人物紹介(隋朝の皇帝・皇后)

隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5
隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア


(ずい)
581年から618年に中国に存在した王朝。前朝である北周の重臣楊堅(ようけん)が、北周静帝宇文闡(うぶんせん)から禅譲を受けて建国された。 589年に南朝の陳を平定し、中国をおよそ300年ぶりに統一した。
首都は大興(だいこう)。楊堅によって漢以来の長安の近郊に建造された。現在の西安にあたる。
隋(王朝の変遷・版図)

隋(王朝の変遷・版図)(画像クリックで拡大)

 


【隋の皇帝】

文帝 楊堅(ようけん) / 小名:那羅延(541年7月21日‐604年8月13日 在位:581‐604)
廟号:高祖 諡号:文帝(隋煬帝による)
北周の大将軍楊忠(ようちゅう)と呂苦桃(りょくとう)の子。長女の楊麗華を北周宣帝宇文贇(うぶんいん)の皇后とし、上柱国・大司馬となり北周で権勢を揮った。宇文闡から禅譲を受けて隋を開国し、隋唐王朝の礎を作った。

煬帝 楊廣(ようこう)(569‐618年4月11日 在位:604‐618)
廟号:世祖 諡号:明帝(隋恭帝による)→煬帝(唐高祖から)
楊堅と独孤伽羅の次子。隋の二代目皇帝。

恭帝 楊侑(ようゆう)(605‐619年9月14日 在位:617‐618)
諡号:恭皇帝(唐高祖による)
楊廣の長男である楊昭(ようしょう)の子。母は韋妃。若くして聡明で氣魄があった。大業三年(西暦607年)に陳王に封ぜられ、しばらくして代王に改封された。楊廣が高句麗遠征に赴くと、京師において総留事を務めた。楊廣が晋陽に行幸すると太原太守となり、にわかに長安に戻された。大業十三年(617)に唐公李淵が長安を平定すると、皇帝に擁立され即位した。李淵は尚書令・大丞相に任じられ、唐王に封ぜられて国政を一任された。大業十四年(618)三月、宇文化及が楊廣を殺害し、五月にその知らせが長安に届くと、楊侑は李淵に帝位を禅譲して酅国公となった。ここにおいて隋が滅亡し、唐が建国された。武徳二年(619)に亡くなった。


【文帝の后妃】

文献皇后 独孤伽羅(どっこから)(541年7月21日‐602)
諡号:文献皇后(隋文帝による)
北周の大司馬独孤信(どっこしん)の七女。母は崔氏。14歳で楊堅に嫁いだ。国政に参与し、宮中では楊堅と共に「二聖」と称された。『隋書』文献独孤皇后伝によれば、楊堅は独孤皇后の崩御後に陳氏と蔡氏を寵愛し、彼女たちにすこぶる惑乱したために病になったという。

宣華夫人 陳氏(ちんし)
陳宣帝陳頊(ちんぎょく)の娘。『嘉泰呉興志』巻十六の引く『統記』によれば第十四女にあたり、母は高昭儀。広徳公主に封ぜられていたとする。《陳臨賀王國太妃墓志銘》では施氏(『陳書』では施姬)が陳氏の母であったとする。

容華夫人 蔡氏(さいし)
丹陽の人。陳の滅亡後に選ばれて後宮に入り、世婦となった。1二十七世婦=婕妤、美人、才人(正三品から正五品)のいずれかの地位にあったと考えられる。蔡氏の振る舞いや出立ちは従順で物静かであり、楊堅はそれを甚だ喜んだが、独孤皇后の存在があったので召し出されることは稀であった。皇后が崩御するに及ぶと次第に寵遇を受けるようになり、貴人となって宮廷の職務を処断する立場となり、その地位は陳氏に次いた。楊堅が病によって寝込むと、容華夫人の号を加えられた。楊堅が崩御すると、自ら願い申し出て、煬帝の慰みを受けたという。

弘政夫人 陳氏(ちんし)
陳頊の娘。『嘉泰呉興志』巻十六の引く『統記』によれば長城の人。陳頊の第二十四女であり、宣華夫人の妹にあたる。母は曾美人。陳後主陳叔宝(ちんしゅくほう)により臨川公主に封ぜられたという。

