人物紹介(唐朝の皇帝・皇后)

隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5
隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア


(とう)
618年から907年に中国に存在した王朝。前朝である隋は、煬帝楊廣の大運河建設や度重なる高句麗遠征によって各地で反乱が発生し、群雄割拠の状態となった。楊廣は難を避けて江都(楊州)に逃れていたが、617年に太原留守であった李淵(りえん)が挙兵して長安を平定し、楊廣の孫楊侑(ようゆう)を傀儡皇帝とした。楊廣が江都にて配下の宇文化及(うぶんかきゅう)に殺害されると、李淵は楊侑から禅譲を受けて唐を建国した。唐は各地の群雄を平定し、次代の李世民(りせいみん)の治世に中国統一を達成した。また630年に遊牧国家の東突厥を平定すると、最盛期には中央アジアの砂漠地帯を支配する大帝国となった。690年に唐が廃され周(武周王朝)が建てられるが、705年に復朝したため通常この時代も唐の歴史に含めて叙述される。
首都は長安(ちょうあん)。隋の大興の都城をそのまま引き継いでおり、現在の西安にあたる。

 

唐(王朝の変遷・版図)

唐(王朝の変遷・版図)(画像クリックで拡大)


【唐の皇帝】

李淵(りえん) / 字:叔徳(566‐635年6月25日 在位:618‐626)
廟号:高祖 諡号:太武皇帝(李世民による)→神堯皇帝(李治による)→神堯大聖皇帝→神堯大聖大光孝皇帝(ともに李隆基による)
北周柱国大将軍李昞(りへい)の子。母は独孤信の四女元貞皇后独孤氏(どっこし)。四兄弟の末子だが早くに三人の兄が早世し、七歳にして唐国公を継いだ。長じると衆人よりもはるかに才気に優れた。物事に拘らず寛仁で、闊達で飾り気がなく、貴賤を問わずに人々の歓心を得た。母の独孤氏は隋の独孤皇后(独孤伽羅)の姉にあたり、幼い頃から楊堅と独孤皇后に親愛された。隋が建国されると千牛備身となり、隴、岐など三州の刺史を歴任した。あるとき相学を善くする書生が李淵に謁見し、「公の骨相は非常のもので、必ずや人主となられましょう。願わくば自愛し、この言葉を忘れぬように。」と語るとこれをすこぶる誇りとした。大業九年(西暦613年)の高句麗遠征では懐遠で兵站の監督を務めた。李淵は内外の人間に恩徳を与え、豪傑らと結託し、多くの人間が心を寄せた。隋の皇帝であった楊廣は猜疑心が強く、次第に李淵を警戒するようになった。李淵は酒をほしいままにし、賄賂を受け取って韜晦した。隋末に太原留守に任ぜられるとひそかに挙兵を画策した。次子の世民、劉文静、裴寂らに促されて挙兵を決断し、太原で義挙し首都長安を陥落すると、楊廣の孫である楊侑を皇帝に擁立し、丞相として隋の実権を掌握した。楊廣が江南で宇文化及に殺害されると楊侑から禅譲を受け唐を建国した。李世民によって洛陽が平定されると、その功績の大きさを讃え新たに創設した「天策上将」の称号を与えたが、東突厥を巡る対外政策の相違によりしだいに対立を深めていった。武徳九年(626)に李世民が李建成、李元吉を殺害するクーデター(玄武門の変)を起こすと、その日に東宮府を李世民の配下とし、その四日後に彼を立太子した。二ヶ月後に退位し、内禅して太上皇となった。

李世民(りせいみん)(599年1月23日1『旧唐書』太宗本紀は李世民の生年を隋開皇十八年十二月戊午(旧暦598/12/22、新暦599/1/23)とする。『新唐書』太宗本紀は貞観二十三年(649)に五十三歳で崩御したとし、これに則れば隋開皇十七年(597)生まれとなる。また『新唐書』太宗本紀は李世民が大業十一年(615)に16歳であった(=600年生まれ)ともしており、同一史料で矛盾が見られる。『新唐書糾謬』巻四 太宗紀享年差三歳は『新唐書』虞世南伝で太宗本人が〈吾年十八舉義兵〉と語っており、また太宗本紀で煬帝を雁門で救出した大業十一年(615)当時に十六歳(満15歳)であるならば庚申(西暦600年)生まれで疑いはなく、本紀が享年を五十三歳とするのは誤りであるとしている。‐649年7月10日 在位:626‐649)
廟号:太宗 諡号:文皇帝→文武聖皇帝(ともに李治による)→文武大聖皇帝→文武大聖大広孝皇帝(ともに李隆基による)
李淵の次子。母は太穆皇后竇氏(とうし)。四歳にして「龍鳳の姿、天日の表、二十歳になれば、必ずや世を救い民を安んじるだろう」と書生から予見され、李淵によって「世民」と改名された。幼くして深遠を見通す聡明さがあり、果断な性格で小事に拘らなかった。生母の竇氏が病になると朝夕傍を離れず看病し、竇氏が死去すると過度に喪に伏した。諸子で唯一李淵に侍従して太原に移り義挙に共謀すると、度々周囲と諮って挙兵を決断するよう促した。李淵が兵を起こすと宋老生、薛挙、劉武周、王世充、竇建徳ら各地の群雄を平定し、その功績によって朝野のみならず周辺国にも影響力を持った。しかし唐と突厥の緊張が高まると積極的に外征を説いたため、父兄と政治的対立を深めていった。武徳九年(626)に玄武門にて李建成を殺害し、李淵から譲位を受け皇帝に即位した。貞観四年(630)に東突厥を平定すると胡族の酋長らから天可汗の称号を授けられ、これを契機として中央アジアへの領土拡大を行い、その治政で南モンゴリアとタリム盆地一帯を征服した。内政では律令や三省六部制などの政治制度を整えた。文化面では北南朝の政治・学問・芸術文化を継承・融合し、唐王朝の制度・文化の礎を固めた。その治世を「貞観の治」と称される。

