人物紹介(凌煙閣二十四功臣)

隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5
隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア


凌煙閣二十四功臣(りょうえんかくにじゅうよんこうしん)
唐の中国統一と李世民の即位、及び貞観代の治政に貢献し、李世民から褒称された二十四名の家臣を指す。
貞観十七年(西暦643年)に李世民が功臣を褒賞し、画家である閻立本に凌煙閣(長安城東北部に位置する小楼)に功臣二十四名の絵を描かせたことに由来する。1『旧唐書』長孫無忌伝。


功臣第一席 長孫無忌(ちょうそんむき) / 字:輔機(?2維基百科によれば594年生まれ。‐659)
河南洛陽の人。隋の長孫晟の子。長孫皇后の兄。若くして学問を好み文史に広く通じた。また聡慧で才略があった。長孫氏の兄にあたり、李世民と若くして交友を持った。李淵が挙兵すると長春宮にて謁見し、李世民の下で渭北道行軍典簽となった。李世民と李建成の対立が深まると房玄齢と共にいち早く決起を進言し、玄武門の変では功第一席とされた。実務能力に優れ処世を徹底して慎ましく、「理に則り迅速に事の決裁にかけては、古人でも及ぶものがいない」と李世民から評された。褚遂良と共に李治の後見を託され、二人が李治を輔政した時代は朝廷に貞観代の遺風が残っていたという。高宗朝で朝廷で対立した人間の排斥を果敢に行なったが、許敬宗・李勣らが武照(則天武后)の立后を擁立すると失脚し、顕慶四年(659)に自縊を令され死去した。


功臣第二席 李孝恭(りこうきょう)(591‐640)
唐の宗室西平懐王李安の子。李淵が長安を平定すると左光禄大夫に任命され、にわかに山南道招尉大使となった。李靖の補佐を受けて蕭銑、輔公祏討伐で指揮をとり功績を挙げた。貞観年間に礼部尚書となり河間郡王に封じられた。豪奢を好み歌舞や遊宴を多く開いたが、寛容で人に謙譲し驕った様子を見せなかった。李世民からは李道宗と共に宗室で最も重んじられた。孝恭の死について『旧唐書』は「暴薨」、『新唐書』は「中飲暴薨」とするが、『冊府元亀』巻298宗室は「唐河間王孝恭、頗好酒德、太宗貞觀中、與唐儉等聚宴、醉甚、夜臥街中樹下、及旦而薨」とする。唐倹らとの聚宴にてしこたま酔っ払い、夜に街中の樹下に臥して亡くなったらしい。アルコール中毒?脳卒中?


功臣第三席 杜如晦(とじょかい) / 字:克明(585‐630)
京兆杜陵の人。父は隋に仕えた杜吒。若くして聡悟であり、好んで文史を談じた。隋の大業中に常調を以て選に授かり、吏部侍郎の高孝基から才能を認められた。滏陽県尉を務めたが棄官し、李淵が挙兵すると李世民に召し出されて秦王府兵曹参軍となった。ときに秦王府の英俊の多くが外州に遷任されたため、李世民はこれを憂いていた。房玄齢が「府僚に去る者が多くとも、惜しむに足りません。しかし杜如晦は聡明識達、王佐の才の持ち主です。もし大王が藩を守り端拱すれば用いるところはありません。しかし四方を経営しようと欲すれば彼以外の人物はいないでしょう」と説くと、上奏して秦王府にとどめ置かれた。薛仁杲、劉武周、王世充、竇建徳征戦に従軍し参謀として功績をあげた。天下統一後は秦王府十八学士の筆頭となった。策謀に長じた房玄齢に対し杜如晦は決断力に優れた。李世民が玄齢と事を謀ると玄齢は如晦に判断を委ね、如晦は常に玄齢の策を取るよう決断した。貞観三年(629)冬に体を病み、翌貞観四年(630)に逝去した。李世民は深く如晦の死を悼み、彼を思い出す度に涙した。


