『旧唐書』列傳第十六 杜如晦伝

『旧唐書』巻六十六 列傳第十六 杜如晦伝、杜楚客伝、杜淹伝の訳


杜如晦
杜如晦(とじょかい)、字は克明、京兆杜陵1現在の陝西省西安市雁塔区にあたる。の人。曽祖父の杜皎(とこう)は北周に開府儀同、大将軍、遂州刺史を贈られた。祖父の杜徽(とき)は北周で河内太守を務めた。従祖父(祖父の兄弟)の杜杲(とこう)2杜杲、字は子暉。杜皎の子で、杜徽の弟にあたる。北魏、西魏、北周、隋に仕えた。は北周で温州刺史を、隋では工部尚書を務め、義興公に封ぜられた。杜杲については『周書』に列伝がある。父の杜吒(とた)は隋で昌州長史を務めた。

如晦は若くして聡悟であり、好んで文史を談じた。隋の大業年間3隋の煬帝の治世(605年〜618年)に用いられた年号。に常調官に選ばれた。吏部侍郎4吏部は尚書省(行政執行機関)に属する六部のうち、官僚の選授や考課など人事を担当する部署。長官である尚書が一名、次官である侍郎が二名配置された。であった高孝基5高構(540-611)。孝基は字である。本貫は北海郡。ユーモラスな性格だが聡明多弁で読書を好んだ。はじめ北斉に仕え、北斉が滅亡すると北周に仕え、隋が建国されると冀州司馬として有能で知られた。煬帝が即位すると吏部侍郎となったが、能力は吏部の者でも最も優れており、皆が彼の指示を仰いだ。劇談を好み軽薄な性質であったが内心は優雅であり、特に吏部尚書の牛弘から重んじられた。房玄齢や杜如晦の才能を見抜き、後に彼ら唐の大臣となると、高構は人を知る鑑を持っていたと称された。は如晦を器として深く重んじ、顧みて語って言った。「公には応変の才6その場において適切な判断ができること。があり、棟樑の用7一国を支える重職。を為す人間である。願わくば令徳を保崇せよ。今附して卑職に就かんとするのは、わずかな禄俸を得るためのみである。」と。のちに滏陽8現在の河北省邯鄲市磁県にあたる。尉に補官されたが、ついに官を棄てて郷里へ帰った。

太宗(李世民)が長安を平定すると、引き入れられて秦王府兵曹参軍となったが、にわかに陝州総管府長史へ遷った。ときに秦王府の英俊は人事によって他に遷される者が多く、太宗はこれを思いわずらっていた。記室の房玄齢が言った。「府僚に去る者が多いといえど、ほとんどの者は惜しむに足りません。しかし杜如晦は聡明識達にして、王佐の才の持ち主です。もし大王が〔王として〕籓を守り端拱9正しく手をこまねく姿勢。転じて帝王が荘厳に臨朝し、清廉な政を為し、無為にして国家が治まること。するのであれば、彼を用いるところはありません。しかし必ずや四方を経営せんと望むのであれば、彼以外に用いる人間はおりません。」と。太宗は大いに驚いて言った。「君が言わなければ、きっと彼を失っていただろう!」と。遂に上奏し、如晦は秦王府の属官に留められた。

〔太宗による〕薛仁杲(せつじんこう)、劉武周、王世充、竇建徳(とうけんとく)平定に従軍し、帷幄に参謀をつとめた。ときに軍事と国事は膨大であったが、如晦は流れるようにそれらを剖断したため、時輩は彼に深く服した。累遷して陝東道大行台司勲郎中となり、建平県男に封ぜられ、食邑は三百戸にのぼった。ついで本官を兼ねて文学館学士10太宗は武徳四年に四方から学士を募り、杜如晦ら十八人を文学館の学士に抜擢した。となり、天策府11太宗が王世充・竇建徳を平定すると、李淵は太宗の功績が非常に高いことから古来の官号ではそれを称するのに不足だと考え、新たに「天策上将」という官号を設置した。天策上将の開府した府を天策府、または天策上将府という。が建つと従事中郎となった。閻立本によって秦王府の十八学士が絵に描かれると、如晦はその冠首となった。文学の褚亮は彼を賛して、「建平文雅、休(よ)きかな烈光有る。12『詩経』臣工之什 載見に〈鞗革(どうかく)は鶬(しょう)有り、休(よ)きかな烈光有る。〉とある。「くつわの飾りも金模様、美しくあざやかに光り輝いている」の意味。『新釈漢文大系 詩経 下』(石川忠久著、明治書院 2007)より引用忠を懐き義を履み、身立ち名揚がる。13『孝経』開宗明義章第一に〈身を立て道を行い、名を後世に揚(あ)げ、以て父母を顕わすは、孝の終りなり。〉とある。」と記した。重んぜられることはこのようであった。

