人物紹介(『旧唐書』列伝)

隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5
隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア


【『旧唐書』巻五十七 列伝第七:裴寂、劉文静、李孟嘗、秦行師、、劉世龍、趙文恪、張平高、李思行、李高遷、許世緒、劉師立、錢九隴、樊興、公孫武達、龐卿惲、張長遜、李安遠】

裴寂(はいせき) / 字:真玄(569‐629)

劉文静(りゅうぶんせい) / 字:肇仁(568‐619)
自雲彭城の人。隋末に太原で李淵と親交を結ぶと李世民を高く評価し、世民の客食になり裴寂を含む三人で李淵の挙兵を謀った。

錢九隴(せんきゅうろう) / 字:永業(?‐?)
本晋陵人の人。1『旧唐書』に拠る。『新唐書』では湖州長城の人とされる。父親の銭文強は南陳の呉明徹の裨将であったが、呉明徹が呂梁の戦いに敗北すると共に長安に連行された。隋に入ると罪によって皇室の奴隷となり、李淵に仕えることとなった。九隴は騎射を善くし、李淵は彼を信愛して常に左右に置いた。太原で挙兵すると軍功を以て金紫光祿大夫を授かり、長安が平定されると左監門郎将となった。李世民の薛仁杲・劉武周征戦に従軍し、擢累して右武衛将軍となった。李世民の竇建徳・王世充征戦、李建成による劉黒闥討伐に従い力戦して敵を破り、策して勲されることは最も秀でていた。郇國公に封ぜられ、本官と苑游将軍を兼ねた。貞観のはじめに眉州刺史となり巣国王に改封され、再遷して右監門大将軍となった。貞観十二年にまた郇國公となり、実封六百戸を加えられた。まもなく死去し、左武衛大将軍・潭州都督を贈られた。謚は勇といい、献陵(李淵の陵墓)に陪葬された。


【巻五十八 列伝第八:唐倹、長孫順徳、劉弘基、殷開山、劉政会、柴紹、平陽公主、馬三寶、武士鸊、武士棱、武士逸】

唐倹(とうけん) / 字:茂約(579‐656) 
並州晋陽の人。北斉の尚書左僕射唐邕の孫にあたる。さっぱりした気性で法律を守らなかったが、親孝行で知られていた。父の唐鑑は李淵と交友を持ち、禁衛の仕事を共にしていた。そのため李世民と親交を結び、太原では常に遊びを共にした。唐倹は密かに李世民と隋朝の乱れや天下のことを語らった。李世民が李淵にそれを告げると、召し出されて挙兵の計画に参与するようになった。大将軍府が開府すると記室参軍となり、李世民の渭北道行軍では司馬を務めた。619年に呂崇茂が劉武周と結んで夏県で反乱を起こすと、永安王李孝基・独孤懐恩らとともに討伐にあたったが、尉遅敬徳に敗れて劉武周に捕らえられた。唐倹は敵中にあっても懐恩が唐に造反を企んでいると知ると、ひそかに劉世譲を李淵のもとに派遣してその謀略を告発した。620年に劉武周が敗れると、尉遅敬徳に唐への帰順を説き、府庫を封印して李世民を待った。李淵は唐倹の唐朝への忠誠を賞賛し、旧官に復させ、独孤懐恩の資産を賜った。長安に帰還して天策府長史となった。李世民に従軍して劉黒闥を討伐した。630年に鴻臚卿として東突厥へ遣わされた。しかし李靖は唐倹を囮として軍を率いて頡利を襲い撃破した。唐倹は身ひとつで脱出し、長安に帰還して李世民に慰労された。官にあっては賓客と酒をほしいままにし、仕事に励まなかった。

