『貞観政要』巻第二納諌第五

『貞観政要』巻第二納諌第五より 李世民と張玄素(ちいかわのパロ)



登場人物

 

ちいかわ貞観政要:李世民

李世民さん(りせいみんさん)
唐の二代目皇帝。貞観四年(西暦630年)に東突厥を平定すると、可汗を君主に戴く遊牧国家の酋長らから「天可汗」の号を推戴された。1これ以降、唐の前半期にあって唐のトップリーダーは皇帝号とともに可汗号を併せ持ち、皇帝は漢人に対しては天子として、北アジア・中央アジアの民に対しては「皇帝天可汗」を自称し天可汗として君臨した。これは唐帝国により完成する新たな中華世界の象徴であり、唐はモンゴル高原や中央アジア、東北アジア、ベトナムにまで都護府を設置して支配を拡大し、それまでの統治を実質上容認しながらも、形式上は各地の君主を皇帝のもと州府を統治する臣下として組み込んでいく体制をとった。(荒川正晴編『岩波講座世界歴史第6巻 中華世界の再編とユーラシア東部 4~8世紀』(岩波書店 2022)) 李靖が頡利可汗を破り東突厥を平定したのは貞観四年二月、頡利可汗が長安に送られたのは三月、洛陽宮の改修のために兵卒の徴発が行われ、張玄素の進諌によって取りやめとなったのは六月のこと。2『資治通鑑』巻193

李世民は翌貞観五年(631)に隋の仁寿宮(このとき九成宮と改称)を改修し、同時に洛陽宮の修復も計画したが、民部尚書戴冑(たいちゅう)3戴冑、字は玄胤(573-633)。相州安陽の人。貞正な性質で、才能と器量の持ち主であり、律令を学び文簿に通じた。隋末に門下録事となり、納言蘇威、黄門侍郎裴矩から厚く礼遇された。東都洛陽にて王世充が越王楊侗を擁立すると、その下で給事郎となった。王世充が禅譲を画策すると、王室を補佐して伊尹や周公旦のようにあるべきだと諫め、王世充が九錫を受けるに至るとまた切に諫めたが、聞き入れられなかった。これにより鄭州長史に出向させられ、王行本と共に武牢を守った。李世民がこれを攻め陥すと、戴胄を幕府に召し出し秦王府士曹参軍とした。李世民が即位するとに大理少卿となり、以降は諫議大夫、民部尚書、太子左庶子、吏部尚書などを歴任した。戴冑は明敏にして政務の処断も迅速で、諫議大夫として常に魏徴と共に李世民の側に従った。貞観五年に李世民が洛陽宮を改修しようとすると上表してこれを諌め、李世民からその誠実さを喜ばれた。が上表して諌めたため取りやめとなった。4『旧唐書』戴冑伝しばらくして将作大匠竇璡(とうしん)5竇璡、字は之推(?-633)。竇榮定の子で竇抗の弟。唐の外戚にあたる。に洛陽宮を修繕させたが、完成したものは宮中に池を穿ち山を築くように壮大で、装飾は華美を過ぎていた。李世民は激怒して宮殿を破却し、竇璡を免官した。6『旧唐書』竇璡伝

