人物紹介(北アジア)

隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5
隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア


鉄勒(てつろく)
6〜7世紀にかけて中央ユーラシアに分布した、広くテュルク系遊牧民を指した呼称。隋唐の史料では突厥以外のテュルク系民族を指して鉄勒と総称する。鉄勒はテュルクTürkの音写と考えられる。鉄勒は漢代の丁零、そののちには敕勒などと呼ばれた民族の後裔であり、カスピ海北方の広大な草原に分布していた。そのなかでアルタイ山脈周辺にいた阿史那氏が独立し、六世紀の中頃に突厥帝国を建国した。
隋大業元年(605)、西突厥の泥撅処羅可汗は鉄勒諸部を討ち、また薛延陀諸部に謀反の疑いをかけ魁帥数百人を生き埋めとした。
鉄勒諸部は契苾部の俟利発俟斤(部族長)であった哥楞を易勿真莫賀可汗として貪汗山に割拠し、薛延陀部もまた俟斤(部族長)であった乙失鉢を野咥可汗として燕末山の北に割拠し西突厥に反抗した。
契苾部は高昌、焉耆、伊吾を服従させたが、西突厥の射匱可汗が強盛となると契苾部・薛延陀部ともに可汗号を辞退し再び西突厥に臣従するようになる。


【鉄勒薛延陀部】(てつろく・せつえんだぶ)

強力な騎兵を有する鉄勒部族の一つ。元々は西突厥に服属していたが、東西突厥に背いて独立を果たした。東突厥平定後の鉄勒諸部の中では回鶻(ウイグル)と共に強盛を誇った。
唐から冊封を受け族長乙失夷男とその息子が可汗となり国を治めたが、夷男の死後に国が乱れ、貞観二十年(646)に滅亡した。

真珠毘伽可汗(しんじゅ・びが・カガン) / 乙失夷男(おつしつイネル)(?‐645 在位:630‐645)
乙失鉢の孫。西突厥が衰退すると七万の部族を率いて離反し東突厥についたが、その後頡利を討って東突厥にも背いた。李世民は薛延陀の強盛を把握すると使者を派遣して夷男と通じ、彼を可汗に立て同盟を図った。夷男は唐の東突厥平定に乗じてその故地や西突厥を侵略し、騎馬遊牧民国家興亡の7世紀に薛延陀国を建て大いに栄えさせた。諫言のできる良妻と、癖のある二人の息子がいる。

夷男の妻(?‐?)
夷男に諫言し、契苾何力を助命する。

突利失可汗(テリス・カガン) / 乙失曳莽(?‐645)

頡利倶利薛沙多彌可汗(イリグ・キュリュグ・シャド・イステミ・カガン) / 乙失抜灼(?‐645)


【鉄勒契苾部】(てつろく・けいひつぶ)

契苾何力(けいひつかりき)(?‐677)
鉄勒契苾部の出身。契苾哥楞の孫にあたる。族長として伊塞克湖(イシク・クル湖)周辺を統治していたが、貞観六年(632)に部衆を率いて唐に帰順した。吐谷渾・高昌・亀茲・薛延陀・高句麗征戦に従軍し功績を上げた。羈縻政策下で辺境の統治を任ぜられたが部族の人間に背かれ、捕らえられると薛延陀に身柄を送られた。真珠可汗から離反を促されたがその場で耳を切り落し唐への忠誠をダイナミックにアピール。その報せを薛延陀の使者から聞いた世民は何力の忠誠を知って涙した。唐に帰還後は薛延陀を破り、阿史那社爾とともに亀茲平定に尽力した。社爾と同じく李世民が崩御すると殉死を願い出たが、高宗に制止され叶わなかった。


【回紇部】(かいこつぶ)(ウイグル族)

匈奴を祖先とする鉄勒部族の一つ。
薛延陀部族の北の端、娑陵水(セレンガ河)のほとりを住居地とした。人口は十万程度。貞観3年(629)に東突厥が滅亡すると、北方は回鶻部と薛延陀部のみが強盛となった。

特健俟斤(とくけん・イルキン) / 姓:薬羅葛(ヤグラカル)(?‐?)

菩薩(ぼさつ) / 姓:薬羅葛(ヤグラカル)(?‐629)

吐迷度(とめいど) / 姓:薬羅葛(?‐648)
回鶻部の俟利発(族長)。貞観二十年(646年)、前代の族長であった菩薩が死去すると後を継いだ。回鶻部は薛延陀を討伐し、その勢力は南の賀蘭山を越えて黄河に臨んだ。唐に遣使入貢し、世民は回鶻が薛延陀を破った功をもって内殿で宴を賜った。翌年、鉄勒諸部から13の部族を選んで13の州府が置かれた。回鶻は瀚海都督府とされ、吐迷度は懐化大将軍を拝命し、瀚海都督となった。貞観二十二年(648年)、突厥の車鼻可汗の婿であり吐迷度の兄の子である烏紇によって殺された。

吐迷度の妻(?‐?)
吐迷度の甥と内通する。

烏紇(うこつ・ウイグル) / 姓:薬羅葛(ヤグラカル)(?‐648)
吐迷度の兄の子。吐迷度の妻と内通し、謀反して吐迷度を殺害する。

婆閏(はじゅん) / 姓:薬羅葛(ヤグラカル)(?‐661)
吐迷度の子。

比粟毒(比栗) / 姓:薬羅葛(ヤグラカル)(?‐680‐681)
婆閏の甥。婆閏の死後に回紇部を率い、同羅部・僕固部と共に唐に対して反旗を翻した。永隆中(680ー681)に亡くなると、子の独解支が後を継いだ。


【契丹】(きったん)


【奚】(けい)


【室韋】(しつい)


【靺鞨】(まつかつ)