『十八史略』唐宣宗皇帝 李忱

『十八史略』における唐宣宗李忱の代の記述の和訳です。
十八史略は十八の正史の内容を要約した子供向けの史書。宋の曾先之撰。
一部『資治通鑑』や新旧唐書から補完しています。
参考:『十八史略』、『旧唐書』、『新唐書』、『資治通鑑』


會昌六年、上崩。在位七年。改元者一、曰會昌。光王立。是爲宣宗皇帝。

会昌1会昌…唐の武宗の治世(841‐846)で使われた年号。六年(西暦846年)、武宗が崩じた。在位七年、改元は一度で、会昌と言う。光王が後を嗣いだ。これが宣宗皇帝である。


宣宗皇帝名怡、憲宗皇帝子也。幼號不慧。太和後益自韜匿。文宗好誘其言以爲笑。武宗豪邁、尤不禮之。名爲光叔。武宗疾篤。子幼。宦官定策禁中。詔立怡爲皇太叔。更名忱。權匂當軍國事。裁決咸當理。人始知其隠德焉。尋即位。
李德裕罷。僧孺・宗閔等北僊。德裕三貶、至崖州司戸以死。
令狐綯同平章事。先是綯爲學士。上嘗以太宗所選金鏡録、授綯使讀之。又書貞觀政要於觀屏風、毎正色拱手而讀。嘗與學士畢諴論邊事。諴具陳方略。上悦曰、不意頗牧在吾禁中。即用爲邊帥。果稱其任。

宣宗皇帝、名は怡(い)、憲宗皇帝2唐の十四代目皇帝李純。順宗李誦の長子。順宗の病を理由に譲位を受け即位した。宦官と節度使の勢力を抑制し、唐に一時的な中興をもたらしたため、その治世を「元和の中興」と称される。しかし晩年になると豪奢に耽るようになり、また太子であった李寧が早逝すると仏教や道教に耽溺するようになった。丹薬の中毒によりたびたび精神疾患を起こし、怒りに任せて宦官を死罪にした。42歳で急死し、丹薬による中毒死として処理されたが、宮廷では宦官に暗殺されたと噂された。
宣宗の母鄭氏はもともと憲宗の嫡妻郭氏の侍女であり、宣宗と郭氏の仲は不穏なものであった。また憲宗の死後に愚鈍な穆宗(李恒)が即位し郭氏が皇太后となったため、宣宗は郭氏が宦官と結託して父を殺害したのだと考え、即位すると憲宗の死に関与したとされる宦官や宗族を誅殺した。郭太后は日々鬱々とし、あるとき楼から身投げしようとしたが、周囲の人間が阻止したために未遂に終わった。これを聞いた宣宗は激怒し、郭太后はその夕に突然亡くなった。内外の人間はこの死を訝しんだ。(『資治通鑑』巻二百四十八)また裴廷裕『東観奏記』(『宣宗実録』の稿本)は、郭太后の突然の死は宣宗の意向によるものであったとする。
の子である。幼いときは不慧3聡明ではないこと。『春秋左氏伝』成公十八年杜預注には〈不慧、盖世所謂白痴。〉とあり、重度の知的障害を指す場合もある。と呼ばれた。太和4文宗皇帝の治世で使われた年号「大和」の誤り。の後は増々自らを韜匿し、文宗皇帝5唐の十七代皇帝李昂。穆宗の次男。宦官によって擁立された。朝廷を牛耳る宦官の討滅を図り王守澄を自殺に追い込むなど一定の成果を上げたが、宦官の粛清計画が事前に露見し(甘露の変)、その後は宦官の勢力を抑えることが出来なかった。は好んで言葉を誘って笑い者にした。武宗皇帝6唐の十八代皇帝李純。穆宗の五男。宦官によって擁立されたが聡明で決断力に優れており、李徳裕を宰相に起用して朝廷の立て直しを図った。ウイグル討伐や宦官勢力の抑制に成果を上げた。道士の趙帰真を信任し、また武宗も徳裕も道教に傾倒していたため、「会昌の廃仏」と呼ばれる大規模な廃仏政策で知られる。丹薬の中毒により33歳で崩御し、宦官に擁立された宣宗が即位した。は豪邁で宣宗には礼をなさず、光叔7本来は「光王」と呼ぶべきを、軽んじて光叔父と呼んだ。光は当時宣宗が光王に封ぜられていたため。と呼んでいた。武宗の病は篤く、子は幼かった。8武宗には杞王李峻、益王李峴、兗王李岐、徳王李嶧、昌王李嵯の五人の男子がおり、李峻は文宗の開成五年(840年)、残りの四子は会昌二年に王に封ぜられた(『旧唐書』武宗子伝)。