ちいかわ貞観政要:張玄素

張玄素(ちょうげんそ)
蒲州虞郷の人。官僚を輩出する家柄ではなかったが、隋末に景城県の戸曹を務めた。竇建徳が景城を陥落すると捕らえられて殺されそうになったが、村人数千人が泣いて助命を請願をしたため解放された。竇建徳から治書侍御史に任じられたが固辞して受けず、江都で煬帝が弑逆されたのち再び竇建徳に召し出され、はじめて黄門侍郎を拝命した。李世民によって洛陽が平定されると唐に仕え、景州録事参軍に任じられた。
李世民は皇子であったころから玄素の名を耳にしており、即位すると玄素を召し出して政道について尋ねた。玄素は李世民に、隋末の動乱は隋の皇帝が群臣を信用せず独裁的であったことに原因があるとし、謹んで賢良を選び仕事を委任することの重要性を説いた。また動乱にあって天下を求めて争う者はたかだか十数人にすぎず、ほとんどの民は故郷と身を守るために道義ある勢力へ帰順することを求めたと語り、戦乱を好む者が少ないにも関わらず世が乱れたのは民を安寧にさせなかった人主に責任があるとし、李世民へ隋の危亡を鑑として慎んで政治に臨むよう求めた。李世民はこの言葉を重んじ、玄素を侍御史7侍御台に所属する官。侍御台は三省六部に所属しない皇帝直属の監察・弾劾機関であり、唐代では官僚統制において重要な役割を果たした。に抜擢した。のちに給事中・太子少詹事・太子右庶子などを歴任した。8『旧唐書』張玄素伝より一部抜粋。この進諌を行った当時は給事中を務めており、褒賞として絹五百匹を賜っている。

ちいかわ貞観政要:魏徴

房玄齢(ぼうげんれい)
李世民と張玄素のやりとりの場に同席しており、李世民から玄素への賞賛を聞かされている。

ちいかわ貞観政要:房玄齢

魏徴(ぎちょう)
最後に出てきて張玄素を褒める。

ちいかわ貞観政要:李靖

李靖(りせい)
なんか大きくて9〈靖姿貌瓌偉〉(『旧唐書』李靖伝)つよいやつ。貞観四年に頡利可汗(けつりカガン)を破り東突厥を平定した。
数多くの軍功を挙げたが宰相としては深沈厚重な性質で、宰相会議の場においては喋ることができないかのようであったという。10〈靖性沉厚、每與時宰參議、恂恂然似不能言〉(『旧唐書』李靖伝)(なので鎧ではなくちいかわ族)

補足

 

「エーッ 捕まえたの…?李靖… 頡利可汗を…!!」
『旧唐書』『新唐書』及び『資治通鑑』は、東突厥征戦において大同道行軍副総管張宝相が頡利可汗が捕らえて長安まで連行したと記す。11『旧唐書』太宗本紀、李靖伝、突厥上頡利可汗、『新唐書』李靖伝、突厥上、『資治通鑑』巻193また《阿史那忠墓誌》は、突厥人の阿史那忠が東突厥征戦の最中に頡利可汗を誘い出して捕らえ、長安まで連行したと記す。阿史那忠は阿史那蘇尼失(葉護可汗の子)の子ではじめ名を泥孰といい、唐に帰順後李世民によって忠の名を与えられ、史姓を名乗った。《阿史那忠墓誌》によれば武徳年間に父蘇尼失が李世民と誼みを結んだため、嫡子であった忠も若くして李世民に謁見したという。蘇尼失・忠の父子は唐建国直後から李世民を通じて唐と緊密な関係を保ち、貞観四年の突厥征戦後に父子ともに唐に帰順した。12齊藤茂雄「突厥有力者と李世民-唐太宗期の突厥羈縻支配について-」(『関西大学東西学術研究所紀要』4 2015)また同論文は、隋末唐初期には突厥の有力者が李世民を介して突厥と唐に両属し、太宗期に至って唐の東突厥平定に助力したことを指摘する。

「奪(と)っちゃったかも…ユーラシアの「覇権」…ッ」
李世民は630年に唐の宿敵であった北方の東突厥(東突厥の打ち立てた隋の亡命政権も含まれる)を打倒した。635年には李靖を総大将とした征服によって吐谷渾王国を唐の傀儡政権とし、13吐谷渾王国が最終的に滅亡するのは636年、吐蕃の侵攻を受けてのこと。640年には高昌を征服してその土地を西州と改称して安西都護府を置き、644年と647年に再度の焉耆平定、648年の亀茲平定へと及び、同年〜翌649年には焉耆、亀茲、疏勒、于闐に軍隊を送り込み安西四鎮を設置した。また北方では646年に薛延陀を平定して鉄勒諸部を服属させ、647年には回紇(ウイグル)の酋帥吐迷度(とめいど)の請願を受けて漠北に六つの羈縻府と七つの羈縻州を設置している。このように唐の北方、西域における勢力は太宗一代の間に急速に拡大し、それまでのテュルク系勢力の優勢に取って替わることとなった。14森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(講談社 2016)

