人物紹介(東突厥第一可汗国・西突厥)

隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
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隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア


突厥(とっけつ)
6〜8世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。現在のモンゴリアと、それ以西の草原地帯を本拠とする。突厥はテュルクTürkの音写と考えられる。オルホン碑文、イェニセイ碑文などに依ってテュルク民族自身の呼称を検分すると、 Türk は突厥でも東突厥を指す名称であり、西突厥は オン・オクOn・Oq と呼ばれる。
突厥の王族の姓を阿史那(あしな)といい、祖先は匈奴の北方の一氏族であったと考えられる。はじめは金山(アルタイ山)の南にて柔然の支配を受けたが、吐門のときになってきわめて強大となり、独立して突厥帝国を築いた。王は可汗(カガン)の称号を用い、妻は可敦(カトゥン)という。匈奴の単于(ぜんう)、閼氏(あつし)に相当する。独立した所領を持ち軍隊を所有し指揮するものを設(シャド)、可汗の子弟を特勒(テギン)という。臣のうち重要なものは葉護(ヤブグ)、屈律啜(キュルチュル)、阿波(アパ)、俟利発(イルテベル)、吐屯(トドン)、俟斤(イルキン)、達干(タルカン)など、官職は全部で二十八等級ある。支配圏は三方は海に近く、南は大きな砂漠(ゴビ砂漠)に接しており、可汗は都斤山(ウテュケン山)に支配の拠点を置く。


【東突厥第一可汗国】(ひがしとっけつだいいちかがんこく)

東西突厥可汗家系図

隋代に東西に分裂。隋の外征によって一時衰退したが、隋末の動乱期に多くの漢人が流入し、始畢可汗・頡利可汗の皇権強化政策により強盛を取り戻した。李世民による有力氏族の懐柔や回鶻・薛延陀の離反により弱体化し、貞観四年(西暦630年)に唐の遠征を受けて滅亡し、羈縻政策の配下に置かれた。

啓民可汗(けいみん・カガン) / 阿史那咄吉世(?‐619 在位:609‐619)
沙鉢略可汗の子。はじめ突利可汗を自称したが、隋の離間策により隋に帰順し、楊堅から意利珍豆啓民可汗の称号を受ける。隋の宗室の娘である義成公主を娶った。大業五年(609)に病死し、子の咄吉世が始畢可汗となった。

始畢可汗(しら・カガン) / 阿史那咄吉世(?‐619 在位:609‐619)
啓民可汗の長男。啓民可汗の死後、レビラト婚により義成公主を娶った。子に突利可汗と阿史那結社率がいる。

処羅可汗(しょら・カガン) / 阿史那奚純(?‐620 在位:619‐620)
啓民可汗の次男。兄が死ぬとレビラト婚により始畢可汗の死後義成公主を娶った。子に阿史那社爾がいる。

頡利可汗(イリグ・カガン) / 阿史那咄苾(?1維基百科によれば579年生まれ。‐634 在位:620‐630)
啓民可汗の第三男。東突厥第一帝国最後の可汗。処羅可汗のが死去すると義成公主によって大可汗に立てられ、またレビラト婚により彼女を娶った。父兄の代から強盛であった兵馬を受け継ぎ、中国を征圧する野心を持ち度々唐へ侵寇した。武徳七年(624)に五隴阪まで入寇し、世民と和親を結んで一旦は兵を引いたが、武徳九年(626)に玄武門の変が起こると和親を破り渭水にまで進軍した。世民は頡利と二人だけで談話し、国庫の半分を彼に与えて兵を引かせ会盟を行った(渭水会盟/渭水之辱)。東突厥は頡利の代に最盛を迎えたが、強盛なった薛延陀や回鶻の離反、度重なる大雪によって国力の衰退を避けるられなかった。貞観四年(630)に唐の征戦に敗れ唐へ帰順した。

突利可汗(テリス・カガン) / 阿史那氏什鉢苾(602‐631 在位:602‐631)
始畢可汗の嫡男。武徳七年(624)に李世民と盟約を結び義兄弟となる。貞観三年(629)頡利可汗から離反し唐に帰順した。

阿史那結社率(あしなけっしゃすい) (?‐639)

阿史那社爾(あしなしゃる) / 都布可汗(609?2620年に頡利可汗が即位すると、その子欲谷設(ユクク・シャド/官名)と共に11歳にして鉄勒・回紇の部族を統治したという記述から、609年生まれと推測する説がある。‐655 在位:628?‐635)
処羅可汗の次男。若くして知勇で名が知られ、清廉な人柄で統治にあたり衆望を得た。頡利可汗が滅亡すると兵を率いて独立し、西突厥の領土の半分を奪い都布可汗を自称した。臣下の反対を押し切り薛延陀に挑むも大敗し、民衆統治に挫折して貞観九年(635)に部衆と共に唐へ帰順した。李世民から将軍として信任され、高昌、高句麗、亀茲の討伐に貢献し、また宿願であった薛延陀平定を果たした。世民が崩御すると殉死を望んだが、高宗に制止され叶わず、その六年後に長安で亡くなった。

阿史那思摩 / 李思摩(あしなしま / りしま) / 倶陸可汗(キュリッグ・カガン)(580‐6453《唐故右武衛將軍贈兵部尚書李君墓志》に拠る。 在位:603‐?)
他鉢可汗の孫。大可汗の地位にあったが風貌が胡人(ソグド人)のようであり、部衆から信用されず兵権を持つことができなかった。武徳七年(624)に李世民と接触し、唐の王に封じられた。貞観四年(630)突厥平定後に唐にくだり、以降は太宗に重用された。

