『十八史略』唐神堯皇帝 李淵

『十八史略』における唐高祖李淵代の記述の翻訳です。
十八史略は十八の正史の内容を要約した子供向けの史書。宋の曾先之撰。


唐公李淵、起兵太原、克諸郡、入長安。時隋大業十二年。帝在江都。淵遥尊爲太上皇、而立代王。是爲恭皇帝。

唐公李淵が太原に兵を起した。諸郡を落とし、ついに長安に入る。時に隋の大業十二年(西暦616年)。帝(楊廣)は遠く離れた江都にいたので、李淵はこれを太上皇とし、代王を立てた。これを恭皇帝という。


恭皇帝名侑。煬帝之孫也。年十三爲李淵所立。改大業十三年爲義寧。淵爲大丞相、封唐王。煬帝在江都、淫虐日甚、酒巵不離。見中原已、無心北歸。從駕多關中人、思歸遂謀叛、以許公宇文化及爲主、夜引兵入宮、縊殺煬帝。宗室無少長皆死。惟存秦王浩立之、而自爲大丞相、擁衆而西。
梁蕭銑稱帝於江陵。
隋帝侑、即位半年禪于唐。隋自高祖至是三世、凡三十七年而亡。

恭皇帝、名は侑、煬帝(楊廣)の孫である。十三歳にして李淵に立てられた。大業十三年(617)に改元し、元号を義寧と改めた。李淵は大丞相となり、唐国王に封ぜられた。煬帝は江都にあって、淫虐は日に甚だしくなり、酒杯を口から離すことがなかった。中原が戦乱となったのを知り、北へ帰る気を無くした。駕に従う者は関中の人間が多く、帰心を募らせ遂に謀叛を画策した。許公の宇文化及を人主として、夜兵を引いて宮に入り、煬帝を縊殺する。一族は老若関係なく皆殺された。秦王の浩のみを生き残してこれを立て、自ら大丞相となり、衆を擁して西の関中へ向かった。
梁の蕭銑は江陵で帝と称した。
隋帝の侑は位に即いて半年にして唐に禅譲した。隋は高祖よりここに至るまで三世、三十七年で滅亡した。


唐高祖神堯皇帝姓李氏、名淵。隴西成紀人也。西涼武昭王暠之後。祖虎仕西魏有功。封隴西公。父昞於周世封唐公。淵襲爵。
隋煬帝以淵爲弘化留守。御衆寛簡。人多附之。煬帝以淵相表奇異、名應圖讖忌之。淵懼、縱酒納賂以自晦。
天下盗起。以淵爲山西・河東撫慰大使。承制黜捗、討捕羣盗多捷。突厥寇邊。詔淵撃之。
淵次子世民、聰明勇決、識量過人。見隋室方亂、陰有安天下之志。與晉陽宮監裴寂・晉陽令劉文靜相結。

神堯皇帝、姓は李氏、名は淵。隴西成紀の人である。西涼の武昭王暠の末裔であった。祖父の李虎は西魏に仕えて功績があり、隴西公に封ぜられた。父の李昞は周の世において唐公に封ぜられ、李淵はその爵位を嗣いだ。
隋の煬帝は李淵を弘化の留守とした。李淵は部下を統率することに寛容で、多くの人間が付き従った。煬帝は李淵の風貌が奇異であることと、名前が図讖に符合することを忌んだ。李淵は懼れ、酒をほしいままにし、賄賂を受け取って自らを韜晦した。
天下で群盗が蜂起すると、煬帝は李淵を山西・河東の撫慰大使とした。制を承けて黜捗し、多くの群盗を討ち捕った。突厥が辺境に来寇するようになると、煬帝は李淵に詔してこれを討たせた。
李淵の次子の世民は、聡明で勇決、見識と度量は人より遥かに優れていた。隋室が乱れるのを見て、秘かに天下を泰平せんとする志を持った。晋陽の宮監の裴寂、晋陽の令劉文静と結託した。


