李世民少年時代年表 李世民が18歳で太原に移住するまでの生い立ち だいたいで見てください 隋開皇十八年十二月戊午(西暦599年1月23日):0歳1『旧唐書』太宗本紀下に拠る。 ・武功県の別館にて唐公李淵と竇氏の間に生まれる。二匹の龍が館の門の外で戯れ、三日して消えた。(『舊唐書』本紀第二 太宗) ・二龍の符があり、竇氏から諸子の中でも篤く愛された。(『新唐書』后妃上 高祖太穆順聖皇后) 隋仁寿三年(603):4歳 ・4歳のとき、相学を善くする書生が李淵に謁見して言った。「公は貴人で、貴子をお持ちのようです。」また李世民を見て、「龍鳳の姿、天日の表の持ち主。成人となるや、必ずや世を救い民を安んじるでしょう。」と言った。李淵はその言葉が外に漏れる事を恐れ、まさに書生を殺そうとしたが、たちまちに姿を消した。2『新唐書』本紀第二太宗は、〈書生が立ち去ると、李淵はその言葉が外に漏れる事を恐れた。人を遣わせて彼を殺そうとしたが、書生の行方は分からなかった。神の類だろう。〉とする。 李淵は「済世安民」の義から「世民」の名前を与えた。(『舊唐書』本紀第二 太宗)(『新唐書』本紀第二 太宗) ・幼くして聰明で遠望があり、臨機果断で小節に拘らず、当時の人々は推し測ることができなかった。(『舊唐書』本紀第二 太宗) 隋大業元年(606):7歳 病弱であったため、李淵が大海寺に治癒全快を祈る。(『金石萃編』巻四十収録《大海寺唐高祖造像記》) …《鄭州刺史李淵爲男李世民造彌勒像記》:https://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/type_a/html/zui0083x.html 隋大業二年 正月八日(607):8歳 李淵が草堂寺に病気療養を祈る。(『全唐文』巻三 高祖三収録《草堂寺為子祈疾疏》) …《李淵爲男造象記》:https://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/type_a/html/zui0084x.html 《李淵爲男造象記》によれば目を患っていたという。 隋大業九年(613):14歳 ・長孫氏が13歳の年に結婚する。(『舊唐書』后妃上 文德皇后長孫氏) ・高士廉から才力を見込まれ、長孫氏と妻わせられる。(『舊唐書』高士廉伝) 隋大業九年 五月一日3竇氏の死について、新旧唐書高祖太穆順聖皇后伝は涿郡にて四十五歳で死去したとしか記さない。 涿郡は隋大業九年の高句麗遠征の兵站基地であり、李淵は懐遠で兵站を監督している。竇氏は李淵に随従して涿郡に移住し、そこで病となり死去したと考えられる。『大唐六典』巻第四 尚書禮部は竇氏の忌日を五月一日とするが、没年は記していない。 ・李世民がまだ幼い頃、竇氏から諸子のなかでも特に可愛がられた。竇氏が病床につくと、朝夕側に侍り、衣冠を解くことはなく、湯薬は先に口にして確かめた。竇氏が崩御すると哀毀瘠立し、三年の喪に服した。(『冊府元亀』巻二十七 帝王部 孝徳) ・竇氏が涿郡で死去した。(『舊唐書』后妃上 太穆皇后竇氏) 隋大業九年 五月〜七月? 楊玄感の乱が起こり、玄感と交友のある斛斯政が楊廣に追及されることを恐れ高句麗に亡命。政と交友があった高士廉も連座し朱䳒県主簿に左遷される。(『舊唐書』高士廉伝)(『新唐書』高倹伝) 大業十一年(615):16歳 李淵が太原道安撫大使4『新唐書』本紀第一 高祖では山西河東慰撫大使とする。に任ぜられる。(『大唐創業起居注』巻一)諸子で唯一侍従する? 大業十一年 八月癸酉 東突厥の始畢可汗が兵数十を以て雁門にて楊廣を囲だ。