 


【高祖の后妃】

太穆皇后 竇氏(たいぼくこうごう とうし)(569?‐613?年5月1日2『大唐六典』巻四には竇氏の忌日が5月1日であることのみが記されており、何年のことかは記載されていない。『新唐書』太穆竇皇后伝には涿郡で45歳で死去したとあり、613年正月に高句麗遠征に従軍する李淵に随伴して涿郡に移り、その年に戦地で亡くなったと考えられる。
諡号:太穆皇后(李淵による)→太穆順聖皇后(李治による)
北周の上柱国竇毅(とうき)の子。母は西魏の宇文泰の五女の襄陽長公主。父方の竇氏は匈奴費也頭の血統であり、河套(オルドス)に強い統率力を持った。費也頭は李虎の代から李氏と縁があり、費也頭の軍事力は唐朝建国に寄与したと考えられる。
竇氏は生まれつき髪が首の長さまであり、三歳になると身の丈ほどの長髪を持った。幼少期は母方の叔父にあたる北周武帝宇文邕(うぶんよう)に新愛され宮中で養育された。楊堅が即位し北周の宗室が殺戮されると、床に伏して「私が男子でないのが恨めしい。叔父上の家の難を救えない」と嘆き、竇毅と襄陽長公主は竇氏の口を覆って「妄言してはいけない。我が一族が滅ぼされるぞ」と諌めた。竇毅は竇氏の才能と容貌を以て、みだりに人に嫁がせず賢い夫を求め、門の屏の間に二羽の孔雀を描き、求婚する諸公子に二本の矢を射させて、目を射抜くことができた者に結婚を許すとした。数十人が失敗したが、李淵が最後に試練を突破すると大いに喜んで婿とした。李淵の母である元貞太后は厳格な人であったが竇氏は恭しく仕え、また書を善くし、李淵にも度々諫言を行った。隋末の涿郡にて45歳で卒し、唐建国後に太穆皇后を追号された。子に李建成、平陽公主、李世民、李玄霸、李元吉がいた。


貴妃 萬氏(ばんし)
史料では萬貴妃(ばんきひ)と記される。李淵の五男楚王李智雲の母であり、李淵が即位する以前から側室の地位であったと推測される。恭順な性質で李淵から礼遇され、後宮のことを取り仕切り、諸王や妃主でも敬わない者はいなかった。李淵が退位すると、李世民から楚国太妃を授けられた。

徳妃 尹氏(いし)
史料では尹徳妃(いとくひ)と記される。晩年の李淵には内寵する側室が多くいたが、なかでも尹徳妃と張婕妤が最も寵愛を受け、このため尹徳妃と張婕妤の親戚の多くが東宮府に仕えていた。

婕妤 張氏(しょうよ ちょうし)
史料では張婕妤(ちょうしょうよ)と記される。尹徳妃とともに、李淵から妃嬪のなかでも最も寵愛を受けた。

昭儀 宇文氏(しょうぎ うぶんし)(591‐6343《大唐徐王国故太妃宇文氏墓誌銘》に拠る。
宇文述の娘。宇文士及の妹にあたる。李淵の後宮に入り寵愛され、立后を望まれたが固辞した。宇文氏への寵愛により兄の宇文士及は上儀同に任じられ、李世民の征戦に従軍した。子に李元嘉(りげんか)と李霊夔(りれいき)がおり、李元嘉は特に李淵に愛された。同母兄弟である二人は特に仲が良く、布衣の交わりを結んだかのようであった。宇文氏が死去すると李元嘉は慟哭すること甚だしく、李世民はつとめて元嘉をたびたび慰めた。