阿史那忠(あしなちゅう) / 字:義節(6114《阿史那忠碑》、《阿史那忠墓志銘》に拠る。‐675)
阿史那蘇尼失(葉護可汗の子)の子。元の名は泥孰。武徳年間に父蘇尼失が李世民と誼みを結んだため、忠も嫡子として世民に謁見した。貞観四年(630)の突厥征戦で頡利可汗を捕らえ、父と共に唐に帰順した。

執失思力(しつしつしりき)(?‐?)
突厥の有力者執失氏の一族。執失氏は強力な騎兵を有しており、隋末に突厥が唐を援助すると、思力は父の執失武と共に李世民に従軍した。この時期から世民と接近し、父の武は武徳代に唐の王に封じられるなど執失氏は突厥と唐に両属する状態であった。思力は頡利可汗の腹心となり渭水会盟の際にも朝廷に派遣されるなど突厥の重臣として働いたが、貞観年間に秘かに世民に頡利を捕らえるための献策を行った。(《執失善光墓誌》)。突厥が平定されると隋の蕭皇后を唐へ護送し、また頡利の統治していた諸部族に降伏するよう説得にあたった。唐に帰順後は李世民の側近となった。


【西突厥】(にしとっけつ)

東西突厥可汗家系図

隋代に突厥から分裂した西方の勢力。中央アジアを支配し、オアシス国家を服属させ東西通商ルートを統治していた。東突厥と違い隋や唐とは比較的友好的な関係を保っていが、貞観代に入ると内紛や離反により可汗が並立する事態となり、また唐による従属国の征服によって衰退を深めていった。李世民の崩御後の蕃将であった阿史那賀魯が唐から離反して独立するも、顕慶二年(657年)に唐軍に平定され、西突厥も唐の羈縻政策配下となった。

泥撅処羅可汗 / 曷薩那可汗(でいけつしょら・カガン / かつさつな・カガン) / 阿史那達漫(?‐659)
泥利可汗と向氏の子。

射匱可汗(しゃき・カガン)(?‐618 在位:611‐618)
達頭可汗の孫で都六の子。『旧唐書』では曷薩那可汗の叔父とされる(おそらくは族叔の誤り)。

統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)(?‐628 在位:619‐628)
射匱可汗の弟。智謀があり武勇に優れ、西突厥を隆盛に導いた。

莫賀咄侯屈利俟毘可汗(バガテュル?・?・キュル・しひ・カガン)(?‐630 在位:628‐630)
達頭可汗の子。

肆葉護可汗(しようこ・カガン)(?‐630 在位:628‐630)
統葉護可汗の子。正式な可汗号は乙毘鉢羅肆葉護可汗

咄陸可汗(テュルク・カガン) / 阿史那泥孰(?‐634 在位:632‐634)
統葉護可汗に仕えた莫賀設の子。莫賀設は武徳代に西突厥の遣使として唐に赴き、李世民と義兄弟の契りを交わしていた。
貞観六年(632)に西突厥の大可汗となると、唐へ遣使を送って臣下の礼をとった。貞観七年(633)に唐から呑阿婁拔奚利邲咄陸可汗の称号を与えられた。

沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)(?‐? 在位:634‐639)
咄陸可汗の弟。咄陸の死に伴って沙鉢羅咥利失可汗に即位した。

乙毘咄陸可汗(イビル・テュルク・カガン)(?‐? 在位:638‐658)
はじめ欲谷設を務めた。

乙屈利失乙毘可汗(?・?・いつひ・カガン)(?‐? 在位:639‐640)
『旧唐書』では莫賀咄乙毘可汗と表記される。

乙毘沙鉢羅葉護可汗イビル・イシュバラ・ヤブグ・カガン)(?‐? 在位:640‐641)
沙鉢羅咥利失可汗の弟の伽那設の子。

乙毘射匱可汗(イビル・しゃき・カガン)(?‐? 在位:638‐658)
乙屈利失乙毘可汗の子。『旧唐書』では莫賀咄乙毘可汗と表記される。

阿史那賀魯(あしながろ) / 沙鉢羅可汗(イシュバラ・カガン)(?‐? 在位:651‐657)
室點蜜可汗の五世孫。曳歩利設射匱特勤(阿史那劫越)の子。

阿史那咥運(あしなてつうん)(?‐?)
阿史那賀魯の子。

阿史那弥射(あしなやしゃ) / (?‐?) 奚利邲咄陸可汗(在位:632‐639)興昔亡可汗(在位:657‐662)

阿史那歩真(あしなぶしん) / 継往絶可汗(?‐666〜668 在位:657‐666〜668)
射匱可汗の孫で阿史那弥射の族兄。弥射が唐により奚利邲咄陸可汗となったため、自立して可汗になることを望み、弥射の親族二十数名を殺害した。


  • 1
    維基百科によれば579年生まれ。
  • 2
    620年に頡利可汗が即位すると、その子欲谷設(ユクク・シャド/官名)と共に11歳にして鉄勒・回紇の部族を統治したという記述から、609年生まれと推測する説がある。
  • 3
    《唐故右武衛將軍贈兵部尚書李君墓志》に拠る。
  • 4
    《阿史那忠碑》、《阿史那忠墓志銘》に拠る。