いずれの子も生母の記録は伝わっていない。(『新唐書』武宗子伝)。武宗の子の経歴や薨年、子女は史書に記されておらず、明の王褘『大事記続編』は宣宗の報復によって武宗の子がみな終わりを保てなかったと指摘する。宦官は禁中で策を定め9「策を定む」は臣下が天子を擁立するの意味。文宗の治世から宦官が横行し天子の擁立・廃位を大きく動かしたため、宦官は「定策国老」と尊称され、皇帝は「門生天子」と卑称された。門生は貢挙の受験生を指す。、詔して怡を立てて、皇太叔と為した。宣宗は名前を忱(しん)と改めた。軍国の事について当たらせてみると、裁決はことごとく理にかなっており、人々は始めてその隠徳を知った。武宗が崩じると、間もなく帝位に即いた。
李徳裕10唐の穆宗、文宗、武宗、宣宗に仕えた名臣。穆宗が即位すると翰林学士となり、敬宗が即位すると観察使として地方で善政を敷いた。文宗期に名宰相であった裴度の推薦を受けたが、牛僧孺や李宗閔らと対立し節度使として地方に出向を受けた。武宗が若年で即位すると宰相として重用され、ウイグル討伐で功績をあげた。「牛李の党争」と呼ばれる官僚党争の中心人物のひとりとされ、宣宗が即位すると対立していた白敏中や令狐綯によって朋党を持つ疑いがかけられ排斥された。宣宗はもともと権臣である徳裕を忌み敏中や綯と結託し彼を左遷したが、徳裕は道教を貴び周囲と協調せず、人と馴れ合う性質ではなかったという。徳裕には敵も多かったが内治外征で功績が多く、ときの人々は彼の失脚に驚愕した。は罷免され、牛僧孺11唐穆宗〜宣宗期の官僚。李逢吉、李宗閔らと結び李徳裕と朋党争いを繰り広げた、いわゆる「牛李の党争」を引き起こしたことで知られる。・李宗閔12唐の穆宗〜宣宗期の官僚。牛僧孺らと結び、李徳裕と朋党争いを起こした。等は北に左遷された。徳裕は三度貶められ、崖州の司戸に至って亡くなった。
令狐綯13憲宗期の宰相令狐楚の子。宣宗は即位すると宰相の白敏中に、「憲宗の葬儀の際、風雨にあったため六宮の百官はみなこれを避けたが、一人背の高く髯の立派な者だけが棺のそばについて離れなかった。あれは誰であったのか?」と尋ねた。敏中は答えて「山陵使の令狐楚でしょう」と言った。宣宗は「彼に子はいるだろうか?」と尋ねた。敏中は答えて「長子の緒は風痺(手足や関節が痺れる病)を患っており、重用に耐えられません。次子の綯は今、湖州を守っております。彼は宰相の器です」と言った。宣宗はすぐに令狐綯を召し出して考功郎中、知制誥、翰林為学士とした(新旧唐書令狐綯伝)。令狐綯は自尊心が高く利己的な性質で、宣宗の重任する魏謨、畢諴らと親しまなかった。宰相として取り上げるべき功績はないとされるが、宣宗朝では最も重用を得ていた。が同平章事となった。これより前に、綯は翰林学士14唐代中期以降、主に詔書の起草に当たった役所。唐の玄宗のときに文詞に長けた廷臣を選んで翰林に入居させ、詔制を起草させたことに由来する。次第に詔制起草の重要な機関となっていった。になっていた。宣宗は太宗(李世民)の撰した『金鏡録』15李世民御饌の子孫への訓戒の書。を綯に授け、これを講話させたことがあった。また貞観政要を屏風に書して、常に色を正し恭しい態度で読んだ。
かつて翰林学士の畢諴16唐の文宗、武宗、宣宗、懿宗に使えた官僚。幼くして父を亡くし苦学の末貢挙に及第したが、任官したのちも李徳裕と相容れず不遇にあった。宣宗が即位すると戸部員外郎となり、翰林学士、中書舍人、刑部侍郎を歴任した。大中年間に党項(タングート)が反乱を起こすと節度使となり河西の辺境を守った。懿宗期に宰相にまで昇った。と辺境防備について論じた際、諴はつぶさに方略を口にした。宣宗は喜んで「頗牧(廉頗(れんぱ)と李牧(りぼく))17共に趙の名将。廉頗は藺相如との「刎頸の交わり」で知られる。李牧は匈奴との戦いで勝利し、趙の北方を守った。が我が禁中にいようとは、思いもしなかった。」と言った。即座に諴を用いて辺帥に抜擢すると、その任にかなった働きをした。