功臣第四席 魏徴(ぎちょう) / 字:玄成(580‐643)
鉅鹿曲城の人。はじめ李密に仕えたが敗戦して唐に降り太子洗馬となった。王珪とともに早くから李建成に李世民を排するよう進言したが聞き入れられなかった。李世民が玄武門の変の後に魏徴を召し出し「何故汝は私たち兄弟の仲を離間したのか」と詰問すると、自若とした態度で「太子が私の言葉を早急に用いていれば、今日の禍は起こりませんでした」と返した。李世民は元々魏徴の才能を知っていたため態度を改めて礼を取り、魏徴に諫議大夫、秘書監、門下侍中など重職を歴任させた。抗直で経国の才を持ち、李世民を知己として知りて言わざることはなかった。李世民曰く前後三百余事の諫言があり(『貞観政要』定本)、みな理に適っていたという。


功臣第五席 房玄齢3『旧唐書』房玄齢伝は〈房喬、字玄齡〉と玄齢を字、喬を諱とする。『新唐書』房玄齢伝は〈房玄齡、字喬〉と諱を玄齡、字を喬とする。《房玄齢碑》は『新唐書』と同様玄齢を諱、喬を字とする。(ぼうげんれい) / 字:喬(579‐648)
齊州臨淄の人。父は隋で涇陽令を務めた房彦謙。幼くして聡明であり、隋朝の滅亡を予見し父彦謙から見識を奇とされた。十八歳で本州の進士に挙げられ、羽騎尉を授けられが楊諒の乱に連座して除名され、持ち場を得ず諷讀に努めて過ごした(『冊府元亀』巻九百二十五)。李世民が渭北に進軍すると自ら軍門を訪ね、その日に渭北道行軍記室参軍に抜擢された。玄齢は李世民を知己とし、軍が賊寇を平定する度に英俊を入幕させ、彼らと共に死力を尽くした。李建成と李世民の対立が深まると、玄齢は先んじて長孫無忌に「今すでに嫌隙が生じ、禍いはまさに起ころうとしている。ひとたび発端があれば必ずや大乱が起こるだろう。周公の故事に従って外に中原を安んじ内に宗廟社稷を安んじ、孝養の礼を尽くすより最善の策はない。国家の滅亡よりも、身名を滅ぼす方が良いではないか」と説いた。李建成の讒言により杜如晦と排斥を受けたが、秘かに李世民に呼び寄せられ入閣して事を謀った。論功行賞では第一等となり、李世民が即位すると尚書左僕射となった。玄齢は百司を任総する立場でありながら昼夜心を尽くして職務に勤しみ、吏事に明達し法令の審定は公正で、論者は彼を良相と称えた。


功臣第六席 高士廉(高倹)(こうれしれん / こうけん) / 字:士廉(576‐647)
諱は倹。字で通称される。渤海蓨の人。北斉の楽安王高勱の子で、妹が長孫晟に嫁いでおり、晟の死後妹と共に長孫兄妹を引き取った。隋代に斛斯政に連座し朱䳒県に左遷された。隋末には交趾太守であった丘和に従っていたが、武徳五年(622)丘和と共に唐に帰順した。玄武門の変では無忌と共に策謀を立てた。李世民から甚だ敬意をもって親しまれ、宰相として重用されたが、表奏の殆どを焚稿し、その功績は朝廷でも知られていなかった。太宗の命を受け貞観十二年(638)に岑文本らと『氏族志』(『貞観氏族志』)を編纂した。当初『氏族志』においては山東の崔氏が一等と格付けされていたが、李世民によって当時の朝廷の品秩を基準として再編纂を命じられ、皇族を第一とし、外戚を次等とし、崔氏は第三に降格された。『氏族志』は時宜に相応すると称され、唐初において魏晋南北朝来の貴族勢力の衰退・再編成を示すとされる。