隠太子(李建成)は如晦を深く忌み、斉王(李元吉)へ言った。「秦王府の中で憚るべきは、ただ杜如晦と房玄齢のみである」と。隠太子が高祖(李淵)に讒言したため、如晦は玄齢と共に排斥されたが、のちに密かに秦王府に入って策を案じ、玄武門の変においては玄齢らと〔第一等の〕功を等しくした。(玄武門の変ののちに)抜擢され太子左庶子となり、にわかに兵部尚書へ遷り、蔡國公に封ぜられ、実封は千三百戸にのぼった。貞観二年(628)、本官を以て検校侍中14検校は監査の意味。「検校侍中」のように官職の上につく場合は「代理」を表し、その官職を正式に拝授されたわけではないが、職権を行使できる立場であることを示す。侍中は門下省(詔勅の審議機関)の長官で、中書省(詔勅の起草、政策の立案を担当する機関)の長官である中書令、尚書省の長官である左右僕射とともに政務に預かる宰相職にあたる。となり、吏部尚書となり、東宮15皇太子の住居する場所、転じて皇太子そのものも指す。の兵馬を総監し、「稱職(職にかなう)」と讃えられた。

貞観三年(629)、長孫無忌に代わって尚書右僕射16尚書省の長官。本来は尚書令が長官にあたるが、李世民が即位以前に尚書令に就いていたため、李世民即位後は尚書令を実質の空缼とし、左右僕射を尚書省の長官として宰相職とした。となり、選事を担当し、玄齢と共に朝政を司った。台閣の規模、及び典章、人物に至るまで、すべて二人の定めるところであり、はなはだ当代の誉れを獲得した。このため良相を談じる者は、今代に至っても房、杜を賞賛するのである。

如晦は高孝基が人を知る鑑であるとして、彼のために神道碑17墓道に建立する、死者の生涯の事績を記載する石碑。を建て、その徳を記した。その冬に病に遭い、辞職を願い出て許されたが、禄賜は特別にそのまま授けられた。太宗は如晦の病を深く憂慮し、しきりに使者を使わせて病状を問い慰問をし、名医上薬が道に相望むようであった。

貞観四年(630)、病が重篤となったため、太宗は皇太子を第に就かせ臨問させ、太宗自身もその家を訪ねて見舞いした。如晦を慰撫して流涕し、物千段を賜い、それが終わらぬうちに如晦の子を官に任命し、ついに左千牛衛18皇帝の護衛を行う官職。から尚舍奉御19尚舍局の長官。宮廷の設置物や、湯沐、燈燭、灑掃のことを司る。へ超遷させた。間もなく薨去し、年は四十六歳であった。太宗は慟哭すること甚だしく、廃朝すること三日、司空を贈り、萊國公へ徙封し、諡を「成」20『逸周書』謚法解に〈民を安んじ、政を立つるを成という。〉とある。とした。

太宗は手詔して著作郎虞世南へ言った。「朕と如晦、君臣の義重く、不幸奄(にわ)かに物化に従う。勲旧を追念し懐に痛悼す。卿、吾が此の意を体し、為に碑文を制せよ。」と。

のちに太宗が瓜を食していると、その瓜が美味であったため、そこで愴然とし、如晦を悼んだ。瓜の半分ほどに手をつけたが食するのをやめ、使者を遣わせて残りを如晦の霊座に備えさせた。またあるとき玄齢へ黄銀帯を賜り、玄齢を顧みて言った。「昔、如晦と公は心を同じくして朕を補佐した。こんにちこれを賜うところ、唯だ一人公を見るのみである。」そこではらはらと涙をこぼして流涕した。