長孫順徳(ちょうそんじゅんとく)(?2維基百科によれば565年生まれ。‐639以前3没年は不明だが、死去したのち貞観十三年(639)に邳国公に改封されている。
長孫無忌・長孫皇后の族叔。隋の開府を務めた長孫愷の子。はじめ隋に仕え右勳衛となったが、遼東の兵役を避けて太原に逃匿し、李淵・李世民親子と誼みを結んだ。李淵の挙兵に参画し李世民の命を受けて万人の兵を集め、王威、高君雅を誅殺し、義兵が起つと統軍を拝命した。霍邑・臨汾・絳郡の平定で戦功をあげ、劉文静とともに潼関で屈突通を討ち、通の身柄を捕らえて京師に送った。順徳は法律を守らない放縦な性質であったが民政には真摯であり、当時官吏の多くが民衆から饋餉を貰っていたがこれを糾弾して一切許さず、「明肅」「良牧」と称された。

劉弘基(りゅうこうき)(582‐650)
雍州池陽の人。父は隋の河州刺史の劉昇。若くして侠客との交友を好み家のことをかえりみなかった。父の蔭官により任官されたが高句麗遠征を忌避し、耕牛を屠殺し、隠れて官吏を批難したため県獄に繋がれた。しばらくして釈放され、馬を盗んで自活した。太原で李世民と誼みを結び彼の賓客となった。李世民とは出陣すれば騎を連ね、邸内では寝起きを共にした。李世民の下で殷開山を補佐し、長安が平定されると功績第一として右驍衛大将軍に任ぜられた。李世民の征戦に従い薛仁杲、劉武周、劉黒闥征戦で功績をあげた。玄武門の変に参与したが、李孝常らと交友があったため翌年に謀反の罪に連座して庶民に落とされた。にわかに易州刺史となり衛尉卿に任ぜられた。老年のため骸骨を乞うと輔国大将軍となった。遼東遠征では前軍大総管に任ぜられ、駐蹕山にて高延壽を討った。

殷開山(殷嶠)(いんかいざん / いんきょう) / 字:開山(?4維基百科によれば570年生まれ。‐622)
諱は嶠。字で通称される。雍州鄠縣の人。祖先は本居を陳郡としていたが陳が滅亡すると関中に移り住んだ。祖父殷不害は梁、陳に仕え、父の殷僧首は隋の秘書丞を務めた。開山は若くして学行で名声があり、書状を書くのに巧みであった。李淵が挙兵すると召し出され、謀略に参預し腹心となった。李建成の西河攻略に従い、李世民が渭北道元帥となると渭北道行軍長史となり、関中に集結放縦する多くの群盜をみな招諭した。李世民の薛挙征戦に従軍した際、たまたま李世民が体を病んだ。李世民は劉文静に軍事を委ね、「賊衆は遠方から来ており急戦に利がある。持久戦に持ち込み、敵の食糧が尽きるのを待ち、その後に攻略を図ろう。」と戒めた。開山は文静に「王は体を病み、公の力が及ばないのを慮ってこう言ったのだ。機をみて敵を破れば賊を王に残すこともない。」と説き、折墌に於いて出兵したが、薛挙に乗じられて大敗を喫した。死罪を免じられて除名処分となり、のちに李世民の薛仁杲平定に従軍し爵位を戻された。王世充征戦で軍功をあげ、李世民の劉黒闥征戦に従軍したが、その道中に病で卒した。李世民は開山の喪に臨んで甚だ慟哭し、貞観十七年(643年)には長孫無忌等十七人と共に凌煙閣に図像させた。

