『旧唐書』列傳第十六 房玄齢伝

『旧唐書』巻六十六 列傳第十六 房玄齢伝の和訳


房喬、字は玄齢、1房喬、字は玄齢…『旧唐書』房玄齢伝は〈房喬、字玄齡〉と玄齢を字、喬を諱とする。『新唐書』房玄齢伝は〈房玄齡、字喬〉と諱を玄齡、字を喬とする。《房玄齢碑》は『新唐書』と同様玄齢を諱、喬を字とする。齊州の臨淄の人。曾祖の翼は後魏の鎮遠将軍、宋安の郡守を務め、壮武伯を襲爵した。2『隋書』列伝第三十一 房彦謙伝に〈房彥謙、字孝沖、本清河人也、七世祖諶、仕燕太尉掾、隨慕容氏遷于齊、子孫因家焉。世為著姓。高祖法壽、魏青、冀二州刺史、壯武侯。曾祖伯祖、齊郡、平原二郡太守。祖翼、宋安太守、並世襲爵壯武侯。父熊、(字子)釋、褐州主簿、行清河、廣川二郡守。〉とあり、房家は代々壮武侯を世襲する名家であった。祖の熊、字は子繹。褐州の主簿を務めた。父の彦謙は学を好み、《五経》に精通し、隋の涇陽令を務めた。《隋書》に伝がある。3『隋書』房彦謙伝については、本来立伝されるべきでないのに玄齢の父として立伝されたことを非難されたという。(布目潮渢『隋唐史研究』p233)

玄齢は幼くして聡明であり、経史を博覧し、草書・隷書に巧みで、文筆に優れていた。あるとき父の彦謙に従って長安を訪れた。時は天下安寧であり、論者はみなこの治世は長きに渡って続くだろうと考えていた。玄齢は人を避けて彦謙に告げて言った。
「今の帝(隋文帝楊堅)には功徳がありません。ただ人民を欺き、後嗣については長計を為さず、嫡子と庶子をあわせて後継者の座を争わせています。諸后藩枝は競いあうように浪費に耽り、きっとついには互いに殺戮しあうでしょう。国家を保全するに足りず、今は清平といえども、その滅亡を静かに待たなければなりません。」と。彦謙は驚き、玄齢の見識を優れたものとした。

十八歳の時に本州の進士に挙げられ、羽騎尉を授けられた。4隋の開皇十七年(西暦597年)のこと。房玄齢の半生についての記録は少なく、『冊府元亀』巻三百九、巻九百二十五によればはじめ隰城縣尉を務め、隋の漢王楊諒の反逆に連座して除名されたとする。その後は鬱々として活躍の場を得ず諷読(本をそらんじて読むこと)に務めていたという。吏部侍郎であった高孝基5高構(540-611)。孝基は字である。本貫は北海郡。ユーモラスな性格だが聡明多弁で読書を好んだ。はじめ北斉に仕え、北斉が滅亡すると北周に仕え、隋が建国されると冀州司馬として有能で知られた。煬帝が即位すると吏部侍郎となったが、能力は吏部の者でも最も優れており、皆が彼の指示を仰いだ。劇談を好み軽薄な性質であったが内心は優雅であり、特に吏部尚書牛弘から重んじられた。房玄齢や杜如晦の才能を見抜き、後に彼ら唐の大臣となると、高構は人を知る鑑を持っていたと称された。『隋書』房彦謙伝によれば彦謙とも交流があったという。はもとより人を見る目に優れていたが、房玄齢を見て深く嗟嘆し、裴矩6隋の重臣。北周のころから楊堅に仕え、隋二帝に重用された。楊廣の側近であった五貴の一人に数えられる。隋末には竇建徳の軍に捕らえれたが、建徳が李世民に敗れると唐に帰順した。武徳代には太子詹事を務め、『新唐書』袁朗伝は裴矩を太子の一派であったとする。に言った。
「私は人を見ることが多いが、この若者のような者はいまだかつて見たことがなかった。必ずや大人物となるだろう。ただ恨めしいのは、その聳壑凌霄をこの目で見られないことだ。」と。
父彦謙が体を病み、それは十旬(百日)にも渡った。玄齢は心を尽くして薬膳を用意し、〔自分の衣を解いて父に着せるように〕恩に厚く看病にあたり眠ることはなかった。彦謙が亡くなると、喪に服して五日も飲食を断った。7房彦謙は隋大業十一年(615)に69歳で死去した。墓は唐の貞観五年(631)に改葬されている。
(历城赵山之阳的房彦谦碑:https://www.licheng.gov.cn/publish/portal0/tab230/info6010.htm
後に隰城尉の補官にあてられた。