功臣第七席 尉遅敬徳(尉遅恭)(うっちけいとく / うっちきょう) / 字:敬徳(585‐658)
諱は恭。字で通称される。朔州善陽の人。隋大業末に高陽で従軍し、群賊を捕らえて武勇で称され朝散大夫となった。劉武周が挙兵すると偏将となり、宋金剛と共に晋、澮の二州を陥落し、獨孤懐恩と唐倹らを捕らえた。武徳三年(620)、殷開山、秦叔寶の軍と美良川で戦い、安邑にて李世民の襲撃を受け大敗し、介休と永安を挙げて陣営に降った。驍勇な性質を殷開山や屈突通から警戒視されたが、李世民から厚く礼遇され、王世充・竇建徳、劉黒闥征戦に従軍し功績をあげた。李建成と李世民の対立が深まると長孫無忌・侯君集らと共に決起を迫った。玄武門の変では李元吉から李世民を救出し、李淵のもとに使者として赴き功第一席となった。戦場で李世民を救う騎士力に定評がある。功績を誇り直実な性格であり、房玄齢や杜如晦、長孫無忌の欠点を指摘するなど周囲との衝突も多かった。また直情的な性格で、貞観六年(632)の宴会では席順に不満を持ち、上座に座る人間4『資治通鑑』巻194胡三省注が引く柳芳『唐暦』では宇文士及とする。を罵倒すると、仲裁に入った李道宗の顔面を殴打した。李世民の高句麗遠征に反対し識者から称されたが、従軍して駐蹕山にて高句麗の軍を破った。晩年は仙道を信奉し、人との交友を断ち隠居に務めた。


功臣第八席 李靖(りせい) / 字:薬師(571‐649)
雍州三原の人。『舊唐書』李靖伝は本名を薬師とする。父は隋で趙郡守を務めた李詮。姿貌が立派で逞しく若くして文武の才を持ち、常に親しい人間に「大丈夫が人主に遭えば、必ずや功を立て富貴を得るものだ」と語った。また叔父の韓擒虎と共によく兵法について論談した。隋大業末に馬邑郡丞となると、突厥の討伐に任ぜられていた李淵の四方の志を察し、自ら江都へ詣で楊廣に異変を伝えようとした。しかし長安までの道が塞がれており、李淵が長安を平定すると捕らえられた。まさに処刑されようとすると、「公は挙兵して天下のために暴虐を除き、民を安らげ大事を成し遂げようとしているが、なぜ私怨によって壮士を殺そうとするのか」と大呼した。李世民は李淵に強く助命を請願し、李靖を幕僚に加えた。李孝恭の征討を副官として輔佐し、蕭銑、輔公祏討伐で多大な功績をあげた。世民即位後は東突厥、吐谷渾征戦において指揮をとり、貞観代の外征事業の中心となった。王珪は李靖を評し、「才は文武を兼ね、出れば将軍、入りては宰相となる」と語った。思慮深く落ち着いた性格だが、突厥征戦では現場の判断で軍を動かし、頡利可汗を捕らえるも帰還後に蕭瑀から弾劾を受けた。李世民は度々李靖の瑕疵を庇い、兄のように慕って臣下の礼を取らなかった。李靖と李世民の兵法についての問答をまとめた『李衛公問対』(仮託書)は武経七書の一つに数えられている。


