人物紹介(秦王府十八学士)

隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5
隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア


秦王府十八学士(しんおうふじゅうはちがくし)
秦王李世民が洛陽平定後に開いた秦王府文学館の十八人の学士のこと。
画家である閻立本が彼らの姿を描き、文学の褚亮がその図を《十八学士写真図》と號したのに由来する。


大行台司勲郎中 杜如晦(とじょかい) / 字:克明(585‐630) 諡:成 (凌煙閣二十四功臣 第三席)
京兆杜陵の人。父は隋に仕えた杜吒。若くして聡悟であり、好んで文史を談じた。隋の大業中に常調を以て選に授かり、吏部侍郎の高孝基から才能を認められた。滏陽県尉を務めたが棄官し、李淵が挙兵すると世民に召し出されて秦王府兵曹参軍となった。ときに秦王府の英俊の多くが外州に遷任されたため、世民はこれを憂いていた。房玄齢が「府僚に去る者が多くとも、惜しむに足りません。しかし如晦は聡明識達、王佐の才の持ち主です。もし大王が藩を守り端拱すれば用いるところはありません。しかし四方を経営しようと欲すれば彼以外の人物はいないでしょう」と説くと、上奏して秦王府にとどめ置かれた。薛仁杲、劉武周、王世充、竇建徳征戦に従軍し参謀として功績をあげた。天下統一後は秦王府十八学士の筆頭となった。策謀に長じた玄齢に対し如晦は決断力に優れた。世民が玄齢と事を謀ると玄齢は如晦に判断を委ね、如晦は常に玄齢の策を取るよう決断した。貞観三年(629)冬に体を病み、翌貞観四年(630)に逝去した。世民は深く如晦の死を悼み、彼を思い出す度に涙した。


記室考功郎中 房玄齢(ぼうげんれい)1『旧唐書』房玄齢伝は〈房喬、字玄齡〉と玄齢を字、喬を諱とする。『新唐書』房玄齢伝は〈房玄齡、字喬〉と諱を玄齡、字を喬とする。《房玄齢碑》は『新唐書』と同様玄齢を諱、喬を字とする。 / 字:喬(578‐648) 諡:文昭 (凌煙閣二十四功臣 第五席)
齊州臨淄の人。父は隋で涇陽令を務めた房彦謙。幼くして聡明であり、隋朝の滅亡を予見し父彦謙から見識を奇とされた。十八歳で本州の進士に挙げられ、羽騎尉を授けられが楊諒の乱に連座して除名され、持ち場を得ず諷讀に努めて過ごした(『冊府元亀』巻九百二十五)。世民が渭北に進軍すると自ら軍門を訪ね、その日に渭北道行軍記室参軍に抜擢された。玄齢は世民を知己とし、軍が賊寇を平定する度に英俊を入幕させ、彼らと共に死力を尽くした。李建成と世民の対立が深まると、玄齢は先んじて長孫無忌に「今すでに嫌隙が生じ、禍いはまさに起ころうとしている。ひとたび発端があれば必ずや大乱が起こるだろう。周公の故事に従って外に中原を安んじ内に宗廟社稷を安んじ、孝養の礼を尽くすより最善の策はない。国家の滅亡よりも、身名を滅ぼす方が良いではないか」と説いた。李建成の讒言により杜如晦と排斥を受けたが、秘かに世民に呼び寄せられ入閣して事を謀った。論功行賞では第一等となり、世民が即位すると尚書左僕射となった。玄齢は百司を任総する立場でありながら昼夜心を尽くして職務に勤しみ、吏事に明達し法令の審定は公正で、論者は彼を良相と称えた。