李世民は救援の募兵に応じ、隸将軍雲定興の軍に加わった。まさに軍が雁門に向かおうとすると、「旗鼓を用いて疑兵を配置してください。始畢可汗が兵を率いて天子を包囲したのは、隙をついて救援がないだろうと踏んだからです。軍容を勇ましくし、昼は数十里に渡って幡旗を連ね、夜は大いに鉦鼓を打てば、敵は兵が大勢いると考え、塵を望んで逃げていきます。もしそうしなければ、奴らは我々が寡兵であると見抜き、ことごとく戦をけしかけてくるでしょう。そうなれば絶対に勝てません。」と建策した。定興がその言葉に従い軍が崞県に至ると、突厥の候騎( 敵情を探る騎兵)は始畢に「隋の軍は大群で、包囲を解いて逃げた方が良いでしょう」と告げたため、突厥は包囲を解き軍を引いた。 (『舊唐書』本紀第二 太宗)(『新唐書』本紀第二 太宗) 大業十三年 一月(617):18歳 李淵が太原留守に任ぜられ、諸子で唯一侍従する。(『大唐創業起居注』巻一) その他 ・李世民曰く「弱冠の頃の交友は柴紹、竇誕等のみだった。」(『貞観政要』巻四 輔弼第九) ・「朕が李治(当時16歳)の年の頃は、決まりごとなどまるで守らなかった」(『資治通鑑』巻百九十七) ・14歳までに長孫無忌と交友を結んだ。(『舊唐書』長孫無忌伝) ・太原で学行を称される張後胤から春秋左氏伝を学んだ。(『舊唐書』儒学上 張後胤)(『新唐書』儒学上 張後胤) 1『旧唐書』太宗本紀下に拠る。2『新唐書』本紀第二太宗は、〈書生が立ち去ると、李淵はその言葉が外に漏れる事を恐れた。人を遣わせて彼を殺そうとしたが、書生の行方は分からなかった。神の類だろう。〉とする。3竇氏の死について、新旧唐書高祖太穆順聖皇后伝は涿郡にて四十五歳で死去したとしか記さない。 涿郡は隋大業九年の高句麗遠征の兵站基地であり、李淵は懐遠で兵站を監督している。竇氏は李淵に随従して涿郡に移住し、そこで病となり死去したと考えられる。『大唐六典』巻第四 尚書禮部は竇氏の忌日を五月一日とするが、没年は記していない。4『新唐書』本紀第一 高祖では山西河東慰撫大使とする。
李世民少年時代年表
李世民が18歳で太原に移住するまでの生い立ち だいたいで見てください
隋開皇十八年十二月戊午(西暦599年1月23日):0歳1『旧唐書』太宗本紀下に拠る。
・武功県の別館にて唐公李淵と竇氏の間に生まれる。二匹の龍が館の門の外で戯れ、三日して消えた。(『舊唐書』本紀第二 太宗)
・二龍の符があり、竇氏から諸子の中でも篤く愛された。(『新唐書』后妃上 高祖太穆順聖皇后)
隋仁寿三年(603):4歳
・4歳のとき、相学を善くする書生が李淵に謁見して言った。「公は貴人で、貴子をお持ちのようです。」また李世民を見て、「龍鳳の姿、天日の表の持ち主。成人となるや、必ずや世を救い民を安んじるでしょう。」と言った。李淵はその言葉が外に漏れる事を恐れ、まさに書生を殺そうとしたが、たちまちに姿を消した。2『新唐書』本紀第二太宗は、〈書生が立ち去ると、李淵はその言葉が外に漏れる事を恐れた。人を遣わせて彼を殺そうとしたが、書生の行方は分からなかった。神の類だろう。〉とする。 李淵は「済世安民」の義から「世民」の名前を与えた。(『舊唐書』本紀第二 太宗)(『新唐書』本紀第二 太宗)
・幼くして聰明で遠望があり、臨機果断で小節に拘らず、当時の人々は推し測ることができなかった。(『舊唐書』本紀第二 太宗)
隋大業元年(606):7歳
病弱であったため、李淵が大海寺に治癒全快を祈る。(『金石萃編』巻四十収録《大海寺唐高祖造像記》)
…《鄭州刺史李淵爲男李世民造彌勒像記》:https://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/type_a/html/zui0083x.html