功臣第九席 蕭瑀(しょうう) / 字:時文(575‐648)
南梁の明帝蕭巋の子。幼くして仏教を好み、劉孝標の『弁命論』へ反証して『非弁命論』を作り、ときの儒者に賞賛された。南梁が滅亡し姉の蕭氏が隋の晋王楊廣の妃となると蕭瑀も長安に同行した。楊廣が即位し蕭妃が皇后(煬愍蕭皇后)となると外戚として重用されたが、楊廣の意に背く諫言を行なったため隋末に河池郡守に左遷された。李淵が長安を平定すると招かれて帰順し、信任を受けて諸政務を掌握し蕭郎と呼ばれ重んじられた。しかし李淵の遷都の建議に納得せず、また仏教弾圧に反対を貫いた。李世民が即位すると尚書左僕射となり重用された。蕭瑀が封徳彝と対立すると、房玄齢らは徳彝を慕い蕭瑀と疎遠になった。蕭瑀は狭量で玄齢らの小さな過失を咎め、朝廷を乱し李世民の不興を買った。李世民から『疾風に勁草を知る』の詩を送られ「死するの日と雖も猶ほ生ける年の如し」と返すなど、デレるときはデレる。


功臣第十席 段志玄(段雄)5《唐故輔國大将軍右衛大将軍揚州都督褒忠壮公段公碑銘》に拠る。(だんしげん / だんゆう) / 字:志玄(598‐642)
諱は雄。字で通称される。斉州臨淄の人。父の段偃師は隋末に太原郡司法書佐を務め、李淵が挙兵すると郢州刺史となった。志玄は容貌が逞しく若いうちから無頼となって度々法を犯した。多くの遊侠が彼を恐れたが、そのために李世民から知られ甚だ厚く接待された。李淵が挙兵すると兵士千人余りを集め右領大都督府軍頭となった。霍邑、下絳郡、永豊倉平定において皆先鋒を務め、劉文静に従って潼関で屈突通を拒んだ。李世民に従軍し王世充、竇建徳征戦で功績をあげた。李建成と李元吉は競って金帛を与え志玄を李世民から離反させようとしたが、拒絶して李世民にそのことを伝えた。貞観十六年(642)に病のため亡くなった。


功臣第十一席 劉弘基(りゅうこうき)(582‐650)
雍州池陽の人。父は隋の河州刺史の劉昇。若くして侠客との交友を好み家のことをかえりみなかった。父の蔭官により任官されたが高句麗遠征を忌避し、耕牛を屠殺し、隠れて官吏を批難したため県獄に繋がれた。しばらくして釈放され、馬を盗んで自活した。太原で李世民と誼みを結び彼の賓客となった。李世民とは出陣すれば騎を連ね、邸内では寝起きを共にした。李世民の下で殷開山を補佐し、長安が平定されると功績第一として右驍衛大将軍に任ぜられた。李世民の征戦に従い薛仁杲、劉武周、劉黒闥征戦で功績をあげた。玄武門の変に参与したが、李孝常らと交友があったため翌年に謀反の罪に連座して庶民に落とされた。にわかに易州刺史となり衛尉卿に任ぜられた。老年のため骸骨を乞うと輔国大将軍となった。遼東遠征では前軍大総管に任ぜられ、駐蹕山にて高延壽を討った。


功臣第十二席 屈突通(くつとつつう) / 字:坦豆抜6《大唐故左光禄大夫蒋国公屈突府君墓誌銘》に拠る。(557‐628)
雍州長安の人。楊堅(隋文帝)と楊廣(隋煬帝)の二帝に仕えた。李淵が挙兵すると隋の将軍として抗戦したが、劉文静の軍に潰滅させられ唐に投降した。李淵は屈突通の忠義を高く評価して信任し、兵部尚書に任じ、蒋国公に封じて、秦王府行軍元帥長史とした。李世民の幕僚となると常に李世民の征戦に従軍し功績を上げた。戦場では李世民と意見の衝突も多かったが、前線で深く信任された。