上、聡察強記。嘗密令學士韋澳、纂次州縣境土風物、及諸利害、爲一書、號曰處分語。
刺史有入謝而出者。曰、上處分本州事驚人。建州刺史入辭。上問、建州去京師幾何。曰、八千里。上曰、卿到彼爲政。朕皆知之。勿謂遠。此階前則萬里也。
令孤綯奏擬李遠杭州刺史。上曰、吾聞、遠詩云、長日惟消一局碁。安能理人。綯曰、詩人托此高興。未必實然。
嘗詔刺史毋得外徙。必令至京面察。綯嘗徙故人爲鄰州、便道之官。上問之曰、詔命既行。直廢格不用。宰相可謂有權。時方寒。綯汗透重裘。

宣宗は聡明で記憶力に秀でていた。18宣宗は記憶力に優れ、宮中の厠役から掃除役まで姓名と能力を把握し、呼召使令する際も人を間違えたことがなかった。また獄を奏するに、吏卒の姓名を一覧し、すべて記憶してしまった。(『資治通鑑』巻二百四十九)密かに翰林学士の韋澳19父の憲宗期に宰相を務めた韋貫之の子。宣宗期に翰林学士に抜擢され、にわかに兵部侍郎となった。宣宗から寵任を受け国家の大事を相談されたが、本人は重用を好まなかった。しかし宣宗の信任は厚く、あるとき韋澳に「卿は私を遠ざけるが、私は卿から離れたりはしない」と語るほどであった。韋澳は宣宗に「丹薬は毒であるから服用してはならない」と諫言し、宣宗はこの言葉を忠だと喜んだが、丹薬の服用はやめずそれが原因で崩御している。に州県の境土風物、及び諸々の利害をまとめた一書を編纂させ、これを『処分語』と名付けた。あるとき入朝した刺史が拝謁を終えて言った。「陛下の私の担当する州への決裁には驚かされます。」と。20鄧州刺史である薛弘宗が宣宗への拝謁を終えて韋澳に「上、本州の事を處分して人を驚かす。」と語った。韋澳が詳細を訊ねたところ、みな処分語に書いてあることばかりであった。(『資治通鑑』巻二百四十九) 建州の刺史が参内して拝謁した。宣宗は「建州は京師からどのくらい離れている」と問うた。彼が「八千里」と答えると、宣宗は言った。「卿がかの地に到って行う政は、皆私の知るところである。遠く離れていると考えるな。私にとっては階前も万里の遠方も同じなのだから。」と。21「階前は則ち萬里なり」は「万里の遠方の出来事も、それが階前の出来事であるかのように知ることが出来る。天子は地方の政治も手に取るように知っており、臣下も欺くことができない」というたとえ。「階前万里」の成語でも知られる。宣宗は地方官の勤務態度に厳しく、また微服して地方政治の監察を行なっていた。大中十二年の十月、建州の刺史である于延陵が入朝した際、宣宗は「建州から京師まではどのくらい離れているか」と尋ねた。延陵は「八千里。」と答えた。宣宗は「卿がここに到り、政の善悪は、朕はみな知るところである。遠いと言うなかれ、「階前は則ち万里」である。卿はこれを知っているか?」と言った。延陵は憔悴し、情緒不安定になった。宣宗は延陵を慰撫して地方に送り出したが、のちに職務を遂行できないことを理由に彼を復州の司馬に貶めた。(『資治通鑑』巻二百四十九)『旧唐書』地理三によれば建州から京師までは四千九百三十五里ほどしか離れておらず、延陵の答えは粗雑であると言える。 令狐綯が李遠を杭州刺史に推挙した。宣宗は「李遠の詩に『長日惟消す一局の碁』とあったと聞く。そのような人間にどうして能く人を治められよう。」と言った。綯は「詩人は心の高興を詩に托すだけであり、必ずしも実際にそうするわけではありません。」と釈明した。22これに対し宣宗は「任地に向かわせ、しばらく様子を見てみよう。」と言った。(『資治通鑑』巻二百四十九)