文靜謂世民曰、今主上南巡、羣盗萬數。當此之際、有眞主驅駕而用之、取天下如反掌耳。太原百姓収拾、可得十萬人。尊公所將兵復數萬、以此乘虡入關、號令天下、不過半年、帝業成矣。
世民笑曰、君言正合我意。乃陰部署。而淵不知也。
會淵兵拒突厥不利、恐獲罪。世民乘閒説淵、順民心興義兵、轉禍爲福。淵大驚曰、「汝安得爲此言。吾今執汝告縣官。」世民徐曰「世民覩天時人事如此。故敢發言。必執告。不敢辭死。」

劉文静が李世民に説いて言った。「今帝は南に行幸し、蜂起した群盗は万にも昇る。この機会に真の人主がこれを使いこなせば、天下を取るのは掌を返すようなもの。太原の民を収拾すれば十万人を得ることができ、また尊公(李淵)の兵は数万がいる。これを合わせて虚に乗じて関中に入り天下に号令すれば、半年足らずで王業を成せるだろう。」
世民は笑って「君の言葉は私の考えとまったく同じだ。」と言った。二人は秘かに工作を始めたが、李淵にはそれを知らせなかった。
あるとき李淵の兵が突厥と戦って敗れ、李淵は罪を得るのを恐れた。世民は間に乗じて李淵に説いた。「民心に従って義兵を興せば、禍を転じて福となせます」。李淵は大いに驚いて言った。「お前はどうしてそのようなことを言うのか。捕らえて県官に引き渡すぞ。」
世民は静かに言った。「わたくしは天の時、人のことを見て敢えてこう申しているのです。父上が私を執えて役人に告発しようが、死罪を言い渡されようが構いません。」


淵曰「吾豈忍告。汝愼勿出口。」
明日復説曰「人皆傳、李氏當應圖讖。故李金才無故族滅。大人能盡賊、則功高不賞、身益危矣。惟昨日之言、可以救禍。此萬全策。願勿疑。」
淵歎曰「吾一夕思汝言、亦大有理。今日破家亡身、亦由汝。化家爲國、亦由汝矣。」
先是裴寂私以晉陽宮人侍淵。淵從寂飮。酒酣寂曰、二郎陰養士馬、欲擧大事、正爲寂以宮人侍公、恐事覺併誅耳。

李淵は言った。「どうして密告するのを忍ばずにいれよう。お前も慎んでこのことは口にするな。」
翌日李世民はまた説いて言った。「人は皆、李氏が図讖(予言書)通りに天下を取ると言っています。それ故に李金才も族滅させられたのです。父上が賊を討伐しても、功高くして賞せられず(=粛清の危険があり)むしろますます御身が危険になるばかりです。ただ一つ昨日申し上げたことのみが、この禍から身を救うのです。これは万全の策です、決して疑わないでください。」
李淵は嘆じて「私も一晩、お前の言ったことを考えたが、大いに理がある。今日この家が破滅し身を亡ぼせばお前の責任だ。しかし家を化かして国と為せば、それはお前の功績だ。」と言った。
これより前、裴寂は秘かに晋陽の宮女を李淵の側に侍らせていた。裴寂が李淵に従い酒を飲んでいたとき、宴もたけなわになった頃に李淵に言った。「次郎(世民)は秘かに将士と軍馬を養っておられ、大事を挙げんとしています。今まさに私が宮女を公に侍らせており、それが発覚すれば併せて皆誅殺されるのを恐れているためです。」


會煬帝以淵不能禦寇、遣使者執詣江都。
世民與寂等、復説曰「事已迫矣。宜早定計。且晉陽士馬精強、宮監蓄積巨萬。代王幼冲、關中豪傑竝起。公若鼔行而西、撫而有之、如探嚢中物耳。」
淵乃召募起兵。遠近赴集。仍遣使借兵於突厥。世民引兵撃西河抜之、斬郡丞高德儒、數之曰「汝指野鳥爲鸞、以欺人主。吾興義兵、正爲誅侫人耳。」進兵取霍邑、克臨汾・絳郡、下韓城降馮翊。