功臣第十三席 殷開山(殷嶠)(いんかいざん / いんきょう) / 字:開山(?7維基百科によれば570年生まれ。‐622)
諱は嶠。字で通称される。雍州鄠縣の人。祖先は本居を陳郡としていたが陳が滅亡すると関中に移り住んだ。祖父殷不害は梁、陳に仕え、父の殷僧首は隋の秘書丞を務めた。開山は若くして学行で名声があり、書状を書くのに巧みであった。李淵が挙兵すると召し出され、謀略に参預し腹心となった。李建成の西河攻略に従い、李世民が渭北道元帥となると渭北道行軍長史となり、関中に集結放縦する多くの群盜をみな招諭した。李世民の薛挙征戦に従軍した際、たまたま李世民が体を病んだ。李世民は劉文静に軍事を委ね、「賊衆は遠方から来ており急戦に利がある。持久戦に持ち込み、敵の食糧が尽きるのを待ち、その後に攻略を図ろう。」と戒めた。開山は文静に「王は体を病み、公の力が及ばないのを慮ってこう言ったのだ。機をみて敵を破れば賊を王に残すこともない。」と説き、折墌に於いて出兵したが、薛挙に乗じられて大敗を喫した。死罪を免じられて除名処分となり、のちに李世民の薛仁杲平定に従軍し爵位を戻された。王世充征戦で軍功をあげ、李世民の劉黒闥征戦に従軍したが、その道中に病で卒した。李世民は開山の喪に臨んで甚だ慟哭し、貞観十七年(643年)には長孫無忌等十七人と共に凌煙閣に図像させた。


功臣第十四席 柴紹(さいしょう) / 字:嗣昌(?8維基百科によれば588年生まれ。‐638)
晋州臨汾の人。李淵の三女平陽公主の夫で、李世民の義理の兄にあたる。若い頃から武勇に優れ、遊侠として関中に名前が知れ渡っていた。隋末に太子千牛備身に任ぜられた。李淵が起兵すると間道を通って太原へ赴き、李建成と李元吉と会って李淵と合流した。宋老生・桑顕和を討ち、李世民に従軍して薛仁杲・宋金剛・王世充・竇建徳らを討伐して功績をあげた。吐谷渾と党項の軍が唐の辺境に侵入すると、命を受けて討伐し壊滅させた。貞観二年(628)に梁師都を平定し、貞観十二年(638)に病にかかりまもなく亡くなった。


功臣第十五席 長孫順徳(ちょうそんじゅんとく)(?9維基百科によれば565年生まれ。‐639以前10没年は不明だが、死去したのち貞観十三年(639)に邳国公に改封されている。
長孫無忌・長孫皇后の族叔。隋の開府を務めた長孫愷の子。はじめ隋に仕え右勳衛となったが、遼東の兵役を避けて太原に逃匿し、李淵・李世民親子と誼みを結んだ。李淵の挙兵に参画し李世民の命を受けて万人の兵を集め、王威、高君雅を誅殺し、義兵が起つと統軍を拝命した。霍邑・臨汾・絳郡の平定で戦功をあげ、劉文静とともに潼関で屈突通を討ち、通の身柄を捕らえて京師に送った。順徳は法律を守らない放縦な性質であったが民政には真摯であり、当時官吏の多くが民衆から饋餉を貰っていたがこれを糾弾して一切許さず、「明肅」「良牧」と称された。


功臣第十六席 張亮(ちょうりょう)(?11維基百科によれば569年生まれ。‐646)
鄭州滎陽の人。寒賤の家に生まれ、農業を生業とした。才気に優れ大志を抱き、振る舞いは惇厚であったが、内心では詭詐を得意とした。はじめ李密に仕えたが、李密が王世充に破れると唐に亡命した。房玄齢と李勣から才覚と智謀を以て李世民に推薦され、秦王府の車騎将軍となった。李世民からの顧遇は甚だ厚かった。ときに李建成と李元吉が乱を起こそうと謀ると、張亮は李世民の命を受けて洛陽へ向かい、山東の豪傑と結んで変に備えた。李世民が即位すると、工部尚書、太子詹事などを歴任した。侯君集から謀反の共謀を誘われたが李世民に報告し、その褒賞として刑部尚書に任じられ、朝政に参与した。張亮はもとの妻を捨てて新たに李氏を娶ったが、彼女は淫行で傲妬であり、左道を好み巫覡と交友した。彼女はしばしば政事にも干渉したため、張亮の名声は次第に損なわれた。また法術師の程公穎を信頼し、怪しげな術や讖言を喜んだ。陰謀が暴かれ、張亮が五百人の養子を養っていることが報告されると、百官の議論により死罪となり、長安で斬刑に処された。しかし李世民はのちに張亮の才能を惜しみ、処刑を後悔した。