また宣宗は「刺史は任地から直接次の任地に移ってはならない。必ず一度京師に戻って面接を受けよ。」と詔していた。しかし綯はかねてより親しかった者を隣の州の官に異動させる際、そのまま赴任地へあたらせた。宣宗はこれについて綯に詰問した。「詔命は既に行き渡っているにも関わらず、それを廃格して用いないとは。23廃格は「廃する」「拒む」の意。政策などの実施を阻害することをいう。宰相は権力があると言うべきであろう。」時はすでに寒い時分であったが、綯の汗は厚い衣に染み渡るほどであった。24宣宗は詔し、「刺史は赴任地へ移動する際、外州から外州へ渡ってはならない。必ず京師に寄り、面接して能否を考査し、然るのち任官を決定する。」と取り決めていた。令狐綯がかねてより親しかった者を隣の州の官に異動させる際、そのまま近道を行かせて赴任地へ渡らせた。宣宗は謝上表を見、綯に尋ねた。綯は「道が近いのですから、送迎を省けると考えたのです。」と答えた。宣宗は「刺史の多くは職に相応しい人間でなく、百姓の害となっている。故に朕はいちいち彼らを見、その施設を訪問し、優劣を知って黜陟(功の有無による官位を上げ下げ)を行うのである。詔命がすでに行われているにも関わらず、廃格して用いないとは。宰相畏るべし、権力があるのだな。」と言った。時は寒い時分であったが、綯の汗は重い衣に染み渡るほどだった。(『資治通鑑』巻二百四十九に)これに対し胡三省は『資治通鑑』の注で、「令狐綯の欺蔽は宰相を罷免されてもおかしくないほどの罪である。」と非難している。


上臨朝對羣臣、未嘗惰容有。毎宰相奏事傍無一人。威厳不可仰視。奏事畢惚怡然閑語一刻許。除復整容曰、卿輩善爲之。常恐卿輩負朕不得再相見、綯嘗謂人曰、吾十年秉政。最承恩遇。毎延英奏事、未嘗不汗沾衣也。
嘗召學士韋澳、屏左右問之曰、近日内侍權勢如何。對曰、陛下威斷、非前朝比。上閉目揺首曰、全未、全未。尚畏之在。又嘗與綯謀盡誅宦官、恐濫及無辜。綯密奏曰、但有罪勿捨。有缺勿補。自然消耗至盡。宦者竊見其奏、由是益與朝士、相惡。南北司如水火。
大中十三年、上崩。在位十四年。改元者一。長子立。是爲懿宗皇帝。

宣宗は朝廷に臨んで群臣に対するとき、一度もだらしのない様子を見せなかった。宰相が奏事を行う度に、傍らに誰もおらずとも、仰ぎ見ることすらできないような威厳があった。奏事が終わればたちまちに楽しそうに雑談し、しばらくするとおもむろに表情を正して言った。「卿らは私のために善く事を為せ。常に恐れるのは、卿らが私に背き、二度と会えなくなることだけだ。」と。25宣宗は朝政に臨む際はだらしのない様子を一度も見せなかったが、上奏が終わるとたちまち楽しそうに「無駄話でもしようか」と言い、民間の細事について尋ね、あるいは宮中の遊宴について談じ、あらゆる話をした。しかし一刻ばかりするとまた佇まいを正し、「卿らは私のために善く事を為せ。常に恐れるのは、卿らが私に背き、二度と会えなくなることだけだ。」と言い、宮中へ帰っていった。(『資治通鑑』巻二百四十九)令狐綯はあるとき人に対しこう言っていた。「私は十年執政に携わり、最も恩遇を承っている。しかし延英殿26大明宮の紫宸殿の西側にある殿宇。唐代後半期になると、紫宸殿から延英殿へ聴政の場が移動した。で奏事を行う度、未だかつて汗で衣を濡らさなかったことはない。」と。