また「朕が聞くところによれば、黄銀は鬼神のために恐れられるという。」と言い、命じて黄金帯を用意し、玄齢を遣わせて如晦の霊所へ供えさせた。その後太宗は突然如晦を夢に見た。まるで平生のときのようであり、夜が明けるに及んでこのことを玄齢に告げて咽び泣き、御饌を送り如晦の霊を祀らせた。明年の如晦の亡日には、尚宮を遣わせて如晦の宅を尋ね妻子を慰問した。その国官府佐は生前の通りのまま保たれ、終始恩遇は未だかつてないほどであった。

子の杜構が襲爵し、慈州刺史にまでのぼったが、弟の杜荷が叛逆に加担していたため、連座して嶺表へ移りそこで死去した。杜荷ははじめ功臣の子であったため城陽公主を娶り、襄陽郡公を賜爵し、尚乘奉御を授けられていたが、貞観中に太子承乾の謀反が発覚すると、坐して斬首となった。


如晦弟 楚客
如晦の弟、楚客(そかく)。若くして叔父である杜淹(とえん)に付き従い、〔隋末は〕王世充の陣中にいた。淹と如晦の兄弟は元々不仲であり、淹が王行満に如晦の兄を讒言したため、王世充は彼を殺した。21原文は〈淹素與如晦兄弟不睦、譖如晦兄於王行滿、王世充殺之〉。ここに登場する王行満が書家として著名な王行満を指すのかは不明。また王世充の字も「行満」である。(『隋書』王充伝)また楚客捕らえて餓死寸前に追い込んだが、楚客に恨みの色はなかった。〔太宗によって〕洛陽が平定されると、淹は死罪に相当した。楚客は泣涕して如晦に淹の助命を請願したが、如晦ははじめ従わなかった、楚客は 「かつては叔父上が大兄上を殺し、今は兄上が恨みから叔父上を殺す。一族のうちでことごとく殺し合うなど、なんと痛ましいことだろう!」と言って自剄を果たそうとした。如晦はこの言葉に心を動かされ、太宗に請願し、淹はついに恩宥22情けをかけて、特別に刑を軽減したり免除したりすること。を蒙ることとなった。楚客は嵩山23中国河南省登封市にある山岳群。古名を外方、嵩高、崇高ともいう。古来より儒道仏が共存する聖地の一つであった。に隠居した。

貞観四年(630)、召し出されて給事中を拝命した。太宗は楚客に語っていった。「聞くところによれば、卿は長く山居しており、志は非常に高く、宰相の任でなければ出仕できないという。これにどういった理由があるのか?遠いところに行く者は必ず身近なところから始め、高いところに登る者は必ず低いところから始める。24『中庸』第五章に〈君子の道、辟(たと)えば遠きに行くに、必ず邇(ちか)き自(よ)りするが如く、辟(たと)えば高きに登るに、必ず卑(ひく)き自(よ)りするが如し。〉とある。官吏になることを民衆が期待しているのだから、官職の大小を憂いることはない。官僚にお前の兄(杜如晦)は私と肉体こそ違えど、心は同一であり、我が国において大功がある。ゆえに如晦を思ってお前を見る。宜しく朕の意を理解し、如晦の忠義を受け継ぎなさい。」と。楚客は蒲州刺史に任じられ、有能さで甚だ名前を知られた。

のちに魏王李泰の王府の長史を歴任し、工部尚書、摂魏王府事となった。 楚客は太宗が李承乾の素行を喜ばないことを知っており、密かに魏王に命じられて友や朝臣に賄賂を渡し、魏王は聡明で世継ぎに相応しいと語った。人がこのことを上奏しても太宗は何も言わず、のちに謀反が発覚し、はじめてそのことを問題とした。楚客は如晦に佐命の功があることから免死され、家に帰された。ついで虔化県令を拝命し卒した。


如晦叔父 淹
如晦の叔父淹、字は執礼。祖父の業は北周で豫州刺史を務めた。父の杜徴は北周で河内太守を務めた。杜淹は聡明で多芸多才であり、弱冠にして美名で知られた。同郡の韋福嗣と莫逆の交り25莫逆は逆らわないの意。互いに心に逆らうことのない親密な関係。を結び、共に謀って言った。「帝は嘉遁26立派な隠遁生活を送ること。した者を好んで登用する。蘇威は幽人27隠者のこと。であることを理由に召し出され、抜擢して美職を授けられたではないか。」と。そこで二人は共に太白山に入り、隠逸の者であると公言し、時の誉れを得ようとした。隋の文帝(楊堅)はこれを聞くと嫌悪し、二人を江表の謫戍28罪を犯した官吏を左遷し、国境などの辺地を守らせること。またその兵士。とした。のちに郷里へ帰ると、雍州の司馬高孝基が上表して杜淹を推薦したため、承奉郎を授けられた。隋の大業末に御史中丞にまで昇った。