記室考功郎中 于志寧(うしねい) / 字:仲謐(588‐665) 諡:定
雍州高陵の人。隋の内史舎人の于宣道の子。大業末年に冠氏県長に任じられたが、山東で叛乱が群発した、官職を捨てて帰郷した。李淵が起兵して関中に入ると、群衆を率いて長春宮にて李淵を迎えた。世民が渭北道行軍元帥に任じられると、召し出されて元帥府の記室となり、殷開山らと共に軍謀に参与した。天策府中郎となり、常に世民の征討に侍従し、文学館学士を兼ねた。世民が即位すると中書侍郎、太子左庶子、太子詹事などを歴任した。皇太子李承乾の教導にあたり、孔穎達と共にしばしば切諫したため、世民からたびたび勉労された。李承乾が廃されると東宮官はみな罪を得たが、ひとり于志寧のみが慰労され、侍中に転じた。高宗年間に李治から武照(則天武后)の立后について尋ねられると、長孫無忌と褚遂良は強く反対し、于志寧は沈黙を貫いた。武后は無忌と遂良と共に志寧を恨み、排斥を企み許敬宗を嗾けた。無忌が流刑となり謀反の容疑で弾劾され自縊に追い込まれると、志寧も連座して免職された。まもなく栄州刺史に左遷され、麟徳二年(665)に死去した。


軍諮祭酒 蘇世長(そせいちょう)2《十八学士于志寧書賛巻》では諱を台、字を世長とする。(?‐627?) 諡:?
京兆郡武功の人。十餘歲にして北周の武帝(宇文邕)に上書し虎門館で学んだ。楊堅が禅譲を受けると政治についての上書し、頗る補益を出した。江都にて楊廣が弒殺されると喪を発して慟哭し、王世充が僭號すると太子太保、行台右僕射となり、世充の兄の子王弘烈とその将である豆盧褒と共に襄陽を守った。武徳四年(622)に洛陽が平定されると世長は弘烈に勧めて唐へ帰順した。李淵は褒を誅殺し、世長の帰順が遅れたのを責めた。世長が頓首して「鹿を獲た後に、同じく鹿を逐った人間を肉を巡って争った罪に問うことがありましょうか?」と答えると、李淵は笑って彼を許し、にわかに玉山屯監を授けられた。のちに陝州長史、天策府軍諮祭酒となり、秦王府に招かれて学士となった。世長は機智に富み学問も修めていたが、書物を読むことについては簡率で、酒を嗜み威儀がなかった。しかし貞観初に突厥に対する使者を務めた際、頡利と礼を巡って争ったが屈せず、賄賂を受けとらなかったため朝廷から壮と讃えられた。


天策府記室 薛収(せつしゅう) / 字:伯褒(592‐624) 諡:献
隋の内史侍郎薛道衡の子。家を出て族伯父の薛孺の後を継いだ。学術に秀で族兄の薛徳音や従子の薛元敬と名声を共にし、「河東三鳳」と称された。父の道衡が楊廣から死を賜ったため隋に仕えるのをよしとせず、房玄齢の推薦で世民に謁見し、秦王府主簿、陝東大行台金部郎中を兼ね、王世充、竇建徳征戦に従軍した。建徳が世充の援軍にかけつけた際、唐の諸将の多くは挟撃を恐れ撤退を進言したが、薛収は「東都の包囲は塁を守って出兵せず、大王(世民)が精鋭を率いて成皋に拠り、竇建徳を迎え撃てば、一戦で決着をつけ遠からず二賊を捕縛できます」と進言した。世民は薛収の策を採用し、竇建徳を迎え撃って捕らえ、王世充を降した。武徳七年(624)に病床についた。世民は常に薛収に遣いを送り、また彼を輿に載せて王府に呼び見舞った。薛収は感激してさめざめと涙を流した。まもなく33歳で死去した。