宣宗は翰林学士の韋澳を召し、左右の人間を退出させて「近頃の内侍の権勢はどうか。」と問うた。澳は「陛下の威断は前朝のものとは比べ物になりません。」と答えた。宣宗は目を閉じ首を横に振って言った。「いやいや、まだまだだ。まだ用心しなければなるまい。」と。また綯と謀ってことごとく宦官を誅せんとしたが、害が無辜の人間に及ぶのを恐れた。綯は密奏して言った。「罪のある宦官は見逃してはなりません。人員が欠けても補充してはなりません。自然に消耗して、尽きるのを待つのみです。」と。しかし宦者が秘かにその追奏を目にしたため、これによって益々廷臣と宦者の仲は険悪となり、南司(三省の役所)と北司(内侍省の役所)は火と水の如く相容れない関係となった。27三省と内侍省(宦官)の対立の激しさを火水に喩える。『資治通鑑』巻二百四十九は宣宗による宦官誅殺計画の漏洩によって対立が深まったとするが、『旧唐書』文苑下 劉蕡伝は元和の末から宦官の権勢が盛んとなり、宮中の兵を掌握し天子の廃立や庶政にも影響を及ぼしたのを契機として対立が激化したと記す。 大中十三年(859)、宣宗が崩じた。在位十四年。改元すること一回。長子が立つ。これが懿宗皇帝である。
(了)


  • 1
    会昌…唐の武宗の治世(841‐846)で使われた年号。
  • 2
    唐の十四代目皇帝李純。順宗李誦の長子。順宗の病を理由に譲位を受け即位した。宦官と節度使の勢力を抑制し、唐に一時的な中興をもたらしたため、その治世を「元和の中興」と称される。しかし晩年になると豪奢に耽るようになり、また太子であった李寧が早逝すると仏教や道教に耽溺するようになった。丹薬の中毒によりたびたび精神疾患を起こし、怒りに任せて宦官を死罪にした。42歳で急死し、丹薬による中毒死として処理されたが、宮廷では宦官に暗殺されたと噂された。
    宣宗の母鄭氏はもともと憲宗の嫡妻郭氏の侍女であり、宣宗と郭氏の仲は不穏なものであった。また憲宗の死後に愚鈍な穆宗(李恒)が即位し郭氏が皇太后となったため、宣宗は郭氏が宦官と結託して父を殺害したのだと考え、即位すると憲宗の死に関与したとされる宦官や宗族を誅殺した。郭太后は日々鬱々とし、あるとき楼から身投げしようとしたが、周囲の人間が阻止したために未遂に終わった。これを聞いた宣宗は激怒し、郭太后はその夕に突然亡くなった。内外の人間はこの死を訝しんだ。(『資治通鑑』巻二百四十八)また裴廷裕『東観奏記』(『宣宗実録』の稿本)は、郭太后の突然の死は宣宗の意向によるものであったとする。
  • 3
    聡明ではないこと。『春秋左氏伝』成公十八年杜預注には〈不慧、盖世所謂白痴。〉とあり、重度の知的障害を指す場合もある。
  • 4
    文宗皇帝の治世で使われた年号「大和」の誤り。
  • 5
    唐の十七代皇帝李昂。穆宗の次男。宦官によって擁立された。朝廷を牛耳る宦官の討滅を図り王守澄を自殺に追い込むなど一定の成果を上げたが、宦官の粛清計画が事前に露見し(甘露の変)、その後は宦官の勢力を抑えることが出来なかった。
  • 6
    唐の十八代皇帝李純。穆宗の五男。宦官によって擁立されたが聡明で決断力に優れており、李徳裕を宰相に起用して朝廷の立て直しを図った。ウイグル討伐や宦官勢力の抑制に成果を上げた。道士の趙帰真を信任し、また武宗も徳裕も道教に傾倒していたため、「会昌の廃仏」と呼ばれる大規模な廃仏政策で知られる。丹薬の中毒により33歳で崩御し、宦官に擁立された宣宗が即位した。
  • 7
    本来は「光王」と呼ぶべきを、軽んじて光叔父と呼んだ。光は当時宣宗が光王に封ぜられていたため。
  • 8
    武宗には杞王李峻、益王李峴、兗王李岐、徳王李嶧、昌王李嵯の五人の男子がおり、李峻は文宗の開成五年(840年)、残りの四子は会昌二年に王に封ぜられた(『旧唐書』武宗子伝)。いずれの子も生母の記録は伝わっていない。(『新唐書』武宗子伝)。武宗の子の経歴や薨年、子女は史書に記されておらず、明の王褘『大事記続編』は宣宗の報復によって武宗の子がみな終わりを保てなかったと指摘する。