劉政会(りゅうせいかい)(?5維基百科によれば569年生まれ。‐635)
滑州胙城の人。祖の劉環雋は北斉で中書侍郎を務めた。隋の大業中に太原鷹揚府司馬となり、李淵が太原留守となると、兵を引きいて麾下に属した。李世民と劉文靜が義兵を計画すると、副留守の王威と高君雅は猜疑するようになった。李世民はそれを知ると、二人を誅殺しようと政会に書を送った。李淵と威と君雅が共に政務と執っていると、政会は庭に入り威への告発状があると言った。李淵が威へ書状を見るよう指示すると、政会は「副留守への告発状です。唐公以外には渡せません」と拒んだ。君雅は怒り「これは私を殺すための偽りではないか」と大呼したが、李世民が兵馬を率いて道を封鎖しており、劉文静らと威と共に捕らえて牢獄へ収めた。唐が建国されると授衛尉少卿、太原留守を務めた。政会は内にあっては軍士をまとめ,外にあっては戎狄を懐柔し、遠近において服さない者はいなかった。劉武周が并州に進軍すると捕らえられたが、敵軍にあっても武周軍の形勢を密表し、李世民が武周を平定すると官爵を戻された。刑部尚書、光禄卿を務め、邢國公に封ぜられた。貞観九年(635)に卒すると、李世民は挙兵の際の殊功を思い、手勅して政会を手厚く葬礼した。

柴紹(さいしょう) / 字:嗣昌(?6維基百科によれば588年生まれ。‐638)
晋州臨汾の人。李淵の三女平陽公主の夫で、李世民の義理の兄にあたる。若い頃から武勇に優れ、遊侠として関中に名前が知れ渡っていた。隋末に太子千牛備身に任ぜられた。李淵が起兵すると間道を通って太原へ赴き、李建成と李元吉と会って李淵と合流した。宋老生・桑顕和を討ち、李世民に従軍して薛仁杲・宋金剛・王世充・竇建徳らを討伐して功績をあげた。吐谷渾と党項の軍が唐の辺境に侵入すると、命を受けて討伐し壊滅させた。貞観二年(628)に梁師都を平定し、貞観十二年(638)に病にかかりまもなく亡くなった。


【巻五十九 列伝第九:屈突通、任瓌、丘和、丘行恭、李襲志、姜抃】

屈突通(くつとつつう) / 字:坦豆抜(557‐628)
雍州長安の人。楊堅(隋文帝)と楊廣(隋煬帝)の二帝に仕えた。李淵が挙兵すると隋の将軍として抗戦したが、劉文静の軍に潰滅させられ唐に投降した。李淵は屈突通の忠義を高く評価して信任し、兵部尚書に任じ、蒋国公に封じて、秦王府行軍元帥長史とした。李世民の幕僚となると常に李世民の征戦に従軍し功績を上げた。戦場では李世民と意見の衝突も多かったが、前線で深く信任された。

任瓌(にんかい) / 字:瑋(?‐629)
廬州合肥の人。陳鎮東大将軍蠻奴の弟の子である。父の七寶は陳に仕えたが早くに亡くなり、蠻奴に養育された。十九歳で衡州司馬になり、都督の王勇に重用されたが、王勇が隋に降ると官を棄てて家に戻った。李淵が山西の討伐に当たった際に轅門にて謁見し、河東県戸曹に任命された。太原では李建成とともに留守を任された。また龍門で李淵に謁見し、挙兵を勧めた。李淵が即位すると谷州刺史となり、王世充討征で功績を上げ、管國公に封ぜられた。瑰は親戚を多く重用し人事が公平ではなく、妻の劉氏7『旧唐書』に拠る。鷟『朝野僉載』は妻の姓を柳氏とする。は嫉妬深く残酷であったため、人々はこれを批難した。輔公祏を討伐した功績により邢州都督となった。玄武門の変が起こると、瑰の弟の璨は典膳監であったため瑰も連座して通州都督に左遷された。貞觀四年に卒した。


【巻六十 列伝第十一 宗室 太祖諸子・代祖諸子:永安王李孝基、淮安王李神通、襄邑王李神符、長平王李叔良、襄武王李琛、河間王李孝恭、孝恭弟李瑊、李瑰、廬江王李瑗、王君廓、淮陽王李道玄、江夏王李道宗、隴西王李博乂】