尉遅氏(うっちし)
尉遅迥(うっちけい)の孫にあたる。美貌の持ち主であり、楊堅の寵愛を受けたが、独孤皇后によって殺害された。


【煬帝の后妃】

愍皇后 蕭氏(びんこうごう しょうし)(566頃?‐6472『アジア人物史2 2~7世紀 世界宗教圏の誕生と割拠する東アジア』(集英社、2023)
諡号:愍皇后(唐太宗による)
梁明帝蕭巋(しょうき)の子。母は張皇后。蕭瑀(しょうう)の姉に当たる。二月に生まれたが、江南には二月に生まれた子を取り上げないという風俗があったため、叔父の蕭岌(しょうきゅう)に養われた。蕭岌夫妻が死去すると母方の叔父の張軻(ちょうか)の家に引き取られた。張軻の家は非常に貧しく、蕭氏も自ら苦労を重ねた。楊堅が梁から晋王楊廣の妃を選ぼうと占いを行ったところ、公主の中で蕭氏にのみが吉と出たため、楊廣の王妃となった。婉順で学識があり占いに詳しく、このため楊廣に寵敬され、楊廣が即位すると皇后に立てられた。楊廣の遊幸には常に随従し、失政が甚だしくなると《述志賦》を作って諫めた。大業十四年(618)に宇文化及(うぶんかきゅう)が楊廣を殺害すると宇文化及の軍に従い、化及が敗死する孫の楊政道(隋の斉王楊暕(ようかん)の遺腹の子)と竇建徳(とうけんとく)の軍に従った。突厥の処羅可汗が蕭氏を迎えに洺州に使者を送ると、差し出されて突厥に送られた。貞観四年(630)に東突厥が唐に破れると長安に護送された。貞観二十二年(648)に死去し、李世民によって楊廣と合葬された。

貴人 陳婤(きじん ちんしゅう)
陳叔宝の第六女。大業二年(606)に楊廣の貴人となった。


【文帝諸子】

太子 楊勇(ようゆう)(569以前?3同母弟の楊廣が569年に生まれている。‐604)

秦王 楊俊(ようしゅん)(571‐600)

蜀王 楊秀(ようしゅう)(573‐618)

漢王 楊諒(ようりょう)(575‐605)

天元大皇后 楊麗華(ようれいか)(561‐609)
楊堅と独孤伽羅の長女。北周宣帝宇文贇(うぶんいん)が皇太子の頃に東宮に入り、皇太子妃に立てられた。578年に宇文贇が即位すると皇后となった。 翌年、宇文贇が7歳の長男宇文闡(うぶんせん、元の名は衍(えん))に譲位し天元皇帝を自称したため、天元皇后となった。宇文贇はまた天元皇后の他に天皇后・天右皇后・天左皇后・天中大皇后の四人を立后したが、麗華は性格が柔婉で嫉妬心を抱くことがなく、四皇后と嬪御たちに敬愛された。宇文贇は暴虐甚だしく喜怒の激しさは度を越していた。あるとき麗華を責め罪を加えようとしたが、麗華は穏やかに振る舞い恐れを見せなかった。宇文贇は激怒し麗華に死を賜ろうとしたが、麗華の母独孤伽羅がこれを聞いて閤を訪れて陳謝し、流血するほど叩頭した。このため麗華は死を免れた。宇文贇が崩御すると皇太后となった。
宇文贇は病になると、詔して楊堅を禁中に入れて侍従させていた。しかし病が重篤になると、劉昉(りゅうぼう)、鄭訳(ていやく)らが詔を偽造し、楊堅に宇文闡の輔政が託されたと偽った。麗華はこの謀略を知らなかったが、宇文闡が幼く他の一族が専横し自らの不利になることを恐れていたため、これを知ると心中甚だ喜んだ。しかし後に楊堅に簒奪の意図があるのを知ると、内心で非常に不満を抱き言動や顔色にもそれを表した。禅譲が実行されると麗華の憤懣は甚だしく、楊堅は譴責することもできず、内心で非常に恥入った。開皇六年(586)に楽平公主に封ぜられた。楊堅は麗華を再婚させようとしたが、麗華が強く拒否したので行われなかった。大業五年(609)に弟楊廣の行幸に従って張掖に赴き、河西で死去した。歳は四十九歳であった。