折しも李淵の軍が関中に入り、李世民が渭北の地を平定して回っていた。玄齢は自ら世民の軍門を訪ね謁見し、温彦博もまた世民に玄齢を推薦した。8原文には〈玄齡杖策謁於軍門、溫彥博又薦焉。〉とあるが、新旧唐書温彦博伝は彦博が羅藝と共に唐に帰順した時期を武徳二年(619)とする。彦博が617年の李世民の渭北道行軍に従軍している可能性は低く、同時期に李世民に同行していた温彦博の兄弟である温大雅、または弟の温彦将の誤りと考えられる。世民は玄齢に一見して旧識の如く親しみ、その日に渭北道行軍記室参軍に任命した。
玄齢は知己を得、心力を空になるほど尽くし、知りて行わないことはなかった。世民の軍が賊寇を平定する度、軍の人間は競って金品や貴重な品物を手に入れようとしたが、玄齢だけは先に敵軍の人物を収め、彼らを秦王府に入幕させた。謀臣猛将と潜かに申結し、彼らに死力を尽くさせた。

太子であった李建成は、李世民の勲功が誰よりも高いのを見て甚だ猜忌するようになった。あるとき世民が建成のところに赴いたが、食べ物に盛られた毒にあたって帰還した。9新旧唐書隠太子建成伝には、李建成が李世民を宴席に招き酒に毒を盛るエピソードが記載されている。〈後又與元吉謀行鴆毒、引太宗入宮夜宴、既而太宗心中暴痛、吐血數升、淮安王神通狼狽扶還西宮。〉(『旧唐書』列伝第十四 隠太子建成伝)〈建成等召秦王夜宴、毒酒而進之、王暴疾、衉血數升、淮安王扶掖還宮。〉(『新唐書』列伝第四 隠太子建成伝)秦王府の人間は驚いて震え上がったが、誰も計を出すことができなかった。
玄齢はひそかに長孫無忌に言った。「今すでに嫌隙が生じ、禍いはまさに起ころうとしている。天下は懼れおののき、人々は謀反の心を抱いている。ひとたび何かの発端があれば必ずや大乱が起こるだろう。王府や朝廷に禍が及ぶだけでなく、国家の存亡に繋がるであろうことを恐ろしく思う。私に愚計がある。周公の故事に従って外に中原を安んじ内に宗廟社稷を安んじ、孝養の礼を尽くすより最善の策はない。古人の言葉に『国を治める者、小節を顧みず』とある。今がまさしくこれではないか!国家の滅亡よりも、身名をともに滅ぼす〔としても兵を起こす〕方が良いではないか」と。

無忌は言った。「長らく私も同じ考えを抱いていたが、未だに打ち明けることはなかった。今貴方が言ったことは、まさに自分の考えと一致するところではないか。」と。無忌はこのことを世民のところへ行って打ち明けた。世民は玄齢を召し出して言った。「危機の兆しはすでに表れている。今これをどうすべきか?」と。玄齢は答えて言った。「国家が患難に陥るのは古今同じであり、睿聖欽明(聡明な天子)でなければ国家を安寧させることはできません。秦王殿下の功績は天下を覆い、天命を得ている。神贊のあるところであり、人謀に依るべきではありません。」と。
玄齢は同じく秦王府に属する杜如晦と心を合わせて力を尽くし、府に従って秦王府記室を授けられ、臨淄侯に封ぜられた。また本職〔秦王府記室〕と陝東道大行台考功郎中を兼ね、秦王府の文学館学士を加えられた。