永安王 李孝基(りこうき)(?‐619)
李淵の従弟にあたる。武徳元年(618)に永安王に封ぜられ、陝州総管、鴻臚卿を歴任したが、罪によって官を剥奪された。武徳二年(619)夏県の呂崇茂が県令を殺して魏王を号し、劉武周に呼応した。李孝基は行軍総管となり、工部尚書独孤懐恩、内史侍郎唐倹、陝州総管于筠らを配下として討伐に向かった。劉武周は配下の尉遅敬徳をひそかに呂崇茂に救援に向かわせ、李孝基は前後に敵を受け大敗した。李孝基、唐倹らみな捕虜となった。李孝基は唐への帰国を企んだことが発覚し殺害され、劉武周が平定されたのちに死体の取り戻されないまま葬儀が行われた。子はなく、謚は荘といった。

淮安王 李神通(李寿)(りじんつう / りじゅ)(577‐630)
諱は寿。8《大唐故司空公上柱国淮安靖王墓誌銘》に拠る。字で通称される。李淵の従弟にあたる。

河間王 李孝恭(りこうきょう)(591‐640)
唐の宗室西平懐王李安の子。李淵が長安を平定すると左光禄大夫に任命され、にわかに山南道招尉大使となった。李靖の補佐を受けて蕭銑、輔公祏討伐で指揮をとり功績を挙げた。貞観年間に礼部尚書となり河間郡王に封じられた。豪奢を好み歌舞や遊宴を多く開いたが、寛容で人に謙譲し驕った様子を見せなかった。李世民からは李道宗と共に宗室で最も重んじられた。孝恭の死について『旧唐書』は「暴薨」、『新唐書』は「中飲暴薨」とするが、『冊府元亀』巻298宗室は「唐河間王孝恭、頗好酒德、太宗貞觀中、與唐儉等聚宴、醉甚、夜臥街中樹下、及旦而薨」とする。唐倹らとの聚宴にてしこたま酔っ払い、夜に街中の樹下に臥して亡くなったらしい。アルコール中毒?脳卒中?

廬江王 李瑗(りえん)(587‐627)
隋の柱国・備身将軍李悊の子。李淵の従兄の子にあたる。字は徳圭。

淮陽王 李道玄(りどうげん)(604‐622)
河南王李贄(李虎の五男の雍王李絵の子)の子。李淵の従兄の子にあたる。

江夏王 李道宗(りどうそう) / 字:承範(600?603?‐6539『旧唐書』宗室 太祖諸子代祖諸子 李道宗伝は、李道宗を「李世民による劉武周征討(西暦619年)に年十七で従った」とし、「永徽4年(653年)に五十四歳で死去した」とする。前者に従えば603年生まれとなり、後者に従えば600年生まれとなる。
唐の宗室李韶の子。李世民の又従兄弟にあたる。十七歳で世民の征戦に従い、劉武周、竇建徳、王世充、劉黒闥征戦で功績をあげた。李世民即位後は突厥、吐谷渾、薛延陀、高句麗遠征に従軍し功績をあげ、貞観代の外征政策の中枢を担った。世民は高句麗遠征後に「今名将は李世勣と李道宗と薛萬徹の三人しかいない。世勣と道宗は大勝もしないが大敗もしない。萬徹は大勝するが大敗もする。」と道宗の軍才を評価した。将略で名が知られ学を好み賢士を慕い、世民からは宗室の中で孝恭と並んで最も重んじられた。真率な性格で侯君集の叛意を見抜き世民に忠言したが、聞き入れられなかった。永徽四年(653)に房遺愛が誅殺されると長孫無忌・褚遂良と不仲であったため、連座して象州に配流されその道中で卒した。


【巻六十一 列伝第十一:温大雅、子無隠、温彦博、温大有、陳叔達、竇威、竇軌、軌弟琮、竇抗、抗子静、誕、抗弟璡】

温大雅(おんたいが) / 字:彦弘(574以前10弟の温彦博が574年に生まれている。‐629)