蘭陵公主 楊阿五(ようあご)(?‐?)
楊堅と独孤伽羅の子。楊廣の妹にあたる。容姿が美しくしとやかな性格であり、読書を好んだ。楊堅からは諸女の中でも特に鍾愛された。はじめ王奉孝(おうほうこう)に嫁ぎ、奉孝が卒すると十八歳で柳述(りゅうじゅつ)に嫁いだ。蘭陵公主の姉たちには驕貴な性質があったが、公主は一人婦道を尊んで舅姑に甚だ恭しく仕え、舅姑が病にかかれば自ら湯薬を献上した。楊堅はそれを聞いて喜び、これによって柳述への寵遇も厚いものとなった。
晋王であった楊廣はもともと蘭陵公主に自分の妃の蕭氏の弟である蕭瑒(しょうとう)を娶せたがっていたが、楊堅がこれを許さず柳述と婚姻させたのを不満に思っていた。柳述は柳機(りゅうき)の息子で、明敏で謀略があり文芸に詳しかった。楊堅からの信頼も厚く職務の評判も良かったが、寵遇に驕り傲慢な性質でもあった。ときに楊素(ようそ)は朝廷の貴臣として朝臣から恐れ憚られていたが、柳述だけは楊素に対抗し彼の度々短所を面折して指摘した。楊素と柳述は対立したが、楊堅は柳述を信頼し機密を参掌させるようになった。
楊堅が仁寿宮で病床につくと、柳述は楊素・元岩(げんがん)らとともに宮中で近侍していた。その最中皇太子であった楊廣が陳貴人に無礼な振る舞いをし、それを知った楊堅は激怒して柳述に命じて房陵王楊勇を自らのもとに呼び寄せようとした。柳述は元岩とともに部屋の外で勅書を作成したが、楊素はそれを聞くと楊廣と協謀し、柳述が詔を偽ったとして捕らえさせた。楊廣が即位すると柳述は官爵を奪われ、蘭陵公主と離縁させられた。柳述は龍川郡に流されたのち、さらに寧越に移され、風土病によって39歳で死去した。
楊廣は蘭陵公主を離縁させて然るべき相手と再婚させようとしたが、蘭陵公主は死を厭わず公主を返上して柳述の流罪に同行することを請願した。楊廣は激怒し、「天下に男子は大勢いる。柳述と流罪となってどうするのか」と言った。公主は「先帝によって妾は柳家に嫁ぎ、今罪を得たならば妾も連座するべきでしょう。」と返した。楊廣は従わず、とうとう公主は憂憤の余り卒した。公主は死に臨んで柳氏と共に葬って欲しいと上表していたが、楊廣はその書を読みますます怒った。楊廣は公主が卒しても哭さず、その葬礼も極めて簡素であり、朝野の人間がこれを悼んた。


【煬帝諸子】

元徳太子 楊昭(ようしょう)(584‐606)

斉王 楊暕(ようかん)(585‐618)

趙王 楊杲(ようこう)(607‐618)

南陽公主(なんようこうしゅ)(?‐?)
楊廣の長女。容姿が美しく志節があり、どのような時でも礼を以って振る舞った。14歳で宇文述(うぶんじゅつ)の子の宇文士及(うぶんしきゅう)に嫁ぐと、夫と父に謹慎として尽くし、世間から賞賛された。士及の兄である宇文化及が楊廣を弑殺すると化及に同行し、化及が竇建徳(とうけんとく)に敗れると建徳に保護された。建徳が引見した際、隋の遺臣たちはみな動揺して涙したが、公主だけは自若とした様子であった。公主は建徳と国家の滅亡を語り、仇を討てなかった怨みを涙して述べ、聞いた者はみな涙を流し、彼女に敬意を抱いた。
公主と士及の間には十歳になる息子の宇文禅師(うぶんぜんし)がいた。建徳は化及を処刑する際、公主に武賁郎将の於士澄(うしちょう)(于士澄とも)を遣わせ「化及の一族は滅ぼさねばならず、公主の子も法によれば処刑しなければならない。しかしそれが耐えられなければ留め置くことを許しましょう」と伝えた。公主が涙して「武賁郎将は隋の高官でしょう。なぜそのようなことを問われるのですか」と答えたため、建徳は禅師を処刑した。にわかに建徳に願い出て出家し尼となった。
建徳が唐に敗れたのち長安に戻ろうとすると、たまたま洛陽で夫の士及と遭遇した。しかし公主は対面を許さなかった。士及は戸外で復縁を求めたが、公主は「私と貴方の家は仇敵の間柄です。今貴方に刃を向けないのは、貴方が謀反に関わっていなかったのを知っているからです」と言って拒絶し、速やかに立ち去るように叱責した。士及がなお固く懇願すると、公主は怒って「死にたいのなら会ってもよいでしょう」と答えた。士及はその痛切さを理解し、拝礼して立ち去った。

楊氏(?‐?)(ようし)
史料が少なく、生母や公主の封号を受けたかも明らかではない。正史には李世民の後宮に入り、呉王李恪(りかく)、蜀王李愔(りいん)を生んだことのみが記録される。


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    二十七世婦=婕妤、美人、才人(正三品から正五品)のいずれかの地位にあったと考えられる。
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    『アジア人物史2 2~7世紀 世界宗教圏の誕生と割拠する東アジア』(集英社、2023)
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    同母弟の楊廣が569年に生まれている。