玄齢は秦王府にあること十余年、常に管記を掌握した。軍書を奏することがあれば、速やかにこれを記してしまった。文章は簡潔で要領を得ており、稿草を起こすことがなかった。李淵はあるとき侍臣にこう言った。「彼は深く機宜を知り、仕事を託すに相応しい。我が子(世民)について述べる際には必ず情愛を介する。まるで対面に会話しているようである。」と。

建成は玄齢と如晦が世民に親礼されるのを甚だ警戒し、李淵に二人を讒言し貶めた。これによって玄齢と如晦は排斥を受けた。建成が変を起こそうすると、世民は無忌に命じて玄齢と如晦を呼び寄せ、二人に道士の服を着せて秘かに入閣させて事を謀った。世民が太子となると玄齢は太子右庶子を拝命し、絹五千匹を賜わった。貞観元年(627)、蕭瑀に代って中書令となった。

臣僚の功績について論じ、〔それぞれに見合った〕褒賞がなされた。〔玄武門の変において〕玄齢、無忌、如晦、尉遅敬徳、侯君集の五人は功績が最も優れていたとされた。玄齢は爵を邢國公に進め、実封千三百戸を賜わった。世民は諸功臣に言った。「朕は君達の勲功に応じて褒賞を与えて封邑を量定しているが、それに不足があってはいけないと不安に思っている。各々自分の功績を朕に述べてくれ。」と。世民の族叔である淮安王の李神通10神寿。字は神通。李淵の父李昞の弟李亮の長子で、李淵の従兄弟にあたる。が進んで言った。「はじめ義旗が起きると、私は兵を率いてまっさきに〔李淵のところに〕参りました。今、房玄齢や杜如晦らは刀筆の吏(文筆、記録に従事する役人)でありながら、功績を第一とされています。私はひそかにこれに納得しておりません。」と。
世民は言った。「太上皇が挙兵したばかりの頃は、人はみな太上皇に心を寄せておりました。叔父上(神通)は集めた兵を率いて父のもとへ参りましたが、そのときはまだ戦をしたことはありませんでした。〔竇建徳がおり〕山東が定まらずにいたとき太上皇に征討を任命されましたが、建徳が南侵すると全軍が陥没してしまったではないですか。また劉黒闥が兵を挙げると、それを静観して敗走してしまいました。今勲功を査定し褒賞を行うに、玄齢らは戦場の帷幄(陣営に幕を張ったところ)において策謀を立て、社稷を定めた功績があります。前漢の蕭何には汗馬の労(戦功)はありませんが、謀略を立てて人材を推挙しました。これが玄齢らを功の第一とする理由です。叔父は近親であり、何も惜しむべきところはありません。しかし私心によって過剰に褒賞を与えることは致しません。功臣と同じように賞するだけです。」
はじめ将軍の丘師利11隋の将軍丘和の子。丘行恭の兄。たちは、みな自分の功績を誇り、自分が思ったことを天を指し地に書き(威勢良く)主張していた。神通が世民の言葉に折れたのを見ると、各々がこう言った。「陛下は私心を捨て公に徹して賞を行い、自分の親族であっても私することはない。自分が陛下と親しい間柄であっても、なぜみだりに功績を主張しようか」と。

〔貞観〕三年(629)、太子少師を拝命した。固辞して受けず、太子詹事と禮部尚書を兼ねた。明年、長孫無忌に代わり尚書左僕射となり、改めて魏国公に封ぜられ、国史を監修した。玄齢は百官を統べる立場となり、昼夜慎み深く勤勉で、心を尽くし節操を尽くし、一人たりとも相応の地位が得られないことがあってはならないと願った。人に善があればまるで自分にそれがあるように喜んだ。管理の職務に通じ、文学の才能を有し、法令を審定するときは寛容で公平であることを心がけた。人を採用するときは完全さを求めず、己の長所で以て人と争わず、能力にしたがって官職を与え、卑賎を遠ざけることはなかった。論者は玄齢を良相であると評した。ときに過失を以て叱責されたときは、何日も朝堂で跪拝して罪を請い、まるで許されないかのように恭しくおどおどとしていた。