功臣第十七席 侯君集(こうくんしゅう)(600以降?12『新唐書』列伝第十九侯君集伝には〈少事秦王幕府〉とあり、十代のうちに秦王府に仕えていたとする。李世民が秦王に封じられたのは武徳元年(西暦618年)六月なので侯君集の生年は600年以降と推測される。‐643)
豳州三水県の人。若くして秦王府に入幕し李世民の征討に従った。恩恵を蒙り謀策に参与するようになり、玄武門の変でも挙兵を勧め功績を上げた。李世民が即位すると兵部尚書になり、朝廷の政治に参与した。貞観九年(635年)に李靖らと共に吐谷渾を征討した。高昌討伐から帰還したのち戦利品を私した件で弾劾され、岑文本の上疏によりことなきを得たが、ひそかに蟠りを抱えていた。他の功臣と共に凌煙閣に画像を掲げられたが李承乾の挙兵の謀議に参与した。李靖や李道宗、張亮は李世民に君集の叛意を密告したが、李世民は君集を擁護して取り合わなかった。承乾の事件が発覚すると李世民は群臣に君集の助命を懇願したが、群臣は罪を重く見て許さなかった。李世民は君集のために涙した。貞観十七年(643)に収容され、斬刑に処されたが、処刑前は自若としていた。


功臣第十八席 張公謹(ちょうこうきん) / 字:弘慎(594‐632)
魏州繁水の人。隋末に王世充に仕えたが、武徳二年(619)に唐に帰順した。はじめ名が知られていなかったが、李勣と尉遅敬徳が李世民に紹介したため、召されて秦王府に入った。李建成・李元吉と対立を深める李世民から自安の策を尋ねられ親遇を受けるようになった。李世民が挙兵を決断できず占卜師に占わせていた際、外から室に乱入し、占卜の亀を地に投げ捨て、「事は決まっているのに何故これを占う必要があるのですか?卜に不吉と出ても、中止にはできないでしょう」と一喝した。玄武門の変に参与し功績をあげた。東突厥対策のブレーンであり、東突厥征戦では李靖の下で副将を務め、功績によって鄒国公に進封された。貞観六年(632)に39歳で亡くなった。官吏が辰日の哭(辰日の慟哭を忌む風習)について李世民に進言したが、李世民は「君臣の間柄は父子と同じであり、情は心から湧いてくるものである。どうして辰の日を避けられようか」といって哀哭した。


功臣第十九席 程知節(程咬金)(ていちせつ / ていこうきん) / 字:義貞(589‐665)
齊州臨淄の人。若くして驍勇であり、馬槊の扱いに巧みだった。のちに李密に従い、李密が敗れると王世充に帰順した。しかし世充の性質を嫌い、秦叔宝に「世充は狭量で妄語が多く、巫師の老嫗のように呪いの言葉を吐く。これが撥乱の主君であるものか」と語った。世充が九曲で王師の軍と戦うと、陣にいた叔宝とともに「公からは接待を受けており、恩に報いたいと感じます。しかし公は猜疑心が強く周囲に惑わされ、僕が一身を託せる方ではありません。今謹んでここを去りたいと思います」と言い、馬を踊らせて立ち去った。唐に帰順すると秦王府左三統軍に任ぜられ、宋金剛・竇建徳・王世充との戦いに従軍し、度々先陣を切って戦った。武徳七年、李建成の讒言を受けて康州刺史に左遷されたが、「大王の腕が断ち切られては、身の守りようがありません。知節は死のうがここを去りませんから、殿下も自衛してください」と李世民に告げ赴任を拒んだ。玄武門の変のに参与し、貞観初年に瀘戎栄三州諸軍事・瀘州刺史となり、行軍総管に任ぜられ鉄山獠の乱を平定した。657年に葱山道行軍大総管に任ぜられ、西突厥の阿史那賀魯を討伐した。怛篤城に至った際に胡人数千が帰順したが、知節は屠城して城から去り、賀魯はその隙をついて逃走した。長安に帰還すると連座して免職された、岐州刺史に復職されたがまもなく致仕した。