「急いで整備しなきゃ…洛陽宮…ッ」
唐の首都である長安は天然の要塞であり防衛に適していたが、交通や輸送の面に弱点があった。これを補完するのが洛陽であり、江北や河南から収集された税米などは一旦はここに集積された。唐は長安を首、洛陽を従とし、二つの都市を相互補完しながら運用したことで知られる。15氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』(講談社 2020)なお太原府を北都とし三都制をとった時期もあるが、唐代を通じて基本的には長安と洛陽を結ぶ領域が政治的中核領域であった。隋から唐初にかけて明確に洛陽を「東都」とし複都制をとったのは楊廣(隋煬帝)と李治(唐高宗)に限られるが、『貞観政要』の説話からも李世民が洛陽を重視していたことが認められる。李世民は貞観十一年(637)には洛州を洛陽宮と改称し、関中本位政策をとった李淵(唐高祖)とは対照的に、洛陽を皇帝の長期にわたる滞在地として整備した。高祖期に軍事的要衝に留まっていた洛陽は太宗期に徐々に「東都」として造営され、これは高宗・則天武后期の洛陽重視、複都制復活の前奏というべき動きであった。16村元健一「隋唐初の複都制―七世紀複都制解明の手掛かりとして」(『大阪歴史博物館研究紀要』15 2017)

「洛陽は天下の中心にあって朝貢の集積にも便利なのに…?」
『旧唐書』張玄素伝において、李世民は洛陽宮の改修を撤回したのち「洛陽は国土の中心であり、四方からの朝貢の道のりも均等になるので、民にとっても利便性があると思っていた。」と述べている。17〈洛陽土中、朝貢道均、朕故修營、意在便於百姓〉(『旧唐書』張玄素伝)また玄素も上奏のなかで「洛陽の地が中国本土の中央にあり、四方からの貢賦の道程が等しいことを知らないわけではないが、土地の形勢は関内には及ばない。」と述べており、李世民と玄素の間で洛陽が朝貢の集積場に適しているという見解は一致していた。18古い例では『史記』巻四周本紀に〈此天下之中、四方入貢道里均。〉(洛陽は天下の中心であり、四方からの朝貢の道のりも均等である)と見える。当時の朝貢には唐という世界帝国を形成・維持する上で重要な意義があり、渡辺信一郎『天空の玉座―中国古代帝国の朝政と儀礼』(柏書房 1996)によれば、唐代においては外蕃国が貢献物を礼物として貢納し、中央が蓄積・加工したそれらを再分配するという一連の行為にかかる互酬性を通じて皇帝と地方・夷狄との従属関係が確認・更新され、同時に帝国の全体的秩序が維持されたという。