貞観九年(635)、高祖の山陵制度を制定し、その功績によって開府儀同三司を加えられた。 貞観十一年(637)、司空の長孫無忌等十四人とともに刺史に任命され、本官と宋州刺史を兼ねた。玄齢も改めて梁國公に封ぜられる予定であったが、〔礼部侍郎李百薬の奏議によって〕事は行われずに終わった。貞観十三年(639)、太子少師を加えられたが、しきりに上表して僕射の職を解任するよう請願した。李世民は詔して、「夫(それ)賢を選ぶの義、私無く上を奉ずるの道に本づかんが為に、仁に当たる是貴とし。列代風を弘め、賢を通ずる所以、徳を協する所以なり。公忠肅恭懿、明允篤誠、草昧に覇図をなし、帝道を綢繆す。黃閤に儀刑し、庶政惟(これ)和ぐ、春宮を輔翼し望み、実に斯(これ)著わす。而して彼(か)の大礼を忘れ、茲(こ)の小節に徇(したが)う、教諭の職を恭しくすると雖(いえど)も、乃ち機衡の務めを辞す、豈に所謂(いわゆる)『予一人を弼(たす)く』、共に四海を安んずる者ならんや。」と玄齢を引き止めた。僕射に加えて太子少師に就いた。

ときに皇太子は玄齢に拝礼を行なおうと儀を備えて待機していたが、玄齢は深くへりくだり、あえて進見を行わず屋敷へ帰宅した。識者たちはこの崇譲を賞賛した。玄齢は宰相にあること十五年、娘は韓王李元嘉(李淵の十一男。母は宇文昭儀)の妃に迎えられ、息子の房遺愛は高陽公主を娶り、顕貴(高い地位にあること)は極まっていた。しきりに上表して辞職を求めたが、李世民は特別なおおせごととして常に彼を留めた。
貞観十六年(642)に高士廉等と《文思博要》を同撰し、その褒賞の多さは誰よりも優っていた。また司空を拝命し朝政を総括し、旧例に従って国史を監修した。玄齢は位を退くことを上表したが、李世民は使者を遣わせて言った。
「昔留侯(張良)位を讓り、竇融栄を辞す。自ら盈満を懼れ、進んで能く退くを知る。善く止足を鑑み前代之を美とす。公亦た跡(あと)を往哲と齊(ひとし)くせんと欲す、実に嘉尚すべし。然れども国家久しく相任使し、一朝に忽(たちま)ち良相無し、両の手を失うが如し。公若し筋力衰えずんば、この讓を煩わすなかれ。」と。玄齢はついに思いとどまった。
十八年、司徒長孫無忌等と形を凌煙閣に功臣図を描かれた。贊には「才は藻翰を兼ね、思は機神に入る。12『文選』序文に〈事は沈思より出でて、義は翰藻に帰す。〉とある。官に当って節を励まし、上を奉じ身を忘れる。」と記された。

高宗(李治)が皇太子となり、玄齢には太子太傅が加えられ、門下省のことを司った。旧例に則り国史を監修し、ついで《高祖実録》、《太宗実録》を撰した。璽書を降してして褒美を賜ること帛千五百段に及んだ。その年に玄齢の継母が死去したため職を辞したが、李世民は特別に敕して玄齢の母を昭陵に埋葬した。玄齢は幾ばくもならず本職に復帰した。

李世民は遼東に親征すると、玄齢に京城の留守を命じた。手詔して「公蕭何の任に当たれば、朕西顧の憂い無し。」と述べ、軍戎器械、戦士糧廩のすべての処分発遣を彼に一任した。玄齢はしばしば上言し、「敵軽んずべからず、尤(もっと)も宜しく誡慎すべし。」と言った。