功臣第二十席 虞世南(ぐせいなん) / 字:伯施(558‐638)
越州餘姚の人。隋では起居舎人などを歴任した。兄の虞世基は隋の重臣にあり、また楊廣の腹心であった。隋末に宇文化及が楊廣を弑逆し、次いで世基を誅殺しようとすると、世南は泣いて身代わりになることを請願した。化及は聞き入れず世基を殺害したが、時の人は世南を称えた。化及が竇建徳に滅ぼされると建徳に仕え、李世民が建徳を滅ぼすと秦王府に入幕した。世南は衣服の重さに耐えられないように見えるほど容貌は懦弱であったが志性は抗烈で、常に李世民に政道を説き、李世民が失態を犯せば必ず直諌した。李世民は甚だ世南を愛顧し、暇を見つけては世南と古今の皇帝について語り、共に書籍を読んだ。書家としても名声があり、初唐の三大家(李世民に仕えた初唐時代の三大書家、虞世南・欧陽詢・褚遂良の総称)の一人に数えられる。


功臣第二十一席 劉政会(りゅうせいかい)(?13維基百科によれば569年生まれ。‐635)
滑州胙城の人。祖の劉環雋は北斉で中書侍郎を務めた。隋の大業中に太原鷹揚府司馬となり、李淵が太原留守となると、兵を引きいて麾下に属した。李世民と劉文靜が義兵を計画すると、副留守の王威と高君雅は猜疑するようになった。李世民はそれを知ると、二人を誅殺しようと政会に書を送った。李淵と威と君雅が共に政務と執っていると、政会は庭に入り威への告発状があると言った。李淵が威へ書状を見るよう指示すると、政会は「副留守への告発状です。唐公以外には渡せません」と拒んだ。君雅は怒り「これは私を殺すための偽りではないか」と大呼したが、李世民が兵馬を率いて道を封鎖しており、劉文静らと威と共に捕らえて牢獄へ収めた。唐が建国されると授衛尉少卿、太原留守を務めた。政会は内にあっては軍士をまとめ,外にあっては戎狄を懐柔し、遠近において服さない者はいなかった。劉武周が并州に進軍すると捕らえられたが、敵軍にあっても武周軍の形勢を密表し、李世民が武周を平定すると官爵を戻された。刑部尚書、光禄卿を務め、邢國公に封ぜられた。貞観九年(635)に卒すると、李世民は挙兵の際の殊功を思い、手勅して政会を手厚く葬礼した。