王世充が皇帝を僭称すると、吏部に置かれて大いに重用された。〔太宗により〕洛陽が平定されると、はじめ杜淹は登用されなかったので、隠太子(李建成)を頼ろうとした。ときに封徳彝(ほうとくい)は典選29才能に人材を選抜して官職を授けること。の職にあり、房玄齢にこのことを報告した。玄齢は隠太子が杜淹を得、姦計に長じることを恐れたため、急いで太宗に事情を説き、杜淹を引き入れて天策府兵曹参軍となし、文学館学士とした。30原文には〈引爲天策府兵曹參軍、文學館學士。〉とあるが、杜淹は秦王府十八学士に含まれておらず、誤りであると思われる。しかし『旧唐書』袁天綱伝にも杜淹が武徳中に文学館学士に任じられたとする記述が見られる。(〈淹尋遷侍御史、武德中為天策府兵曹、文學館學士。〉)武徳8年(625年)に慶州総管楊文幹が乱を起こすと31楊文幹の乱。、東宮と連帯していたことを自白したため、杜淹、王珪、韋挺らは罪に問われて越巂32現在の四川省西南部〜雲南省東北部へまたがって置かれた郡。へ流罪となった。太宗は杜淹に罪がないことを理解していたため、黄金三百両を彼に与えた。

太宗が即位すると、京へ呼び戻されて御史大夫となり、安吉郡公に封ぜられ、実封四百戸を賜った。杜淹は典故を熟知しており、特詔によって東宮の儀式簿領を司った。ついで吏部尚書を兼ねて朝政に参与した。33『資治通鑑』巻192には「宰相以外の官僚が朝政に参与するのはこれから始まった。」とある。唐代において、宰相職にない官僚が皇帝により「参知政事」「参議得失」の称号を与えられ宰相による国政会議に参与するのは、太宗の命により吏部尚書杜淹、秘書監魏徴が朝政に参与したことがはじまりである。前後四十人を推薦したが、後に名の知れた者が多かった。

