなくなる。君主はその国を失い、人臣だけがその家を全うすることもできないだろう。隋の煬帝の如き暴虐に至っては、臣下は口を閉じ、過失を聞かせることもなく、遂に滅亡に至った。虞世基らも誅殺されてしまったではないか。これは遠い日の出来事ではない。公等は世の中を見る度、人民に不利なことがあれば、必ず極言規諌しなさい。」と。


貞觀十六年、太宗每與公卿言及古道、必詰難往復。散騎常侍劉洎上書諫曰「帝王之與凡庶、聖哲之與庸愚、上下相懸,、擬倫斯絕。是知課至愚而對至聖、以極卑而對極尊、徒思自強、不可得也。陛下降恩旨、假慈顏、凝旒以聽其言、虛襟以納其說、猶恐群下未敢對揚。況動神機、縱天辯、飾辭以折其理、援古以排其議、欲令凡蔽何階應答。臣聞、皇天以無言為貴、聖人以無言為德。老君稱『大辯若訥』、莊生稱『至道無言』。此皆不欲煩也。是以齊侯讀書、輪扁竊笑、漢皇慕古、長孺陳譏、此亦不欲勞也。且多記則損心、多語則損氣。心氣內損、形神外勞。初雖不覺、後必為累。須為社稷自愛、豈為性好自傷乎。竊以今日升平、皆陛下力行所到。欲其長久。匪由辯博、但當忘彼愛憎、慎茲取舍、每事敦樸、無非至公、若貞觀之初則可矣。至如秦政強辯、失人心於自矜、魏文宏才、虧眾望於虛說。此才辯之累、較然可知矣。伏願略茲雄辯、浩然養氣、簡彼緗圖、淡焉怡目、固萬壽於南嶽、齊百姓於東戶、則天下幸甚、皇恩斯畢。」
手詔答曰「非慮、無以臨下、非言、無以述慮。比有談論、遂至煩多。輕物驕人、恐由茲道。形神心氣、非此為勞。今聞讜言、虛懷以改。」
(『貞観政要』巻六 慎言語第二十二 また『舊唐書』劉洎伝にも同様の話がある)

(訳)
貞観十六年、太宗が公卿と談論して話が古の道に及ぶと、必ず詰問して再三問答を繰り返した。散騎常侍劉洎上が書して諌めて言った。
「帝王と凡庶、聖哲と庸愚とは、上と下とが甚だしく隔たっております。至愚が至聖に、極卑が極尊に対したとき、ただ自分の力ではどうにもならないことがあるのです。陛下は恩旨を下し、お顔を和らげ、静かに佇んで臣下の言葉を聞き、心を虚しくして臣下の説を聞き入れようとしておりますが、それでもなお群臣は思うように陳述できずにおります。まして神のような知を動かし、弁舌を駆使され、言葉を飾って理を折り、昔の例を引いて臣下の建議を退ければ、凡庸な臣下は何を拠り所に応答すれば良いのでしょうか。
『皇天は物を言わないことを貴び、聖人もまた言わないことを徳とする』と聞きます。老子は『雄弁であることは訥弁のようである』と言い、荘子は『至道には言葉がない』と言っております。みな言葉を煩雑にすることを望まなかったのです。斉侯の読書の最中に輪扁は古人の糟魄であると密かに笑い、漢の武帝が古を慕えば汲黯は非難の言葉を述べました。つまり無駄な行為を好まなかったのです。多くを記憶すれば心を損ない、多く語れば気を損ないます。内に心と気を損なえば、外に肉体と精神を疲れさせます。初めは気付かずとも後になって患いとなるのです。須く社稷のために自愛なさってください。なぜ性質の好むところのために、自らを傷つけましょうか。
謹んで考えますに、今日の太平は、皆陛下の功績です。その国家の長久を求めるならば、弁舌と博学に依ってはなりません。ただ愛憎を忘れ取捨を慎み、諸事に純朴で至公であり、貞観の初めのごとくあれば良いのです。秦の始皇帝は強弁で自矜によって人心を失い、魏の文帝は宏才で虚偽に塗れていたため衆望を欠きました。才能や弁舌がさまたげとなったことがはっきりと分かります。願はくは陛下は雄弁をおさめ、浩然と気を養い、読書を少なくし、ゆったりと目を楽しませ、万年の寿命を南岳のごとく固くされ、百姓を東戸(古代の人君)の世の民と同じになされることです。そうすれば天下は幸甚にして、これ以上の皇恩はございません。」と。
〔太宗は〕手詔して答えていった。「思いを巡らすことがなければ民を治めることはできず、言葉でなければその考えを述べることはできない。この頃は談論するとつい多弁を弄してしまった。物を軽んじ人に驕ることは、このようなことから起きるのだろう。肉体と精神は疲れはしないが、今、直言を聞いた。心を虚しくして改めよう。」と。


貞觀十八年、太宗謂侍臣曰「夫人臣之對帝王、多承意順旨、甘言取容。朕今欲聞己過、卿等皆可直言。」散騎常侍劉洎對曰「陛下每與公卿論事、及有上書者、以其不稱旨、或面加詰難、無不慚退、恐非誘進直言之道。」太宗曰「朕亦悔有此問難、卿言是。當爲卿改之。」
(『貞観政要』巻六 論悔過第二十四)

(訳)
貞観十八年、太宗が侍臣に対して言った。「そもそも人臣が帝王に答える場合には、君主の意に迎合し意向に従い、甘言でご機嫌を取る。朕は今、己の過ちを教えて欲しいと思っている。卿等は皆直言しなさい。」と。
散騎常侍劉洎が答えて言った。「陛下は公卿と事を論じ、また上書がある度に、陛下の御意にかなわないというので、時にはその面前で詰問を加えられます。恥じて退出しない者はおりません。これは直言を誘進する方法ではないでしょう。」と。
太宗は言った。「朕もまた、過去に臣下を詰問したことを後悔している。卿の言葉は至極である。必ず卿のためにこの欠点を改めよう。」と。