文学 褚亮(ちょりょう) / 字:希明(560‐647) 諡:康
杭州錢塘の人。曾祖父の褚湮は梁で御史中丞を務め、祖父の褚蒙は太子中舍人を務めた。父の褚玠は陳で秘書監を務め、皆名前が知られた。褚亮は若くして学問を好み、群書に通じ文章をよくした。18歳にして陳の僕射の徐陵に面会して語り合い、才能を見出された。また陳の後主に召されて詩を賦し賞賛された。隋が興ると大業年間に太常博士となったが、楊玄感と友好的であったとして西海郡司戸に左遷された。隋末には薛挙の下で黄門侍郎を務めたが、世民が薛軍を滅ぼすと深く礼遇され、秦王府の文学館学士に任ぜられた。常に世民の征伐に侍従し、軍中の宴筵にあっては必ず歓賞に預かった。また軍中では諷議によって多くの益をあげた。世民が閻立本に十八学士の画を描かせた際、褚亮は命を受けて賛を制作した。世民が即位すると弘文館学士となり、散騎常侍に任ぜられ、陽翟県男に封ぜられた。晩年に体を病むと常に世民から医薬を賜り、遣いが絶えることがなかった。子の褚遂良も大成し、宰相に昇った。


文学 姚思廉(ようしれん) / 字:簡之(557‐637) 諡:康
雍州萬年の人。父の姚察は陳で吏部尚書を隋の太子内舍人、秘書丞を歴任した。思廉は幼くして察に漢史を学び、家学をよく継ぎ、勤学で嗜欲がなかった。察は梁と陳の二史を編纂しており、臨終の際に二史の編纂を続けるよう思廉に託した。父の遺言を上表し梁と陳の二史の編纂を継ぐのを許され、楊廣の命を受けて起居舍人の崔祖濬とともに『区宇図志』の編纂に参与した。大業末に代王(楊廣の孫の恭帝楊侑)の侍読となった。李淵が長安を征圧した際は一人代王を輔け、唐の兵士を「唐公(李淵)が義兵を挙げたのは王室を輔けようとしてのことだ。卿等は代王に対して礼を欠くべきではない」と喝破し、忠烈の師と称えられた。李淵が受禅すると、秦王府の文学を授けられた。世民は思廉の忠義を深く賞賛し、「卿の節義の風を想う。故にこの贈あり」としたためた書を送り、召し出して文学館学士とした。貞観初に著作郎、弘文館学士となり、貞観三年(629)に詔を受け魏徴と共に『梁書』『陳書』の二史を撰した。謝炅ら諸家の梁史を採用して父察の編纂事業を進め、旧事について推究し、傅縡や顧野王の記した舊史を修訂して梁書五十巻、陳書三十巻を撰し、父の遺した業を達成した。思廉は王府にいた頃からの旧誼があり、世民から深く礼遇され、政治に得失があれば常に密奏し、また直言して隠すところがなかった。


太学博士 陸徳明(陸元朗)(りくとくめい / りくげんろう) / 字:徳明(?‐630) 諡:?
蘇州呉の人。はじめ周弘正に学び玄理をよく談じた。陳で任官して始興国〔王陳叔陵の府の〕左常侍、国子助教を歴任し、陳が滅ぶと帰郷した。楊廣が即位すると秘書学士に抜擢され、国子助教となり、越王楊侗のもとで司業となり、入殿して経学を教えた。王世充が帝を僭称すると、その子である王玄恕の師となり束脩の礼を受けることとなった。徳明はこれを恥じて巴豆散(峻下剤)を服用し、王玄恕が礼拝しても口を利かず、この仮病によって成皋に移され人付き合いを杜絶した。世充が平定されると世民に召し出されて文学館学士となった。李淵が釈奠に臨んだ際、博士の徐文遠、沙門の慧乗、道士の劉進喜を召し出し、それぞれ孝経、般若経、老子を講義させた。徳明はこの三人よりも大義を理解しており、要点をくまなく説き、三人は太刀打ちできなかった。李淵は喜んで「三人とも誠に弁が立つが、徳明は一人で彼らを凌いでしまった。まさに賢というべきだろう」と称えた。著作の多くが世に伝わっており、のちに世民が徳明の遺した『経典釈文』を読み、甚だ感嘆して徳明の家に帛二百段を賜った。