  • 9
    「策を定む」は臣下が天子を擁立するの意味。文宗の治世から宦官が横行し天子の擁立・廃位を大きく動かしたため、宦官は「定策国老」と尊称され、皇帝は「門生天子」と卑称された。門生は貢挙の受験生を指す。
  • 10
    唐の穆宗、文宗、武宗、宣宗に仕えた名臣。穆宗が即位すると翰林学士となり、敬宗が即位すると観察使として地方で善政を敷いた。文宗期に名宰相であった裴度の推薦を受けたが、牛僧孺や李宗閔らと対立し節度使として地方に出向を受けた。武宗が若年で即位すると宰相として重用され、ウイグル討伐で功績をあげた。「牛李の党争」と呼ばれる官僚党争の中心人物のひとりとされ、宣宗が即位すると対立していた白敏中や令狐綯によって朋党を持つ疑いがかけられ排斥された。宣宗はもともと権臣である徳裕を忌み敏中や綯と結託し彼を左遷したが、徳裕は道教を貴び周囲と協調せず、人と馴れ合う性質ではなかったという。徳裕には敵も多かったが内治外征で功績が多く、ときの人々は彼の失脚に驚愕した。
  • 11
    唐穆宗〜宣宗期の官僚。李逢吉、李宗閔らと結び李徳裕と朋党争いを繰り広げた、いわゆる「牛李の党争」を引き起こしたことで知られる。
  • 12
    唐の穆宗〜宣宗期の官僚。牛僧孺らと結び、李徳裕と朋党争いを起こした。
  • 13
    憲宗期の宰相令狐楚の子。宣宗は即位すると宰相の白敏中に、「憲宗の葬儀の際、風雨にあったため六宮の百官はみなこれを避けたが、一人背の高く髯の立派な者だけが棺のそばについて離れなかった。あれは誰であったのか?」と尋ねた。敏中は答えて「山陵使の令狐楚でしょう」と言った。宣宗は「彼に子はいるだろうか?」と尋ねた。敏中は答えて「長子の緒は風痺(手足や関節が痺れる病)を患っており、重用に耐えられません。次子の綯は今、湖州を守っております。彼は宰相の器です」と言った。宣宗はすぐに令狐綯を召し出して考功郎中、知制誥、翰林為学士とした(新旧唐書令狐綯伝)。令狐綯は自尊心が高く利己的な性質で、宣宗の重任する魏謨、畢諴らと親しまなかった。宰相として取り上げるべき功績はないとされるが、宣宗朝では最も重用を得ていた。
  • 14
    唐代中期以降、主に詔書の起草に当たった役所。唐の玄宗のときに文詞に長けた廷臣を選んで翰林に入居させ、詔制を起草させたことに由来する。次第に詔制起草の重要な機関となっていった。
  • 15
    李世民御饌の子孫への訓戒の書。
  • 16
    唐の文宗、武宗、宣宗、懿宗に使えた官僚。幼くして父を亡くし苦学の末貢挙に及第したが、任官したのちも李徳裕と相容れず不遇にあった。宣宗が即位すると戸部員外郎となり、翰林学士、中書舍人、刑部侍郎を歴任した。大中年間に党項(タングート)が反乱を起こすと節度使となり河西の辺境を守った。懿宗期に宰相にまで昇った。
  • 17
    共に趙の名将。廉頗は藺相如との「刎頸の交わり」で知られる。李牧は匈奴との戦いで勝利し、趙の北方を守った。
  • 18
    宣宗は記憶力に優れ、宮中の厠役から掃除役まで姓名と能力を把握し、呼召使令する際も人を間違えたことがなかった。また獄を奏するに、吏卒の姓名を一覧し、すべて記憶してしまった。(『資治通鑑』巻二百四十九)
  • 19
    父の憲宗期に宰相を務めた韋貫之の子。宣宗期に翰林学士に抜擢され、にわかに兵部侍郎となった。宣宗から寵任を受け国家の大事を相談されたが、本人は重用を好まなかった。しかし宣宗の信任は厚く、あるとき韋澳に「卿は私を遠ざけるが、私は卿から離れたりはしない」と語るほどであった。韋澳は宣宗に「丹薬は毒であるから服用してはならない」と諫言し、宣宗はこの言葉を忠だと喜んだが、丹薬の服用はやめずそれが原因で崩御している。