【太宗の后妃】

文徳皇后 長孫氏(ちょうそんし) / 小字:観音碑?4『鑑誡録』巻二耽釋道に〈長孫后號觀音婢【唐長孫皇后小字】〉とある。本来は「觀世音婢」という小字であったのが、李世民を避諱して「觀音婢」と記されているのかもしれない。(601年‐636年7月28日)
諡号:文徳皇后(李世民による)→文徳聖皇后(李治による)→文德順聖皇后(李隆基による)
隋の長孫晟(ちょうそんせい)の子。母は隋揚州刺史高敬徳(こうけいとく)の娘で高士廉の妹の高氏(こうし)。若くして読書を好み、よく礼則に従った。十三歳で李世民に嫁ぎ、世民が秦王となると王妃となった。ときに世民には軍功があり、李建成らからの猜忌は甚だしかったが、長孫氏は李淵や妃嬪に恭しく仕え、世民の欠点や過ちも取り繕い内助した。世民が挙兵を決断すると、將士を入宮させて自ら甲冑を授け、彼らを慰め励まし、感動しない者はなかった。世民が即位すると皇后となった。
倹約家で教養があり、世民が長孫氏に政治の相談を持ちかけても、「雌鶏が夜明けを告げれば家は窮乏します。妾は婦人ですのに、なぜ敢えて政の事を聞くのですか?」と言い返答を固辞し、世民が固く答えを求めてからようやく応答した。世民と二人で過ごすときは常にくつろいだ様子で、古今の政治について語りあった。また常に世民の過ちを諌め、裨益が多かった。世民が病になると側に侍って昼夜離れず、常に毒薬を衣帯に忍ばせ、「もし陛下に何かあれば、一人で生きてはいけません」と語った。長孫氏が病によって35歳の若さで崩御すると李世民は甚だ哀悼し、苑中に台を建てて彼女の眠る陵墓を眺めた。李世民は斉王李元吉の妃であった楊氏を新たに皇后に立てることを望んだが、魏徴から諌められたため沙汰止みとなった。李世民はその生涯で十四人の男子と二十一人の娘を持ったが、長孫皇后の崩御後に設けたのは楊氏との間に生まれた曹王李明のみである。長孫皇后の子には皇太子李承乾、魏王李泰、晋王李治(高宗)、長楽公主、城陽公主、晋陽公主、新城公主がいた。


貴妃 韋珪(いけい)(597年‐665年9月28日)
史料では韋妃(いひ)または韋貴妃(いきひ)と記される。《唐太宗文皇帝故貴妃紀国太妃韋氏墓碑銘并序》によれば、曽祖父は北周の韋孝寛であり、はじめ李子雄の子李孝珉(りこうびん)に嫁ぎ一女を設けた。李子雄が叛乱を起こした楊玄感に帰順したため、楊玄感が処刑されると籍没して隋朝の宮女となった。李世民との間に臨川公主李孟姜、紀王李慎をもうけ、李孝珉との間の子李氏は定襄県主に封ぜられ、のちに阿史那社爾に嫁いだ。李世民が崩御すると紀国太妃となり、高宗李治からも尊重され、たびたび李治に従って昭陵(李世民の陵墓)を参拝した。高宗麟徳二年(665)、李治に従い泰山の封禅に向かう道中に病に倒れ、河南の邸宅にて69歳で卒した。

賢妃 徐氏(じょし)
史料では徐賢妃(じょけんひ)と記される。

楊妃(ようひ)
楊廣の子。子に呉王李恪、蜀王李愔がいた。

貴妃? 楊氏(ようし)
子に趙王李福がいた。《大唐故贈司空荆州大都督上柱国趙王墓誌銘》には〈王、楊貴妃之所生也。〉とあるが、李世民の貴妃には韋貴妃(韋珪)がおり、楊氏が貴妃に封ぜられていた時期があったのかは不明である。

楊氏(ようし)
武徳年間に斉王李元吉の妃となった。貞観年間に李世民の寵愛を受けていたと思われるが、妃嬪としてどの程度の地位にあったかは不明である。長孫皇后の崩御後、李世民から皇后に立てることを望まれたが、魏徴の諫言によって沙汰止みとなった。貞観年間に曹王李明を生んだ。


【唐高祖諸子】

皇太子 李建成(りけんせい) / 小字:毗沙門(589‐626年7月2日)
諡号:隠
李淵の長子。母は太穆皇后竇氏。妻は榮陽鄭氏であった。李世民とともに父李淵の挙兵に参画し功績をあげた。李淵が挙兵すると左領軍大都督を拝命し隴西郡公に封じられた。西河郡を攻略し長安を平定した。唐が興ると皇太子となり、劉黒闥の残党の討伐などにあたった。弟の元吉や配下の王珪や魏徴が世民を除くよう助言するも、肉親で殺しあうのを良しとせず決断できずにいた。武徳九年(626)六月四日に世民によるクーデター(玄武門の変)によって殺害された。飲酒と女色と狩猟を好み、臣下の諫言を聞き入れないなど瑕瑾もある一方、配下の将士に寛大に接し、世民の謀殺を思いとどまるなど寛仁な人物でもあった。