太学博士 孔穎達(くようだつ) / 字:冲遠(574‐648) 諡:憲
冀州衡水の人。八歳から学問を学びはじめ、長ずると服虔の『春秋左氏伝』、鄭玄の『尚書』『毛詩鄭箋』『礼記』、王弼の易をよく学び、また算暦に通じ善く文を属した。同郡の劉焯に学び教授の任についた。隋の大業初、貢挙の明経科に及第し、河内郡の博士を授けられた。隋末に乱が起きると虎牢の地に避難した。世民が洛陽を平定すると召し出されて文学館の学士となり、武徳九年に遷任して国子博士に抜擢された。ときに世民は即位して日も浅かったが、庶政を心に留めており、穎達が度々忠を以て進言するので一層親任を置くようになった。魏徴とともに『隋書』を撰し、暦、明堂、五礼の修定の決裁に携わった。また皇太子であった李承乾の命によって『孝経義疏』を撰し、学者から讃えられた。東宮の職にあっては、于志寧と共に度々太子李承乾の過失を諌めた。穎達の諌諍は常に手厳しく、承乾の乳母である安婦人は「太子はすでに成人しているのです。幾度も面折して宜しいものでしょうか」と穎達を諌めた。穎達は答えて「私は国から厚い恩を賜っているのです。たとえ太子の恨みを買って死んでも後悔するところではありません」と言った。世民は穎達の姿勢を甚だ喜び、承乾の意を励ました。顔師古等と共に詔を受けて『五経義訓』凡そ一百八十巻を撰定した。はじめ名を『義賛』としたが、詔によって『正義』と名を改めた。世民は「卿等は広く古今のことを統べ、正しい道理に通じ、儒学の旧説、異説を考察し、聖人の考えを書にまとめた。まさに不朽の行いである」と褒賞した。


主簿 李玄道(りげんどう) / 字:元易3《唐李玄道墓誌》に拠る。(577‐645) 諡:?
本貫は隴西。玄道の家は代々鄭州に住居し山東の冠族となった。はじめ隋に仕えて斉王府の属官となった。李密が洛口に拠ると召し出されて記室となり、李密が敗れると王世充に捕らえられた。世充に捕らえられた人々は死を恐れたが、玄道は「死生とは天命によるもので、憂いたところで何になるという」と言い寝てしまったので、人々は彼の見識を讃えた。世民によって洛陽が平定されると、召し出されて秦王府の主簿となり、文学館の学士を兼ねた。貞観初に王君廓が幽州都督となると、輔佐として幽州長史となり、府の事務を取り仕切った。君廓が法を犯すたび、玄道は義に則って糾弾した。また君廓から与えられた婢がもともと良家の子女だったと知って解放したため、二人の間柄は険悪となった。甥の房玄齢と書簡を交わす間柄であったが、君廓がその書簡を見つけた際、草書が読めなかったため自分を陥れようとしたものではないかと疑い、恐れて叛を起こした。玄道は連座して巂州に流されたが、幾ばくもせずに京師に召還され、常州刺史に抜擢された。清廉倹約を以て職に務め、民衆を安んじた。


天策倉曹 李守素(りしゅそ)4《十八学士于志寧書賛巻》では諱を守、字を守素とする。(?‐?) 諡:?
趙州の人。守素の家は代々山東の名族であった。学問に優れ学才があり、容貌は魁偉で、弁舌に優れ見識を持ち合わせていた。出来杉くん。世民が王世充を平定すると、召し出されて文学館の学士となり、天策府倉曹参軍を務めた。守素は譜学に通じ人々から「行譜」(『新唐書』『隋唐嘉話』では「肉譜」)と号された。あるとき虞世南と守素は人物について論じると、江南・山東の出身者について語るときは二人で対酬していたが、北方の諸侯について話が及ぶと守素のみが一方的に話し、世南はただ笑って答えられなくなった。世南が「行譜はまことに畏るべきだ」と感嘆すると、許敬宗が「李倉曹は人物を善く談じて『行譜』という名を得ておりますが、立派なことであるのに美しい名前とは言えません。公の言葉は人々に定着しましょうから、改めた方が良いのではないでしょうか」と言い、世南は「むかし任彦昇は経籍を立派に談じ、梁代には『五経の笥(五経の収まった器)』と称された。いま倉曹は『人物志』とするべきだろう」と言った。渭州刺史の李淹のみが守素と系譜を論じて太刀打ちできたという。