たまたまその時、煬帝(楊廣)は李淵が突厥の侵攻を防げなかったのを責め、使者を遣わし、捕えて江都に送らせようとした。
世民は裴寂らと再び説いて「事はすでに切迫しております。速やかに計を定めねばなりません。晋陽の兵馬は精強にして、宮監の蓄積は巨万。代王は幼少で、関中は豪傑が並び起こっています。父上がもし軍鼓を打ち鳴らして西に向かい、彼らを取り込むのは、嚢中の物を探るが如きではありませんか。」
李淵はついに兵を集めて挙兵した。四方から多くの人間が集まった。また使者を派遣して突厥から兵を借りた。世民は兵を率いて西河郡を攻め落とし、郡丞高徳儒を斬った。罪を数えて言う。「お前は野鳥を指して鸞と言い君主を欺いた。私が義兵を起したのは、お前のような侫人を誅せんが為のみだ。」世民はさらに兵を進め、霍邑県を取り、臨汾県・絳郡を陥れ、韓城県を下し、馮翊郡を降した。


淵留兵圍河東、自引兵西、遣世子建成守潼關。世民徇渭北。關中羣盗、悉降於淵。合諸軍圍長安、克之、立恭帝。淵爲大丞相・唐王、加九錫。尋受禪、立子建成爲皇太子、世民爲秦王、元吉爲齊王。
隋東都留守越王侗、煬帝之孫也。亦爲衆所立、稱帝於洛陽。
秦主薛擧卒。子仁杲立。
魏公李密、與隋兵戰、大敗降於唐。
宇文化及、弑其所立主浩、自稱許帝。涼王李軌稱帝。
唐秦王世民破秦。秦王薛仁杲降。送長安斬於市。
李密之將徐世勣、據密舊境降唐、賜姓李。

李淵は兵を留めて河東を囲み、自ら兵を引いて西に向かい、長子李建成を遣わして潼関(関中に至る要衝)を守らせ、世民は渭北の地を説き伏せた。関中の群盗たちは悉く李淵に帰順した。諸軍を合わせて長安を囲み、これに勝って〔長安を陥落させて実権を握り、煬帝の孫の楊侑を〕帝に立てた。李淵は大丞相となり、唐王となり、九錫を加えられ、楊侑(恭帝)から禅譲を受けて即位した。建成を皇太子とし、世民を秦王とし、三男の元吉を斉王とした。
隋の東都の留守であった越王楊侗は煬帝の孫である。多くの臣下がこれを立て、洛陽にて帝を称した。
秦主薛挙が卒し、子の仁杲が立った。
魏公李密が隋の兵と戦い、大敗して唐に帰順した。
宇文化及が自分の立てた楊浩を弑し、許帝と自称した。涼王李軌もまた帝を自称した。
秦王世民が薛挙仁杲の秦を破る。薛仁杲は唐に降り、長安に送られ市中にて処刑された。
李密の将であった徐世勣は、李密の旧領地に拠っていたが唐に降り、李姓を賜った。


竇建德取河北諸州、自稱夏王。李密叛唐。唐人獲而斬之。
夏主竇建德、破宇文化及誅之。隋主侗立一年。王世充廢之、而自立爲鄭帝、尋弑侗。唐遣將襲涼主李軌、執歸殺之。河西平。
沈法興稱梁王於毘陵。李子通稱呉帝於江都。杜伏威降唐。
唐秦王世民、撃定陽將宋金剛破之。定陽可汗劉武周及金剛、皆走死。唐秦王世民、督諸軍伐鄭。
呉主李子通襲梁。梁主沈法興走死。
夏主竇建德救鄭。唐秦王世民、大破擒之。鄭主王世充降。

竇建徳は河北の諸州を取り夏王を自称した。李密が唐に叛いたが、唐人が獲えて斬った。
夏主の竇建徳が宇文化及を破り誅した。隋の楊侗が立って一年、王世充がこれを廃し、自立して鄭の帝を自称し、侗を弑した。唐は将を遣わして涼主李軌を襲い、捕らえて連れて帰り処刑した。これによって河西が平定された。
沈法興が毗陵にて梁王を自称した。李子通が江都にて呉帝を自称した。杜伏威が唐に帰順した。
世民は定陽の将宋金剛を撃ち破った。定陽の可汗であった劉武周および金剛は皆走敗走して死んだ。世民は諸軍を統べ、世充の鄭の討伐に行った。
呉主の李子通が梁を襲い、梁主沈法興が敗走した。
建徳が鄭の救援に向かったが、世民はこれを大いに破り建徳を捕虜にした。世充はそれを受けて唐に帰順した。

(続)