あるとき杜淹が刑部員外郎の邸懐道を推薦すると、太宗は杜淹に「懐道の才能はどのようかな?」と尋ねた。杜淹は「懐道は隋の朝廷にあった頃吏部主事を務めておりましたが、甚だ清慎の名を得ておりました。また煬帝が江都へ向かおうと考えていたころ、百官を召し出して去住の計を尋ねました。すでに煬帝の腹積りは決まっており、公卿らはみな阿諛追従して京師を離れるよう請願しましたが、懐道は官位が卑しいにもかかわらず一人不可を主張いたしました。臣がこの目でそのことを見ております。」と言った。
太宗は言った。「卿はその時どちらの意見に従ったのか」と。杜淹は答えて「江都へ行くべきとの意見に従いました」。太宗は言った。「君主に仕える原則は、過ちを隠さないことだ。卿は懐道の行為を称えておきながら、なぜ自分は間違いを諌めなかったのだ。」と。杜淹は「臣はそのとき重職に就いておらず、諫言をしたところで聞き入れられず徒死し、無益であることを知っておりました。」と答えた。
太宗は言った。「孔子は〈父の命に従うのは孝子とはいえない〉といった。故に父には争子がおり、国には争臣がいる。34『孝経』諫爭章第十五に見える曾子と孔子のやりとりから。〈曾子が「父の命に従うことが孝だと言えるでしょうか」と孔子に尋ねた。孔子は言った。「何ということを言う、何ということを言う。古来は天子には争臣(過失を諫める大臣)が七人いたので、君主が無道になろうとも天下を失うことはなかった。諸侯には争臣が五人いたので、無道になろうともその国を失うことはなかった。大夫に争臣が三人いれば、無道になろうともその家を失うことはなかった。士に争友がいれば、その身が良い評判から離れることはなかった。父に争子がいれば、その身が不義に陥ることはなかった。ゆえに父親に不義があれば、子はその父を諫めて争わねばならず、臣下は君を諫めて争わなければならない。不義にあっては必ず争うものなのだ。父の命に従うことが、どうして孝だと言えようか。」と。〉もし君主が道を外れていたなら、何のために彼の朝廷に仕えているのだ。すでに禄を貰っているのなら、どうしてその過ちを正さずにおれようというのか」と。また群臣に「公等は諫言することについてどのように考えている」と尋ねた。王珪が言った。「昔、比干(ひかん)35中国殷代の王族。紂王の叔父にあたる。は紂王を諌めて殺されましたが、孔子はその仁を賞賛しました。36孔子が比干を仁者と讃えるのは『論語』微子第十八に見える。〈微子(びし)は殷を去り、箕子(きし)は奴隷に身をやつし、比干は紂王を諌めて死罪となった。孔子は言った。「殷には三人の仁者がいた。」と。〉洩冶(せつや)が霊公を諌めて殺戮を受けると、孔子は「民の辟(よこしま)多ければ、自ら辟を立つること無かれ。」(民には邪なことが多いのであるから、上に立つ者が自ら邪なことをしてはならない。)37『詩経』(「大雅 板」)に〈携(たずさ)へて曰(ここ)に益(おさ)うることなかれ、民を牅(みちび)くこと孔(はたは)だ易し。民の辟(よこしま)多ければ、自ら辟を立つること無かれ。〉とある。『新釈漢文大系 詩経 下』(石川忠久著、明治書院 2007)より引用。孔子に洩冶についての言及は『春秋穀梁伝』宣公九年に見える。〈陳の霊公と家臣の孔寧・儀行父は、夏姫と淫通していた。彼らは夏姫の肌着を着て朝廷の中でふざけ合っていた。これを見た大夫の洩冶は、これを諫めて言った。「上に立つ公卿が淫事に耽っていれば、民によい効果をもたらさず、他国への聞こえもよくありません。この言葉をよくお聞き入れください。」と。霊公は「私も改めることにしよう。」と言った。孔寧・儀行父にそのことを告げると、二人は洩冶を殺すことを請うた。公はこれを止めず、ついに洩冶を殺した。孔子が言うのに、「詩に、『民には邪なことが多いのであるから、上に立つ者が自ら邪なことをしてはならない。』とあるが、それは洩冶のような者を言うのだろう」と。〉と言いました。俸禄の多い官人であれば、その責も重く極諫38極めて手厳しく諌めること。すべきでありましょうが、官が卑しければ声の届く望みも薄いでしょうから、悠長な態度をとっても許すべきでしょう。」と。

太宗はまた杜淹を召し出し、笑って言った。「卿が隋の朝廷にあったときは、地位も低く意見を言うこともできなかったであろうが、王世充に仕えていたときは、どうして極諫を行わなかったのかな?」と。杜淹は答えて言った。「諫めたこともありましたが、聞き入れられなかったのです。」と。太宗は言った。「世充がもし徳を修め善に従っていれば、滅亡することはなかっただろう。しかし道を外れ諫言を拒んだというのに、卿はどうして禍を免れているのだ?」と。杜淹は返答に窮し、沈黙した。太宗はまた言った。「卿は今日にあって、任を全うし、諫言を尽くすつもりでいるかな?」と。杜淹は言った。「臣は今日にあり、死んでも〔君主の罪を〕隠すようなことはいたしません。かつて百里奚39春秋時代の秦の宰相。は虞にあり、虞が滅びれば秦にあり、〔その徳政によって〕秦は周辺諸国に覇を唱えました。臣はひそかにこれと比べております」と。太宗はこれを聞いて笑った。

ときに杜淹は二職を兼任していたが、清正の評判はなく、また長孫無忌と不仲であり、時の人は彼を非難した。杜淹が病となると、太宗は自ら彼の家を尋ねて慰問し、帛三百匹を賜った。貞観二年(628年)に卒し、尚書右僕射を贈られた。諡を襄40『逸周書』謚法解に〈辟地の徳あるを襄という。甲冑の労あるを襄という〉とある。といった。子の杜敬同が襲爵し、官は鴻臚少卿にまで至った。敬同の子の従則は中宗のときに蒲州刺史となった。