記室参軍 虞世南(ぐせいなん) / 字:伯施(558‐638) 諡:文懿 (凌煙閣二十四功臣 第二十席)
越州餘姚の人。隋では起居舎人などを歴任した。兄の虞世基は隋の重臣にあり、また楊廣の腹心であった。隋末に宇文化及が楊廣を弑逆し、次いで世基を誅殺しようとすると、世南は泣いて身代わりになることを請願した。化及は聞き入れず世基を殺害したが、時の人は世南を称えた。化及が竇建徳に滅ぼされると建徳に仕え、世民が建徳を滅ぼすと秦王府に入幕した。世南は衣服の重さに耐えられないように見えるほど容貌は懦弱であったが志性は抗烈で、常に世民に政道を説き、世民が失態を犯せば必ず直諌した。世民は甚だ世南を愛顧し、暇を見つけては世南と古今の皇帝について語り、共に書籍を読んだ。初唐の三大家(世民に仕えた初唐時代の三大書家、虞世南・欧陽詢・褚遂良の総称)の一人であり、書家としても名声があった。


参軍事 蔡允恭(さいいんきょう) / 字:克譲?5《十八学士于志寧書賛巻》に拠る。(?‐?) 諡:?
荊州江陵の人。梁の左民尚書蔡大業の子。容姿が美しく、詩を巧みとした。隋に仕え、著作佐郎、起居舍人を歴任した。楊廣は詩を賦すと必ず允恭に諷誦させた。楊廣に宮女へ詩を教えるよう遣わせられたが、允恭はこれを深く恥じ入り、度々病気と偽って召し出しに応じなかった。また内史舍人に任ぜられ、宮廷に入って宮人に詩を教えるよう求められたが固辞して従わず、これにより楊廣から疎んじられるようになった。生き辛い。江都の難にあたって、宇文化及に従い西上したが、化及が滅亡すると竇建徳に捕らえられた。世民が建徳を平定すると秦王府に引き入れられ秦府参軍となり、文学館の学士を兼ねた。貞観年間、太子洗馬となり、まもなく致仕して自宅にて卒した。


参軍事 顔相時(がんそうじ) / 字:睿(581年以降6兄の顔師古が581年に生まれている。‐645) 諡:?
顔師古の弟にあたる。兄と共に学問で知られた。武徳年間、兄と共に天策府に仕え、天策府参軍事と文学館学士となった。貞観年間に諫議大夫となった。相時は人々の過失や誤りを正し、他の臣下と争論する気風があった。転じて礼部侍郎となった。相時は病気がちで痩躯であったため、世民はいつも使いをやって医薬を賜っていた。仁愛な性格であり、兄の顔師古が亡くなると哀惜してやまず、まもなく卒した。