衛王 李玄霸(りげんは) / 字:大徳(599‐614)
李淵の三男。母は太穆皇后竇氏。

斉王 李元吉(りげんきつ) / 小字:三胡(603‐626年7月2日)
諡号:剌
李淵の四男。母は太穆皇后竇氏。李建成、李世民とともに唐の創業に参画した。唐が興ると斉王に立てられた。狩猟を好み残忍な性格であり、幼少期から奴隷や家奴に命令し戦争ごっこをさせ、たびたび死傷者を出した。軍事面で功績をあげたが野心が強く、世民を除くために建成と結託し、度々建成に謀殺を行うよう説いた。また李淵に世民を讒言するなど策謀が多かった。玄武門の変において世民が建成を射殺すると、弓を奪い世民を絞め殺そうとしたが、尉遅敬徳によって射殺された。

楚哀王 李智雲(りちうん)(604‐617)
追封:楚王 諡号:哀
李淵の五男。母は貴妃萬氏。もとの名を稚詮といった。弓射を善くし書に巧みであった。隋の大業末には李建成、李元吉らとともに河東にいた。李淵が挙兵すると李建成らは太原へ向かったが、智雲は隋の官吏に捕まって長安まで送られ、陰世師によって殺害された。年は十四歳であった。武徳元年(618)、楚王に追封され、哀と諡された。


 

平陽(昭)公主(へいようこうしゅ)(?‐623)
李淵の三女。母は太穆皇后竇氏。柴紹に嫁いだ。李淵が挙兵した際は柴紹と共に長安にいた。柴紹が「尊公はまさに兵を起こし多難を排除しようとしている。私も義旗を迎えに参じたいが、君を連れてはいけない。しかし置いていけば何が起こるかわからないだろう」と言うと、「速やかに父のもとに向かってください。私は女ですから、どこへでも隠れることができます」と返した。柴紹は詭道を通り李淵に謁見し、公主は家奴の馬三寶(ばさんほう)に群盗の説得に当たらせ、李仲文(李密の従父)、向善誌、丘師利らを李淵の麾下とした。さらに武功、始平を平定し、七万の兵を得、関中に勢威を振るった。李淵が黄河を渡ると、万の精兵を連れて世民と渭北で合流した。柴紹と公主は幕府を置いて長安の平定にあたり、軍の名を「娘子軍」と号した。武徳六年(623)に死去すると、葬儀では羽葆、鼓吹、大路、麾幢、虎賁、甲卒、班劍の礼が加えられた。太常が「婦人の葬儀には、昔から鼓吹の礼はありません」と言って反対したが、李淵は「鼓吹は軍楽だ。公主でありながら金鼓をとり、佐命に参じたものが古来よりいただろうか?これは婦人の類ではない、鼓吹を用いるにふさわしいではないか」と言い、従わなかった。

【唐太宗諸子】


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    『旧唐書』太宗本紀は李世民の生年を隋開皇十八年十二月戊午(旧暦598/12/22、新暦599/1/23)とする。『新唐書』太宗本紀は貞観二十三年(649)に五十三歳で崩御したとし、これに則れば隋開皇十七年(597)生まれとなる。また『新唐書』太宗本紀は李世民が大業十一年(615)に16歳であった(=600年生まれ)ともしており、同一史料で矛盾が見られる。『新唐書糾謬』巻四 太宗紀享年差三歳は『新唐書』虞世南伝で太宗本人が〈吾年十八舉義兵〉と語っており、また太宗本紀で煬帝を雁門で救出した大業十一年(615)当時に十六歳(満15歳)であるならば庚申(西暦600年)生まれで疑いはなく、本紀が享年を五十三歳とするのは誤りであるとしている。
  • 2
    『大唐六典』巻四には竇氏の忌日が5月1日であることのみが記されており、何年のことかは記載されていない。『新唐書』太穆竇皇后伝には涿郡で45歳で死去したとあり、613年正月に高句麗遠征に従軍する李淵に随伴して涿郡に移り、その年に戦地で亡くなったと考えられる。
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    《大唐徐王国故太妃宇文氏墓誌銘》に拠る。
  • 4
    『鑑誡録』巻二耽釋道に〈長孫后號觀音婢【唐長孫皇后小字】〉とある。本来は「觀世音婢」という小字であったのが、李世民を避諱して「觀音婢」と記されているのかもしれない。