史評
史臣曰:房、杜二公,皆以命世之才,遭逢明主,謀猷允協,以致昇平。議者以比漢之蕭、曹,信矣。然萊成之見用,文昭之所舉也。世傳太宗嘗與文昭圖事,則曰「非如晦莫能籌之」。及如晦至焉,竟從玄齡之策也。蓋房知杜之能斷大事,杜知房之善建嘉謀,裨諶草創,東里潤色,相須而成,俾無悔事,賢達用心,良有以也。若以往哲方之,房則管仲、子產,杜則鮑叔、罕虎矣。



贊曰:肇啟聖君,必生賢輔。猗歟二公,實開運祚。文含經緯,謀深夾輔。笙磬同音,唯房與杜。


  • 1
    現在の陝西省西安市雁塔区にあたる。
  • 2
    杜杲、字は子暉。杜皎の子で、杜徽の弟にあたる。北魏、西魏、北周、隋に仕えた。
  • 3
    隋の煬帝の治世(605年〜618年)に用いられた年号。
  • 4
    吏部は尚書省(行政執行機関)に属する六部のうち、官僚の選授や考課など人事を担当する部署。長官である尚書が一名、次官である侍郎が二名配置された。
  • 5
    高構(540-611)。孝基は字である。本貫は北海郡。ユーモラスな性格だが聡明多弁で読書を好んだ。はじめ北斉に仕え、北斉が滅亡すると北周に仕え、隋が建国されると冀州司馬として有能で知られた。煬帝が即位すると吏部侍郎となったが、能力は吏部の者でも最も優れており、皆が彼の指示を仰いだ。劇談を好み軽薄な性質であったが内心は優雅であり、特に吏部尚書の牛弘から重んじられた。房玄齢や杜如晦の才能を見抜き、後に彼ら唐の大臣となると、高構は人を知る鑑を持っていたと称された。
  • 6
    その場において適切な判断ができること。
  • 7
    一国を支える重職。
  • 8
    現在の河北省邯鄲市磁県にあたる。
  • 9
    正しく手をこまねく姿勢。転じて帝王が荘厳に臨朝し、清廉な政を為し、無為にして国家が治まること。
  • 10
    太宗は武徳四年に四方から学士を募り、杜如晦ら十八人を文学館の学士に抜擢した。
  • 11
    太宗が王世充・竇建徳を平定すると、李淵は太宗の功績が非常に高いことから古来の官号ではそれを称するのに不足だと考え、新たに「天策上将」という官号を設置した。天策上将の開府した府を天策府、または天策上将府という。
  • 12
    『詩経』臣工之什 載見に〈鞗革(どうかく)は鶬(しょう)有り、休(よ)きかな烈光有る。〉とある。「くつわの飾りも金模様、美しくあざやかに光り輝いている」の意味。『新釈漢文大系 詩経 下』(石川忠久著、明治書院 2007)より引用
  • 13
    『孝経』開宗明義章第一に〈身を立て道を行い、名を後世に揚(あ)げ、以て父母を顕わすは、孝の終りなり。〉とある。
  • 14
    検校は監査の意味。「検校侍中」のように官職の上につく場合は「代理」を表し、その官職を正式に拝授されたわけではないが、職権を行使できる立場であることを示す。侍中は門下省(詔勅の審議機関)の長官で、中書省(詔勅の起草、政策の立案を担当する機関)の長官である中書令、尚書省の長官である左右僕射とともに政務に預かる宰相職にあたる。
  • 15
    皇太子の住居する場所、転じて皇太子そのものも指す。
  • 16
    尚書省の長官。本来は尚書令が長官にあたるが、李世民が即位以前に尚書令に就いていたため、李世民即位後は尚書令を実質の空缼とし、左右僕射を尚書省の長官として宰相職とした。
  • 17
    墓道に建立する、死者の生涯の事績を記載する石碑。
  • 18
    皇帝の護衛を行う官職。
  • 19
    尚舍局の長官。宮廷の設置物や、湯沐、燈燭、灑掃のことを司る。
  • 20
    『逸周書』謚法解に〈民を安んじ、政を立つるを成という。〉とある。
  • 21
    原文は〈淹素與如晦兄弟不睦、譖如晦兄於王行滿、王世充殺之〉。ここに登場する王行満が書家として著名な王行満を指すのかは不明。また王世充の字も「行満」である。(『隋書』王充伝)
  • 22
    情けをかけて、特別に刑を軽減したり免除したりすること。