著作佐郎攝記室 許敬宗(きょけいそう) / 字:延族(592‐672) 諡:恭
許敬宗、字は延族。杭州新城の人。父は隋で給事中を務めた許善心。幼くして文を巧みとし、隋の大業年間に貢挙の秀才に及第し、淮陽郡司法書佐などを歴任した。善心が宇文化及に殺害されると李密の下に逃れ、魏徵と共に管記を務めた。武徳初に世民が敬宗の名声を聞き、召し出されて文学館の学士となった。高麗遠征では高士廉とともに機密を司った。太子李承乾が廃立され張玄素、令狐徳棻らがみな除名となると、太子の罪を臣僚に負わせてはならないと上表し、このため多くの者が復職した。李治が即位すると礼部尚書となった。李治が武照を皇后に立てようとすると、長孫無忌、褚遂良らは切に反対したが、敬宗は密かに高宗に立后を勧めた。敬宗は無忌にも武照を立てることを勧めたが、無忌は顔色を変えて叱責した。敬宗は武照の腹心となり、李治が李勣の言葉で立后を決意すると、朝廷において「田舎者でも十斛の麦が増収すれば女房を変えたがる。ましてや天子が皇后を廃立するのに、どうして諸人が妄りに異議を唱えられるのか」と宣言した。武后は立后に反対した無忌、遂良、于志寧らを恨んでおり、敬宗は無忌へたびたび利害を説いたが、無忌は聞き入れず常に敬宗を面折した。このため敬宗も無忌を憎むようになった。敬宗は武后の意を受けて無忌の謀反を捏造し、遂良、志寧、柳奭、韓瑗らも無忌の朋党として朝廷から排斥し、高宗朝で権勢を揮った。
ーーー
〈許敬宗による史書の曲筆〉(『舊唐書』許敬宗伝、『新唐書』奸臣上許敬宗伝より)
・敬宗は貞観中に著作郎となり、国史の兼修を務めた。このことを喜び、親しい人間に「官吏は著作を作らなければ、門戸を成すことができない。」と語った。はじめ、《高祖実録》《太宗実録》は敬播は撰述し、その内容はすこぶる詳直であった。しかし敬宗が国史を司ると、恣意的に史書が改竄された。
・虞世基と敬宗の父善心はともに宇文化及に殺害されたが、封徳彝は隋で内史舍人を務めており、それをつぶさに目の当たりにしていた。徳彝は人に「世基が誅殺されるときは、弟の虞世南が身を投げ出して身代わりになることを請うた。善心が殺されるときは、敬宗は舞蹈して生き延びることを求めた。」と語った。敬宗はこれを深く憎み、徳彝の立伝では彼の罪悪を過剰に粉飾した。
・敬宗の娘は、左監門大将軍の錢九隴に嫁いでいた。九隴はもともと李家の家奴である。敬宗は曲筆して九隴の門閥と功績を捏造し、劉文静や長孫順徳と同じ巻にその伝を収録した。
・敬宗の子の許昂は尉遅宝琳の孫を妻としていた。敬宗は多くの賄賂を得、宝琳の父である尉遅敬徳の伝ではあらゆる過失を記さなかった。また世民が《威鳳賦》を作り長孫無忌に賜った出来事を、敬徳にすり替えた。
・白州の人龐孝泰は、兵を率いて高麗遠征に従軍したが、賊に懦弱を見抜かれて襲撃され大敗した。敬宗は賄賂を送られたため、史料では孝泰を称賛し、賊徒を大いに破り、数万を斬獲したとでっち上げた。また「中華の将で驍健なる者は、ただ蘇定方と龐孝泰のみである。曹継叔、劉伯英らは、みなその下に出る。」と記した。
・敬宗はこのように資料を曲筆したが、貞観代から朝廷の修史に携わり、晋から隋までの国史、および《東殿新書》、《西域圖志》、《文思博要》、《文館詞林》、《累璧》、《瑤山玉彩》《姓氏録》、《新禮》,など、数十の史料を監修し、その褒賞は数えきれないほどであった。


著作佐郎攝記室 薛元敬(せつげんけい)7《十八学士于志寧書賛巻》では諱を壮、字を元敬とする。(?‐?) 諡:?
蒲州汾陰の人。隋の選部侍郎薛邁の子。叔父の薛収、および薛収の族兄である薛徳音と共に名声があり、人々から「河東三鳳」と称された。薛収は長雛、徳音は鸑鷟、年最少の元敬は鵷雛と言った。武徳年間に秘書郎となり、世民に召されて天策府参軍と直記室を兼ねた。世民が文学館を開くと薛収と共に学士となった。薛収は房玄齢や杜如晦と心を寄せあい深く結託していたが、元敬は慎んだ態度で彼らに接し、馴れ合おうとしなかった。如晦は常に「小記室とは親しくすることもできないが、疏にすることもできない」と語った。世民が太子となり軍事や国政が東宮で総括されるようになると、元敬は文翰を司り、「称職」と讃えられた。まもなく在官のまま卒した。