(続)


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    房喬、字は玄齢…『旧唐書』房玄齢伝は〈房喬、字玄齡〉と玄齢を字、喬を諱とする。『新唐書』房玄齢伝は〈房玄齡、字喬〉と諱を玄齡、字を喬とする。《房玄齢碑》は『新唐書』と同様玄齢を諱、喬を字とする。
  • 2
    『隋書』列伝第三十一 房彦謙伝に〈房彥謙、字孝沖、本清河人也、七世祖諶、仕燕太尉掾、隨慕容氏遷于齊、子孫因家焉。世為著姓。高祖法壽、魏青、冀二州刺史、壯武侯。曾祖伯祖、齊郡、平原二郡太守。祖翼、宋安太守、並世襲爵壯武侯。父熊、(字子)釋、褐州主簿、行清河、廣川二郡守。〉とあり、房家は代々壮武侯を世襲する名家であった。
  • 3
    『隋書』房彦謙伝については、本来立伝されるべきでないのに玄齢の父として立伝されたことを非難されたという。(布目潮渢『隋唐史研究』p233)
  • 4
    隋の開皇十七年(西暦597年)のこと。房玄齢の半生についての記録は少なく、『冊府元亀』巻三百九、巻九百二十五によればはじめ隰城縣尉を務め、隋の漢王楊諒の反逆に連座して除名されたとする。その後は鬱々として活躍の場を得ず諷読(本をそらんじて読むこと)に務めていたという。
  • 5
    高構(540-611)。孝基は字である。本貫は北海郡。ユーモラスな性格だが聡明多弁で読書を好んだ。はじめ北斉に仕え、北斉が滅亡すると北周に仕え、隋が建国されると冀州司馬として有能で知られた。煬帝が即位すると吏部侍郎となったが、能力は吏部の者でも最も優れており、皆が彼の指示を仰いだ。劇談を好み軽薄な性質であったが内心は優雅であり、特に吏部尚書牛弘から重んじられた。房玄齢や杜如晦の才能を見抜き、後に彼ら唐の大臣となると、高構は人を知る鑑を持っていたと称された。『隋書』房彦謙伝によれば彦謙とも交流があったという。
  • 6
    隋の重臣。北周のころから楊堅に仕え、隋二帝に重用された。楊廣の側近であった五貴の一人に数えられる。隋末には竇建徳の軍に捕らえれたが、建徳が李世民に敗れると唐に帰順した。武徳代には太子詹事を務め、『新唐書』袁朗伝は裴矩を太子の一派であったとする。
  • 7
    房彦謙は隋大業十一年(615)に69歳で死去した。墓は唐の貞観五年(631)に改葬されている。
    (历城赵山之阳的房彦谦碑:https://www.licheng.gov.cn/publish/portal0/tab230/info6010.htm
  • 8
    原文には〈玄齡杖策謁於軍門、溫彥博又薦焉。〉とあるが、新旧唐書温彦博伝は彦博が羅藝と共に唐に帰順した時期を武徳二年(619)とする。彦博が617年の李世民の渭北道行軍に従軍している可能性は低く、同時期に李世民に同行していた温彦博の兄弟である温大雅、または弟の温彦将の誤りと考えられる。
  • 9
    新旧唐書隠太子建成伝には、李建成が李世民を宴席に招き酒に毒を盛るエピソードが記載されている。〈後又與元吉謀行鴆毒、引太宗入宮夜宴、既而太宗心中暴痛、吐血數升、淮安王神通狼狽扶還西宮。〉(『旧唐書』列伝第十四 隠太子建成伝)〈建成等召秦王夜宴、毒酒而進之、王暴疾、衉血數升、淮安王扶掖還宮。〉(『新唐書』列伝第四 隠太子建成伝)
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    神寿。字は神通。李淵の父李昞の弟李亮の長子で、李淵の従兄弟にあたる。
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    隋の将軍丘和の子。丘行恭の兄。
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    『文選』序文に〈事は沈思より出でて、義は翰藻に帰す。〉とある。