  • 23
    中国河南省登封市にある山岳群。古名を外方、嵩高、崇高ともいう。古来より儒道仏が共存する聖地の一つであった。
  • 24
    『中庸』第五章に〈君子の道、辟(たと)えば遠きに行くに、必ず邇(ちか)き自(よ)りするが如く、辟(たと)えば高きに登るに、必ず卑(ひく)き自(よ)りするが如し。〉とある。
  • 25
    莫逆は逆らわないの意。互いに心に逆らうことのない親密な関係。
  • 26
    立派な隠遁生活を送ること。
  • 27
    隠者のこと。
  • 28
    罪を犯した官吏を左遷し、国境などの辺地を守らせること。またその兵士。
  • 29
    才能に人材を選抜して官職を授けること。
  • 30
    原文には〈引爲天策府兵曹參軍、文學館學士。〉とあるが、杜淹は秦王府十八学士に含まれておらず、誤りであると思われる。しかし『旧唐書』袁天綱伝にも杜淹が武徳中に文学館学士に任じられたとする記述が見られる。(〈淹尋遷侍御史、武德中為天策府兵曹、文學館學士。〉)
  • 31
    楊文幹の乱。
  • 32
    現在の四川省西南部〜雲南省東北部へまたがって置かれた郡。
  • 33
    『資治通鑑』巻192には「宰相以外の官僚が朝政に参与するのはこれから始まった。」とある。唐代において、宰相職にない官僚が皇帝により「参知政事」「参議得失」の称号を与えられ宰相による国政会議に参与するのは、太宗の命により吏部尚書杜淹、秘書監魏徴が朝政に参与したことがはじまりである。
  • 34
    『孝経』諫爭章第十五に見える曾子と孔子のやりとりから。〈曾子が「父の命に従うことが孝だと言えるでしょうか」と孔子に尋ねた。孔子は言った。「何ということを言う、何ということを言う。古来は天子には争臣(過失を諫める大臣)が七人いたので、君主が無道になろうとも天下を失うことはなかった。諸侯には争臣が五人いたので、無道になろうともその国を失うことはなかった。大夫に争臣が三人いれば、無道になろうともその家を失うことはなかった。士に争友がいれば、その身が良い評判から離れることはなかった。父に争子がいれば、その身が不義に陥ることはなかった。ゆえに父親に不義があれば、子はその父を諫めて争わねばならず、臣下は君を諫めて争わなければならない。不義にあっては必ず争うものなのだ。父の命に従うことが、どうして孝だと言えようか。」と。〉
  • 35
    中国殷代の王族。紂王の叔父にあたる。
  • 36
    孔子が比干を仁者と讃えるのは『論語』微子第十八に見える。〈微子(びし)は殷を去り、箕子(きし)は奴隷に身をやつし、比干は紂王を諌めて死罪となった。孔子は言った。「殷には三人の仁者がいた。」と。〉
  • 37
    『詩経』(「大雅 板」)に〈携(たずさ)へて曰(ここ)に益(おさ)うることなかれ、民を牅(みちび)くこと孔(はたは)だ易し。民の辟(よこしま)多ければ、自ら辟を立つること無かれ。〉とある。『新釈漢文大系 詩経 下』(石川忠久著、明治書院 2007)より引用。孔子に洩冶についての言及は『春秋穀梁伝』宣公九年に見える。〈陳の霊公と家臣の孔寧・儀行父は、夏姫と淫通していた。彼らは夏姫の肌着を着て朝廷の中でふざけ合っていた。これを見た大夫の洩冶は、これを諫めて言った。「上に立つ公卿が淫事に耽っていれば、民によい効果をもたらさず、他国への聞こえもよくありません。この言葉をよくお聞き入れください。」と。霊公は「私も改めることにしよう。」と言った。孔寧・儀行父にそのことを告げると、二人は洩冶を殺すことを請うた。公はこれを止めず、ついに洩冶を殺した。孔子が言うのに、「詩に、『民には邪なことが多いのであるから、上に立つ者が自ら邪なことをしてはならない。』とあるが、それは洩冶のような者を言うのだろう」と。〉
  • 38
    極めて手厳しく諌めること。
  • 39
    春秋時代の秦の宰相。
  • 40
    『逸周書』謚法解に〈辟地の徳あるを襄という。甲冑の労あるを襄という〉とある。