隋大業二年 正月八日(607):8歳
李淵が草堂寺に病気療養を祈る。(『全唐文』巻三 高祖三収録《草堂寺為子祈疾疏》)
…《李淵爲男造象記》:https://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/type_a/html/zui0084x.html
《李淵爲男造象記》によれば目を患っていたという。
隋大業九年(613):14歳
・長孫氏が13歳の年に結婚する。(『舊唐書』后妃上 文德皇后長孫氏)
・高士廉から才力を見込まれ、長孫氏と妻わせられる。(『舊唐書』高士廉伝)
隋大業九年 五月一日3竇氏の死について、新旧唐書高祖太穆順聖皇后伝は涿郡にて四十五歳で死去したとしか記さない。
涿郡は隋大業九年の高句麗遠征の兵站基地であり、李淵は懐遠で兵站を監督している。竇氏は李淵に随従して涿郡に移住し、そこで病となり死去したと考えられる。『大唐六典』巻第四 尚書禮部は竇氏の忌日を五月一日とするが、没年は記していない。
・李世民がまだ幼い頃、竇氏から諸子のなかでも特に可愛がられた。竇氏が病床につくと、朝夕側に侍り、衣冠を解くことはなく、湯薬は先に口にして確かめた。竇氏が崩御すると哀毀瘠立し、三年の喪に服した。(『冊府元亀』巻二十七 帝王部 孝徳)
・竇氏が涿郡で死去した。(『舊唐書』后妃上 太穆皇后竇氏)
隋大業九年 五月〜七月?
楊玄感の乱が起こり、玄感と交友のある斛斯政が楊廣に追及されることを恐れ高句麗に亡命。政と交友があった高士廉も連座し朱䳒県主簿に左遷される。(『舊唐書』高士廉伝)(『新唐書』高倹伝)
大業十一年(615):16歳
李淵が太原道安撫大使4『新唐書』本紀第一 高祖では山西河東慰撫大使とする。に任ぜられる。(『大唐創業起居注』巻一)諸子で唯一侍従する?
大業十一年 八月癸酉
東突厥の始畢可汗が兵数十を以て雁門にて楊廣を囲だ。李世民は救援の募兵に応じ、隸将軍雲定興の軍に加わった。まさに軍が雁門に向かおうとすると、「旗鼓を用いて疑兵を配置してください。始畢可汗が兵を率いて天子を包囲したのは、隙をついて救援がないだろうと踏んだからです。軍容を勇ましくし、昼は数十里に渡って幡旗を連ね、夜は大いに鉦鼓を打てば、敵は兵が大勢いると考え、塵を望んで逃げていきます。もしそうしなければ、奴らは我々が寡兵であると見抜き、ことごとく戦をけしかけてくるでしょう。そうなれば絶対に勝てません。」と建策した。定興がその言葉に従い軍が崞県に至ると、突厥の候騎( 敵情を探る騎兵)は始畢に「隋の軍は大群で、包囲を解いて逃げた方が良いでしょう」と告げたため、突厥は包囲を解き軍を引いた。
(『舊唐書』本紀第二 太宗)(『新唐書』本紀第二 太宗)
大業十三年 一月(617):18歳
李淵が太原留守に任ぜられ、諸子で唯一侍従する。(『大唐創業起居注』巻一)
その他
・李世民曰く「弱冠の頃の交友は柴紹、竇誕等のみだった。」(『貞観政要』巻四 輔弼第九)
・「朕が李治(当時16歳)の年の頃は、決まりごとなどまるで守らなかった」(『資治通鑑』巻百九十七)
・14歳までに長孫無忌と交友を結んだ。(『舊唐書』長孫無忌伝)
・太原で学行を称される張後胤から春秋左氏伝を学んだ。(『舊唐書』儒学上 張後胤)(『新唐書』儒学上 張後胤)
涿郡は隋大業九年の高句麗遠征の兵站基地であり、李淵は懐遠で兵站を監督している。竇氏は李淵に随従して涿郡に移住し、そこで病となり死去したと考えられる。『大唐六典』巻第四 尚書禮部は竇氏の忌日を五月一日とするが、没年は記していない。