昭陵六駿と十驥

昭陵六駿と十驥のメモ


【六駿】
李世民が唐の天下統一征戦で乗馬していた軍馬六頭のこと

薛仁杲征戦時の軍馬を白蹄烏(はくていう)
宋金剛征戦時の軍馬を特勒驃1特勒はテュルク語テギン:täginまたはティギン:tigin(テュルク諸族において可汗の子弟が帯びた称号の一つ)の音写と考えられる。原田淑人『東亜古文化研究』は〈突厥某特勒の献ぜし驃(白い毛の混じった黄色い馬)の義〉と説明する。(とつろくひょう)
王世充・竇建徳征戦時の軍馬を什伐赤(じゅうばつせき)
竇建徳征戦時の軍馬を青騅(せいすい)
洛陽平定時の軍馬を颯露紫(さつろし)
劉黒闥征戦時の軍馬を拳毛騧(けんもうか)
と言った

拳毛騧。黃馬黑喙、平劉黑闥時乘。前中六箭、背二箭。
贊曰、月精按轡、天駟橫行。弧矢載戢、氛埃廓清。

什伐赤。純赤色、平世充建德時乘。前中四箭、背中一箭。
贊曰、瀍澗未靜、斧鉞伸威。朱汗騁足、青旌凱歸。

白蹄烏。純黑色、四蹄俱白、平薛仁杲時所乘。
贊曰、倚天長劍、追風駿足。聳轡平隴、回鞍定蜀。

特勒驃。黃白色、喙微黑色、平宋金剛時所乘。
贊曰、應策騰空、承聲半漢。入險摧敵、乘危濟難。

颯露紫。紫燕騮、平東都時所乘。前中一箭。
贊曰、紫燕超躍、骨騰神駿。氣詟山川、威淩八陣。

青騅。蒼白雜色、平竇建德時所乘。前中五箭。
贊曰:足輕電影、神發天機。策茲飛練、定我戎衣。

(『全唐文』巻第十収録《六馬圖贊》)

昭陵六駿 – 維基百科 自由的百科全書によれば、六駿の名前には突厥の官号や美称が由来となっていると推測されている。


【十驥】

李世民が骨利幹(こつりかん)2隋唐代に中央ユーラシアに分布したテュルク系民族のひとつ。突厥碑文にある三姓クリカン:Üč Qurïqanの音写と考えられる。から献上された馬の中から選んだ良馬十頭のこと。
驥は千里を走ることのできる駿馬の意(『説文解字』)。十驥に選ばれた十頭はそれぞれ美称を賜った。

骨利幹處瀚海北、勝兵五千。草多百合。產良馬、首似橐它、筋骼壯大、日中馳數百里。其地北距海、去京師最遠、又北度海則晝長夜短、日入亨羊胛、熟、東方已明、蓋近日出處也。
既入朝、詔遣雲麾將軍康蘇蜜勞答、以其地為玄闕州。其大酋俟斤因使者獻馬、帝取其異者號十驥、皆為美名。
曰、騰霜白
曰、皎雪驄(皎雪騘)
曰、凝露驄(凝露騘)
曰、懸光驄(縣光騘)
曰、决波騟
曰、飛霞驃
曰、發電赤
曰、流金騧〔馬+瓜〕
曰、翺麟紫(翔麟紫)
曰、奔虹赤
厚禮其使。
(『新唐書』列伝第一百四十二下 回鶻下)

骨利幹は瀚海3ここではバイカル湖を指す。の北に住み、兵力は五千人である。この地方に生息する植物には百合が多く、また良馬を産出するが、その首は駱駝に似ており、筋骨は逞しく、日中に数百里を走る。その地方は北は海に至り、京師からは最も遠い。また北の方、海を渡ると昼が長く夜は短い。日が沈んでから羊の胛肉(肩の肉)を煮て熟すると、もう東方が明るくなっている。思うに太陽が出るところに近いのである。
骨利幹がすでに入朝したので、李世民は詔して雲麾将軍康蘇蜜を派遣して骨利幹を労り答礼して、その地方を玄闕州とした。その酋長の俟斤(イルキン)4俟斤(イルキン:Irkin)は部族長の称号は使者を派遣して馬を献上した。李世民はその中から珍しいものを取って十驥と号し、それぞれに美称を与えた。すなわち騰霜白、皎雪驄(皎雪騘)、凝露驄(凝露騘)、懸光驄(縣光騘)、决波騟、飛霞驃、發電赤、流金騧〔馬+瓜〕、翺麟紫(翔麟紫)、奔虹赤である。李世民はその使者を厚く礼をした。


  • 1
    特勒はテュルク語テギン:täginまたはティギン:tigin(テュルク諸族において可汗の子弟が帯びた称号の一つ)の音写と考えられる。原田淑人『東亜古文化研究』は〈突厥某特勒の献ぜし驃(白い毛の混じった黄色い馬)の義〉と説明する。
  • 2
    隋唐代に中央ユーラシアに分布したテュルク系民族のひとつ。突厥碑文にある三姓クリカン:Üč Qurïqanの音写と考えられる。
  • 3
    ここではバイカル湖を指す。
  • 4
    俟斤(イルキン:Irkin)は部族長の称号