原文

貞觀四年、詔發卒修洛陽之乾元殿以備巡狩。給事中張玄素上書諫曰、「微臣竊思秦始皇之為君也、藉周室之餘、因六國之盛、將貽之萬代、及其子而亡、良由逞嗜奔慾、逆天害人者也。是知天下不可以力勝、神祇不可以親恃。惟當弘儉約、薄賦斂。慎終始、可以永固。
方今承百王之末、屬凋弊之餘、必欲節以禮制、陛下宜以身為先。東都未有幸期、即令補葺、諸王今並出藩、又須營構。興發既多、豈疲人之所望?其不可一也。
陛下初平東都之始、層樓廣殿、皆令撤毀、天下翕然、同心欣仰。豈有初則惡其侈靡、今乃襲其雕麗。其不可二也。
每承音旨、未即巡幸。此即事不急之務、成虛費之勞。國無兼年之積、何用兩都之好。勞役過度、怨讟將起。其不可三也。
百姓承亂離之後、財力雕盡、天恩含育、粗見存立、餓寒猶切、生計未安、五六年間、未能復舊。奈何更奪疲人之力。其不可四也。
昔漢高祖將都洛陽、婁敬一言、即日西駕。豈不知地惟土中、貢賦所均、但以形勝不如關內也。伏惟、陛下凋弊之人、革澆漓之俗、為日尚淺、未甚淳和。斟酌事宜、詎可東幸。其不可五也。
臣又嘗見隋室初造此殿、楹棟宏壯、大木非随近所有、多從豫章采來、二千人拽一柱、其下施轂、皆以生鐵為之、若用木輪、便即火出。略計一柱、已用數十萬功、則餘費又過倍於此。臣聞、阿房成、秦人散、章華就、楚眾離、然乾陽畢功、隋人解體。且以陛下今時功力、何如隋日。承凋殘之弊、役瘡痍之人、費億萬之功、襲百王之弊。以此言之、恐甚於煬帝者矣。深願陛下思之。無為由余所笑、則天下幸甚矣。」
太宗謂玄素曰「卿以我不如煬帝、何如桀、紂。」對曰「若此殿卒興、所謂同歸於亂。」太宗嘆曰「我不思量、遂至於此。」顧謂房玄齡曰「今得玄素上表、洛陽實亦未宜修造、後必事理須行、露坐亦復何苦。所有作役、宜即停之。然以卑干尊、古來不易、非其至忠至直、安能如此。且眾人之唯唯、不如一士之諤諤。可賜絹二百匹。」魏徵嘆曰「張公遂有回天之力、可謂仁人之言、其利溥哉。」
(『貞観政要』巻第二納諌第五)