太学助教 蓋文達(がいぶんたつ) / 字:藝成8《唐太傅蓋公墓碑》に拠る。(578‐644) 諡:?
冀州信都の人。経典や史書を渉猟し、『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『春秋左氏伝』の三伝に特に通じた。人となりは雅正で鬚貌が美しく、君子の風格を持っていた。冀州刺史であった竇抗が儒生を集め討論を行わせた際、劉焯、劉軌思、孔穎達といった儒家の大家が居並ぶ中、文達は難しい問題にも諸儒の意表をつく答えを出したので、一坐の者はみな感嘆した。竇抗が文達が誰に学問を学んだのか尋ねると、劉焯は「『多きを以て寡きに問う』の言葉の通り、この焯を師としております」と言った。竇抗は「『氷は水から生まれて水よりも冷たい』とはこのことだろう」と感嘆した。世民に召し出されて文学館の学士となり、貞観十年(636)に諫議大夫に転じ、弘文館学士を兼ねた。宗族の蓋文懿も儒業で名が知られ、当時において「二蓋」と称された。


軍諮典簽 蘇勗(そきょく) / 字:慎行(?‐?) 諡:?
蘇勗、字は慎行。本貫は雍州武功県。武徳年間に秦王諮議、典簽、文学館学士となった。貞観年間に南昌公主(李淵の第十女)を娶り、駙馬都尉を拝命した。累選して魏王李泰の王府の司馬となった。勗は学を修め高名であり、甚だ泰から重んじられた。勗は泰に勧めて文学館を開かせ、才のあるものを引き入れて蕭徳言・顧胤・蒋亜卿・謝偃らとともに『括地志』を撰した。吏部郎太子左庶子を歴任して卒した。


薛収が武徳七年(624年)に卒し、虞州録事参軍 劉孝孫が補員として入館
虞州録事參軍 劉孝孫(りゅうこうそん) / 字:徳祖?9《十八学士于志寧書賛巻》に拠る。(?‐?) 諡:?
荊州の人。孝孫は弱冠にして名が知られ、時の人である虞世南、蔡君和、孔徳紹らと山水に登臨し文会を共にした。大業末に王世充の弟である杞王辯の行臺郎中を務めた。洛陽が平定され辯が面縛されると麾下の人間は皆離散したが、ひとり孝孫だけが號慟し遠郊まで彼を見送り、時の人はこれを義とした。武徳初に虞州録事参軍を務め、世民に召し出されて秦王府の学士となった。貞観六年(632)遷任して著作佐郎となり呉王の友となり、歷代の文集をもとに呉王のために『古今類序詩苑』四十巻を撰した。貞観十五年(641)に本府諮議参軍となり、しばらくして太子洗馬となったが拝命する前に卒した。


  • 1
    『旧唐書』房玄齢伝は〈房喬、字玄齡〉と玄齢を字、喬を諱とする。『新唐書』房玄齢伝は〈房玄齡、字喬〉と諱を玄齡、字を喬とする。《房玄齢碑》は『新唐書』と同様玄齢を諱、喬を字とする。
  • 2
    《十八学士于志寧書賛巻》では諱を台、字を世長とする。
  • 3
    《唐李玄道墓誌》に拠る。
  • 4
    《十八学士于志寧書賛巻》では諱を守、字を守素とする。
  • 5
    《十八学士于志寧書賛巻》に拠る。
  • 6
    兄の顔師古が581年に生まれている。
  • 7
    《十八学士于志寧書賛巻》では諱を壮、字を元敬とする。
  • 8
    《唐太傅蓋公墓碑》に拠る。
  • 9
    《十八学士于志寧書賛巻》に拠る。