温彦博(おんげんはく) / 字:大臨(574‐637)

温大有(おんたいゆう) / 字:彦将(574以降11兄の温彦博が574年に生まれている。‐618)

陳叔達(ちんしゅくたつ) / 字:子聡(572‐635)

竇軌(とうき) / 字:士則(?‐630)
北周の雍州牧・酇国公の竇恭の子。太穆竇皇后の従兄弟で唐の外戚にあたる。剛毅果断な性格で威厳があった。隋の大業年間官を棄て、長春宮において李淵を迎えた。長安平定に従い、稽胡を討伐し、武徳元年(618)に太子詹事となった。李世民の薛仁杲、王世充征討に従軍し、武徳四年(621)に益州に帰還した。当時の蜀には賊が多く来寇したが、悉く平定し、常に戎服で討伐に臨み、数ヶ月鎧を解かないこともあった。高位に昇っても厳格であり、毎日吏士を鞭打ち、自身の甥や家奴の処刑もためらわず、庭は流血で満ち、衆人が彼を畏怖した。のちに入朝した際に容儀が慎ましくなく座ったまま詔に答えたため、李淵は激怒し、「公が入蜀したとき、車騎・驃騎の従者は二十人もいたが、公は考えるままに斬り殺してしまった。私が車騎を砕いても、公に与えるには足りないだろう」と言い竇軌を獄に落とした。にわかに釈放され、再び益州の鎮静にあたった。
竇軌は益州において行台尚書の韋雲起、郭行方と不仲であり、武徳九年(626)に李建成が殺害されると、到着した詔を懐に入れて隠した。韋雲起が竇軌に「詔書はどこにあるのか?」と尋ねると、「卿は乱を欲するのか」と言い、雲起を捕らえて殺した。貞観元年(627)に召し出されて右衛大将軍となった。貞観二年(628)、洛州都督として出向した。洛陽は隋末の動乱もあり荒廃していたが、竇軌は務農政策を徹底し、諸県に命じて生業につかず遊んでいる者をつかまえては仕事につかせた。人々は竇軌を恐れたが、益州は教化され治安は整備された。

竇抗(とうこう) / 字:道生(?‐621)
隋の洛州総管・陳国公竇栄定の子。母は楊堅の姉の万安公主。楊堅の外甥、太穆皇后の父竇威の族甥で、隋唐二王朝の外戚にあたり、両王朝で重んじられた。早くから李淵に隋朝に背くよう提言し、李淵が長安を平定すると世民の下で薛挙、劉武周、王世充、竇建徳征戦に従軍し、東都平定の功績で竇軌とともに廟に叙勲された。李淵から兄と呼ばれ、宮中では舅と呼ばれて慕われた。李淵の遊宴に常に陪侍し朝廷に出仕することがなかった。洛陽が平定されると竇軌と共に廟で叙勲された九人のうちに列したが、同年に宴会中に暴卒した。


【巻六十二 列伝第十二:李綱、鄭善果、善果從兄元璹、楊恭仁、恭仁子思訓、恭仁弟続、師道、皇甫無逸、李大亮】

李綱(りこう) / 字:文紀(547‐631)
観州蓚の人。はじめ周に仕官し、隋の開皇末に太子洗馬となり、楊堅に信任され尚書右丞となった。朝廷で楊素や蘇威の意見に異を唱えることが多く、この二人と対立した。林邑(ベトナム)の討伐で楊素の意を汲んだ劉方に痛めつけられ、林邑から帰還すると蘇威から弾劾を受けた。赦免されて鄠県で屏居した。大業末に商胡の何潘仁に攫われ、彼の下で長史を務めた。唐に帰順すると長安で政治に参与した。唐が興ると礼部尚書、太子詹事となり、李淵に度々進諫した。李建成は李綱を礼遇したが、猜疑心が強く狩猟を好み、過度に飲酒を好んだ。李綱は度々諌めは聞き入れられず、鬱々と過ごすようになり、同年に再び退職を申し出、太子少保のみを継続して務めた。世民が即位すると、貞観三年(629)に太子少師となり、貞観五年(631)に85歳で卒した。
新旧唐書李綱伝