(訳)
貞観四年、李世民は詔を出して徒卒を派遣して洛陽宮内の乾元殿19洛陽宮の正殿。元の名を乾陽殿と言った。楊廣によって隋の大業元年(605)に建設がはじまり、翌二年には乾陽殿で朝賀が行なわれた。武徳四年(621)に李世民が洛陽の王世充を平定すると、その壮麗であることを嘆き、端門楼を撤去させ、乾陽殿を焼き払わせ、則天門と闕を破却した。(『資治通鑑』巻189)張玄素の進諌により改修は中断していたが、李治により麟徳二年(665)に洛陽宮の造営が行われ、乾元殿が落成された。(『旧唐書』高宗本紀)を修理し、地方巡狩20天子が各地の四方の視察を行うこと。『孟子』梁惠王下に〈天子適諸侯曰巡狩。巡狩者巡所守也〉(天子が諸侯に行くことを巡狩という。巡狩とは守るところを巡ることである。)とある。同じ意味で巡幸ともいう。の際に備えさせた。給事中21門下省に属し、殿中の奏事を司り天子の左右に侍する官。詔勅、裁判、役人の人事などに違失があればそれを駁正する権限を有した。また貞観の初年には給事中・諌議大夫が起居注を兼ね記録を司った。の張玄素が上書して諌めて言った。
「臣がひそかに思いますに、秦の始皇帝は周王室の余威に頼り、六国の盛大に基づいて天下を統一し、帝位を万代に残し伝えようとしましたが、子の代に及んで滅びてしまいました。これは嗜欲を逞しくし欲に走り、天に逆い人民を害したからです。これからわかるのは、天下は力によって勝つことができず、天地の神々は親しみ祭ったからといって頼りにできないということです。ただ倹約を広め、税を薄くし、謹んだ態度が終始変わらなければ、国家は永久に堅固であるでしょう。
しかし今は、百王の末を受け継ぎ、凋弊した後の世であります。22隋末の動乱の後の世を指す。ですから必ず礼制よって節度を持たせようとすれば、陛下が宜しく規範を示されるべきであります。陛下はいまだに行幸の時期ではないにもかかわらず東都洛陽の補修を命じられましたが、諸侯となって地方に出ている諸王たちも〔李世民に倣い〕土木工事を起こすに違いありません。工事によって労役に駆り出されることが、疲弊した民の願いでありましょうか?これが問題のその一であります。
また陛下が洛陽を平定したはじめ、高い楼閣や広い宮殿はすべて撤毀せしめたため、天下の人々は心を同じくして喜び仰ぎ慕いました。23前述(『資治通鑑』巻189)はじめその驕奢を憎みながら、今その華美を受けつぐということがありましょうか。これが問題のその二であります。
また陛下の仰せをお受けするに、すぐに巡幸はなされません。これは不急不急の務めを設け、いたずらに費用を浪費するだけのものであります。国に二年を支える蓄積も無いのに、なぜ両都の心好を必要となさるのでしょう。労役は度を過ぎ、恨みの声がまさに上がろうとしております。これが問題のその三であります。
民は乱離の後を受け、財力は尽き果て、天恩によって包容して育てられてようやく生きられるようになりました。飢寒はいまだ身に迫り、生計はいまだに安定しておりません。まだ五、六年の間は、以前のように元通りにはならないでしょう。どうしてその上に疲人の力を奪おうというのでしょうか。これが問題のその四であります。
昔漢の高祖(劉邦)は洛陽に都しようとしましたが、婁敬の一言によって即日西の長安へ向かいました。24この話は『史記』婁敬伝に見える。洛陽の地が中国本土の中央にあたり、四方からの貢賦の道程が等しいことを知らないわけではありません。ただ土地の形勢は関内に及ばないからであります。伏して考えるに、陛下は凋弊した人民を化し、道徳の衰えていた風俗を改めましたが、その月日は浅く、まだ十分に淳和したわけではありません。このように事情を斟酌するに、どうして洛陽へ行幸して宜しいものでしょうか。これが問題のその五であります。