  • 20
    鄧州刺史である薛弘宗が宣宗への拝謁を終えて韋澳に「上、本州の事を處分して人を驚かす。」と語った。韋澳が詳細を訊ねたところ、みな処分語に書いてあることばかりであった。(『資治通鑑』巻二百四十九)
  • 21
    「階前は則ち萬里なり」は「万里の遠方の出来事も、それが階前の出来事であるかのように知ることが出来る。天子は地方の政治も手に取るように知っており、臣下も欺くことができない」というたとえ。「階前万里」の成語でも知られる。宣宗は地方官の勤務態度に厳しく、また微服して地方政治の監察を行なっていた。大中十二年の十月、建州の刺史である于延陵が入朝した際、宣宗は「建州から京師まではどのくらい離れているか」と尋ねた。延陵は「八千里。」と答えた。宣宗は「卿がここに到り、政の善悪は、朕はみな知るところである。遠いと言うなかれ、「階前は則ち万里」である。卿はこれを知っているか?」と言った。延陵は憔悴し、情緒不安定になった。宣宗は延陵を慰撫して地方に送り出したが、のちに職務を遂行できないことを理由に彼を復州の司馬に貶めた。(『資治通鑑』巻二百四十九)『旧唐書』地理三によれば建州から京師までは四千九百三十五里ほどしか離れておらず、延陵の答えは粗雑であると言える。
  • 22
    これに対し宣宗は「任地に向かわせ、しばらく様子を見てみよう。」と言った。(『資治通鑑』巻二百四十九)
  • 23
    廃格は「廃する」「拒む」の意。政策などの実施を阻害することをいう。
  • 24
    宣宗は詔し、「刺史は赴任地へ移動する際、外州から外州へ渡ってはならない。必ず京師に寄り、面接して能否を考査し、然るのち任官を決定する。」と取り決めていた。令狐綯がかねてより親しかった者を隣の州の官に異動させる際、そのまま近道を行かせて赴任地へ渡らせた。宣宗は謝上表を見、綯に尋ねた。綯は「道が近いのですから、送迎を省けると考えたのです。」と答えた。宣宗は「刺史の多くは職に相応しい人間でなく、百姓の害となっている。故に朕はいちいち彼らを見、その施設を訪問し、優劣を知って黜陟(功の有無による官位を上げ下げ)を行うのである。詔命がすでに行われているにも関わらず、廃格して用いないとは。宰相畏るべし、権力があるのだな。」と言った。時は寒い時分であったが、綯の汗は重い衣に染み渡るほどだった。(『資治通鑑』巻二百四十九に)これに対し胡三省は『資治通鑑』の注で、「令狐綯の欺蔽は宰相を罷免されてもおかしくないほどの罪である。」と非難している。
  • 25
    宣宗は朝政に臨む際はだらしのない様子を一度も見せなかったが、上奏が終わるとたちまち楽しそうに「無駄話でもしようか」と言い、民間の細事について尋ね、あるいは宮中の遊宴について談じ、あらゆる話をした。しかし一刻ばかりするとまた佇まいを正し、「卿らは私のために善く事を為せ。常に恐れるのは、卿らが私に背き、二度と会えなくなることだけだ。」と言い、宮中へ帰っていった。(『資治通鑑』巻二百四十九)
  • 26
    大明宮の紫宸殿の西側にある殿宇。唐代後半期になると、紫宸殿から延英殿へ聴政の場が移動した。
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    三省と内侍省(宦官)の対立の激しさを火水に喩える。『資治通鑑』巻二百四十九は宣宗による宦官誅殺計画の漏洩によって対立が深まったとするが、『旧唐書』文苑下 劉蕡伝は元和の末から宦官の権勢が盛んとなり、宮中の兵を掌握し天子の廃立や庶政にも影響を及ぼしたのを契機として対立が激化したと記す。