鄭善果(ていぜんか) / 字:?(569‐629)

楊恭仁(ようきょうじん) / 字:?(568‐639)

楊師道(ようしどう) / 字:?(568以降?12兄の楊恭仁が568年に生まれている。‐647)

李大亮(りたいりょう) / 字:?(586‐644)


【巻六十三 列伝第十三:封倫、蕭瑀、瑀子鋭、瑀兄子鈞、裴矩、宇文士及】

封徳彝 / 封倫(ほうとくい / ほうりん) / 字:徳彝(568‐627)
字で通称される。

蕭瑀(しょうう) / 字:時文(575‐648)
南梁の明帝蕭巋(しょうき)の子。幼くして仏教を好み、劉孝標の『弁命論』へ反証して『非弁命論』を作り、ときの儒者に賞賛された。南梁が滅亡し姉の蕭氏が隋の晋王楊廣の妃となると蕭瑀も長安に同行した。楊廣が即位し蕭妃が皇后(煬愍蕭皇后)となると外戚として重用されたが、楊廣の意に背く諫言を行なったため隋末に河池郡守に左遷された。李淵が長安を平定すると招かれて帰順し、信任を受けて諸政務を掌握し蕭郎と呼ばれ重んじられた。しかし李淵の遷都の建議に納得せず、また仏教弾圧に反対を貫いた。李世民が即位すると尚書左僕射となり重用された。蕭瑀が封徳彝と対立すると、房玄齢らは徳彝を慕い蕭瑀と疎遠になった。蕭瑀は狭量で玄齢らの小さな過失を咎め、朝廷を乱し李世民の不興を買った。しかし李世民からの信任は深く、五度宰相職を罷免されたが五度復職したという。李世民から〈疾風に勁草を知る〉13激しい風が吹いたときに丈夫な草が見分けられる。転じて困難に遭遇してはじめてその人の忠誠心や人徳を知ることができるということ。の詩を送られた際には「死するの日と雖も猶お生ける年の如し」と返答したという。

裴矩(裴世矩)(はいく / はいせいく) / 字:弘大(547‐627)

宇文士及(うぶんしきゅう) / 字:仁人(?14維基百科によれば572年生まれ。‐642)
雍州長安の人。父の宇文述は隋朝の重臣であり、五貴(楊廣の五人の腹心)の一人に数えられた。


  • 1
    『旧唐書』に拠る。『新唐書』では湖州長城の人とされる。
  • 2
    維基百科によれば565年生まれ。
  • 3
    没年は不明だが、死去したのち貞観十三年(639)に邳国公に改封されている。
  • 4
    維基百科によれば570年生まれ。
  • 5
    維基百科によれば569年生まれ。
  • 6
    維基百科によれば588年生まれ。
  • 7
    『旧唐書』に拠る。鷟『朝野僉載』は妻の姓を柳氏とする。
  • 8
    《大唐故司空公上柱国淮安靖王墓誌銘》に拠る。
  • 9
    『旧唐書』宗室 太祖諸子代祖諸子 李道宗伝は、李道宗を「李世民による劉武周征討(西暦619年)に年十七で従った」とし、「永徽4年(653年)に五十四歳で死去した」とする。前者に従えば603年生まれとなり、後者に従えば600年生まれとなる。
  • 10
    弟の温彦博が574年に生まれている。
  • 11
    兄の温彦博が574年に生まれている。
  • 12
    兄の楊恭仁が568年に生まれている。
  • 13
    激しい風が吹いたときに丈夫な草が見分けられる。転じて困難に遭遇してはじめてその人の忠誠心や人徳を知ることができるということ。
  • 14
    維基百科によれば572年生まれ。