功臣第二十二席 唐倹(とうけん) / 字:茂約(579‐656) 
並州晋陽の人。北斉の尚書左僕射唐邕の孫にあたる。さっぱりした気性で法律を守らなかったが、親孝行で知られていた。父の唐鑑は李淵と交友を持ち、禁衛の仕事を共にしていた。そのため李世民と親交を結び、太原では常に遊びを共にした。唐倹は密かに李世民と隋朝の乱れや天下のことを語らった。李世民が李淵にそれを告げると、召し出されて挙兵の計画に参与するようになった。大将軍府が開府すると記室参軍となり、李世民の渭北道行軍では司馬を務めた。619年に呂崇茂が劉武周と結んで夏県で反乱を起こすと、永安王李孝基・独孤懐恩らとともに討伐にあたったが、尉遅敬徳に敗れて劉武周に捕らえられた。唐倹は敵中にあっても懐恩が唐に造反を企んでいると知ると、ひそかに劉世譲を李淵のもとに派遣してその謀略を告発した。620年に劉武周が敗れると、尉遅敬徳に唐への帰順を説き、府庫を封印して李世民を待った。李淵は唐倹の唐朝への忠誠を賞賛し、旧官に復させ、独孤懐恩の資産を賜った。長安に帰還して天策府長史となった。李世民に従軍して劉黒闥を討伐した。630年に鴻臚卿として東突厥へ遣わされた。しかし李靖は唐倹を囮として軍を率いて頡利を襲い撃破した。唐倹は身ひとつで脱出し、長安に帰還して李世民に慰労された。官にあっては賓客と酒をほしいままにし、仕事に励まなかった。


功臣第二十三席 李勣(徐世勣→李世勣→李勣)(じょせいせき / りせいせき / りせき) / 字:懋功(594‐669) 
曹州離狐の人。はじめ李密に仕えたが、李密が唐に帰順すると領土を持って唐に降り、李世民の幕僚として征戦で功績をあげた。李世民即位後は突厥、薛延陀、高句麗への外征で活躍する。軍略に優れ名将の李靖と合わせて二李と称される。李世民崩御後は保身を徹底し、武照(則天武后)の立后を許敬宗と共に高宗に勧め(新旧唐書于志寧伝)、後に王朝を乱す要因を作った。李世民への忠誠心は強く、「死後先帝(李世民)に会ったときにのための朝服一式を棺に入れておくように」と遺言して死去した。愛。


功臣第二十四席 秦叔宝(秦瓊)(しんしゅくほう / しんけい) / 字:叔宝(?14維基百科によれば571年生まれ。‐638)
諱は瓊。字で通称される。齊州歴城の人。はじめ隋に仕え張須陀に従っていたが、張須陀が李密に破れると李密に帰順した。李密が王世充に敗れると世充に降ったが、彼の性格を嫌って武徳元年(619)に程知節らと唐に帰順し李世民の幕僚となる。劉武周、王世充、竇建徳、劉黒闥征戦に従軍し功績をあげた。敵陣に単騎で乗り込み暴れ回るのを得意とし、李世民も幾度か敵の陣営に叔宝を差し向けたという。死後に尉遅敬徳と共に武神として信仰されるようになる。


  • 1
    『旧唐書』長孫無忌伝。
  • 2
    維基百科によれば594年生まれ。
  • 3
    『旧唐書』房玄齢伝は〈房喬、字玄齡〉と玄齢を字、喬を諱とする。『新唐書』房玄齢伝は〈房玄齡、字喬〉と諱を玄齡、字を喬とする。《房玄齢碑》は『新唐書』と同様玄齢を諱、喬を字とする。
  • 4
    『資治通鑑』巻194胡三省注が引く柳芳『唐暦』では宇文士及とする。
  • 5
    《唐故輔國大将軍右衛大将軍揚州都督褒忠壮公段公碑銘》に拠る。
  • 6
    《大唐故左光禄大夫蒋国公屈突府君墓誌銘》に拠る。
  • 7
    維基百科によれば570年生まれ。
  • 8
    維基百科によれば588年生まれ。
  • 9
    維基百科によれば565年生まれ。
  • 10
    没年は不明だが、死去したのち貞観十三年(639)に邳国公に改封されている。
  • 11
    維基百科によれば569年生まれ。
  • 12
    『新唐書』列伝第十九侯君集伝には〈少事秦王幕府〉とあり、十代のうちに秦王府に仕えていたとする。李世民が秦王に封じられたのは武徳元年(西暦618年)六月なので侯君集の生年は600年以降と推測される。
  • 13
    維基百科によれば569年生まれ。
  • 14
    維基百科によれば571年生まれ。