臣はかつて隋王朝の初期にこの宮殿を作るのを見ましたが、柱や棟木(むなぎ)は宏壮で、そのような大木は近くにあるものではなく、多くは南方の豫章より伐採されたものでありました。二千人がかりで一本の柱を引き、柱の下に轂(こしき)を施し、轂はみな生鉄で作られております。もし木の輪を用いれば〔摩擦によって〕火が出てしまうからです。あらましで一本の柱を運ぶ費用を計算すれば、のべ数十万の人夫が用いられており、その他の費用はこれの倍以上となりましょう。臣の聞きた言葉に〈阿房宮が建ち、秦人は散り散りになった、章華の台が建ち、楚衆は離れ離れになった〉とあります。25『漢書』東方朔伝に〈靈王起章華之臺而楚民散、秦興阿房之殿而天下亂〉(霊王が章華の台を起こして楚民は散り、秦が阿房の殿を興して天下は乱れた)とある。そして乾陽殿が建ち、隋の民はバラバラになってしまいました。そのうえにかかる陛下の今度の労力を、隋のときと比べていかがお考えになりますか?凋残の後を受けて瘡痍の民を使役し、億万の労力を費やして百王の悪事を踏襲しております。このような点からいうなれば、恐らくは煬帝よりも甚だしいことがありましょう。深く願いますに、陛下もこのことをよくお考えくださいますよう。〔昔秦の穆公が宮殿を誇示して〕由余に笑われるようなことがなければ、26由余は秦代の西戎の人。秦への遣いとなった際、繆公から宮室や積聚(物品や銭財がたんまりある様子)を示されたが、これを中国が乱れる理由だとして笑ったという。(『史記』秦本紀第五)それが天下の幸甚であるのです。」と。
李世民は玄素に言った。「卿は朕を煬帝にも及ばないというが、桀、紂27夏の桀王と殷の紂王。ともに暴君とされる。と比べてどうであろうか?」と。玄素は答えて、「もしこの殿の工事が興りますれば、古語にいう〈同じく乱に帰するなり〉28『書経』蔡仲之命篇に〈為善不同、同歸于治、為惡不同、同歸于亂〉(善をなすにもいろいろあるが、結果が治になることは同じである。悪をなすにもいろいろあるが、結果が乱になるのは同じである)とある。でありましょう。」と言った。李世民は嘆息して、「私はよく思慮せず、このようになってしまった」と言った。また房玄齢を振り返って、「たった今玄素の上表を得たが、洛陽はまだ修造するべきではない。後日事情があって行かねばならなくなったとしても、雨ざらしに座ったところで少しも苦ではない。あらゆる作役は即刻停止すべきである。しかしながら、身分の低い者が尊い者へ意見を述べるのは、古来から易しいものではない。その人が至忠至直でなければ、どうしてこのようなことができようか。衆人の唯唯は、一士の諤諤には及ばない。29『史記』商君伝に〈千人之諾諾、不如一士之諤諤〉(千人の唯唯諾諾は、一人の直言に敵わない)とある。玄素には絹五百匹を賜うべきである。」と言った。魏徴は嘆息し、「張公には天を回転させる力がある。〔古語にある〕〈仁人の言、其の利博きかな〉30『左伝』昭公三年に〈君子曰、仁人之言、其利博哉〉(仁徳のある人の言葉は、広く大きな利益をもたらす)とある。というべきものである。」と言った。(参考:原田種成『新釈漢文大系95 貞観政要 上』(明治書院 1978))


  • 1
    これ以降、唐の前半期にあって唐のトップリーダーは皇帝号とともに可汗号を併せ持ち、皇帝は漢人に対しては天子として、北アジア・中央アジアの民に対しては「皇帝天可汗」を自称し天可汗として君臨した。これは唐帝国により完成する新たな中華世界の象徴であり、唐はモンゴル高原や中央アジア、東北アジア、ベトナムにまで都護府を設置して支配を拡大し、それまでの統治を実質上容認しながらも、形式上は各地の君主を皇帝のもと州府を統治する臣下として組み込んでいく体制をとった。(荒川正晴編『岩波講座世界歴史第6巻 中華世界の再編とユーラシア東部 4~8世紀』(岩波書店 2022))
  • 2
    『資治通鑑』巻193
  • 3
    戴冑、字は玄胤(573-633)。相州安陽の人。貞正な性質で、才能と器量の持ち主であり、律令を学び文簿に通じた。隋末に門下録事となり、納言蘇威、黄門侍郎裴矩から厚く礼遇された。東都洛陽にて王世充が越王楊侗を擁立すると、その下で給事郎となった。王世充が禅譲を画策すると、王室を補佐して伊尹や周公旦のようにあるべきだと諫め、王世充が九錫を受けるに至るとまた切に諫めたが、聞き入れられなかった。これにより鄭州長史に出向させられ、王行本と共に武牢を守った。李世民がこれを攻め陥すと、戴胄を幕府に召し出し秦王府士曹参軍とした。李世民が即位するとに大理少卿となり、以降は諫議大夫、民部尚書、太子左庶子、吏部尚書などを歴任した。戴冑は明敏にして政務の処断も迅速で、諫議大夫として常に魏徴と共に李世民の側に従った。貞観五年に李世民が洛陽宮を改修しようとすると上表してこれを諌め、李世民からその誠実さを喜ばれた。
  • 4
    『旧唐書』戴冑伝
  • 5
    竇璡、字は之推(?-633)。竇榮定の子で竇抗の弟。唐の外戚にあたる。
  • 6
    『旧唐書』竇璡伝
  • 7
    侍御台に所属する官。侍御台は三省六部に所属しない皇帝直属の監察・弾劾機関であり、唐代では官僚統制において重要な役割を果たした。
  • 8
    『旧唐書』張玄素伝より一部抜粋。
  • 9
    〈靖姿貌瓌偉〉(『旧唐書』李靖伝)
  • 10
    〈靖性沉厚、每與時宰參議、恂恂然似不能言〉(『旧唐書』李靖伝)
  • 11
    『旧唐書』太宗本紀、李靖伝、突厥上頡利可汗、『新唐書』李靖伝、突厥上、『資治通鑑』巻193
  • 12
    齊藤茂雄「突厥有力者と李世民-唐太宗期の突厥羈縻支配について-」(『関西大学東西学術研究所紀要』4 2015)また同論文は、隋末唐初期には突厥の有力者が李世民を介して突厥と唐に両属し、太宗期に至って唐の東突厥平定に助力したことを指摘する。
  • 13
    吐谷渾王国が最終的に滅亡するのは636年、吐蕃の侵攻を受けてのこと。
  • 14
    森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(講談社 2016)
  • 15
    氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』(講談社 2020)なお太原府を北都とし三都制をとった時期もあるが、唐代を通じて基本的には長安と洛陽を結ぶ領域が政治的中核領域であった。
  • 16
    村元健一「隋唐初の複都制―七世紀複都制解明の手掛かりとして」(『大阪歴史博物館研究紀要』15 2017)
  • 17
    〈洛陽土中、朝貢道均、朕故修營、意在便於百姓〉(『旧唐書』張玄素伝)
  • 18
    古い例では『史記』巻四周本紀に〈此天下之中、四方入貢道里均。〉(洛陽は天下の中心であり、四方からの朝貢の道のりも均等である)と見える。
  • 19
    洛陽宮の正殿。元の名を乾陽殿と言った。楊廣によって隋の大業元年(605)に建設がはじまり、翌二年には乾陽殿で朝賀が行なわれた。武徳四年(621)に李世民が洛陽の王世充を平定すると、その壮麗であることを嘆き、端門楼を撤去させ、乾陽殿を焼き払わせ、則天門と闕を破却した。(『資治通鑑』巻189)張玄素の進諌により改修は中断していたが、李治により麟徳二年(665)に洛陽宮の造営が行われ、乾元殿が落成された。(『旧唐書』高宗本紀)
  • 20
    天子が各地の四方の視察を行うこと。『孟子』梁惠王下に〈天子適諸侯曰巡狩。巡狩者巡所守也〉(天子が諸侯に行くことを巡狩という。巡狩とは守るところを巡ることである。)とある。同じ意味で巡幸ともいう。
  • 21
    門下省に属し、殿中の奏事を司り天子の左右に侍する官。詔勅、裁判、役人の人事などに違失があればそれを駁正する権限を有した。また貞観の初年には給事中・諌議大夫が起居注を兼ね記録を司った。
  • 22
    隋末の動乱の後の世を指す。
  • 23
    前述(『資治通鑑』巻189)
  • 24
    この話は『史記』婁敬伝に見える。
  • 25
    『漢書』東方朔伝に〈靈王起章華之臺而楚民散、秦興阿房之殿而天下亂〉(霊王が章華の台を起こして楚民は散り、秦が阿房の殿を興して天下は乱れた)とある。
  • 26
    由余は秦代の西戎の人。秦への遣いとなった際、繆公から宮室や積聚(物品や銭財がたんまりある様子)を示されたが、これを中国が乱れる理由だとして笑ったという。(『史記』秦本紀第五)
  • 27
    夏の桀王と殷の紂王。ともに暴君とされる。
  • 28
    『書経』蔡仲之命篇に〈為善不同、同歸于治、為惡不同、同歸于亂〉(善をなすにもいろいろあるが、結果が治になることは同じである。悪をなすにもいろいろあるが、結果が乱になるのは同じである)とある。
  • 29
    『史記』商君伝に〈千人之諾諾、不如一士之諤諤〉(千人の唯唯諾諾は、一人の直言に敵わない)とある。
  • 30
    『左伝』昭公三年に〈君子曰、仁人之言、其利博哉〉(仁徳のある人の言葉は、広く大きな利益をもたらす)とある。