人物紹介(『旧唐書』列伝2)

隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5
隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア


【『旧唐書』巻六十五 列伝第十五:高士廉、子履行、履行弟真行、長孫無忌】

高士廉(高倹)(こうれしれん / こうけん) / 字:士廉(576‐647)
諱は倹。字で通称される。渤海蓨の人。北斉の楽安王高勱の子で、妹が長孫晟に嫁いでおり、晟の死後妹と共に長孫兄妹を引き取った。隋代に斛斯政に連座し朱䳒県に左遷された。隋末には交趾太守であった丘和に従っていたが、武徳五年(622)丘和と共に唐に帰順した。玄武門の変では無忌と共に策謀を立てた。李世民から甚だ敬意をもって親しまれ、宰相として重用されたが、表奏の殆どを焚稿し、その功績は朝廷でも知られていなかった。太宗の命を受け貞観十二年(638)に岑文本らと『氏族志』(『貞観氏族志』)を編纂した。当初『氏族志』においては山東の崔氏が一等と格付けされていたが、李世民によって当時の朝廷の品秩を基準として再編纂を命じられ、皇族を第一とし、外戚を次等とし、崔氏は第三に降格された。『氏族志』は時宜に相応すると称され、唐初において魏晋南北朝来の貴族勢力の衰退・再編成を示すとされる。

長孫無忌(ちょうそんむき) / 字:輔機(?1維基百科によれば594年生まれ。‐659)
河南洛陽の人。隋の長孫晟の子。長孫皇后の兄。若くして学問を好み文史に広く通じた。また聡慧で才略があった。長孫氏の兄にあたり、李世民と若くして交友を持った。李淵が挙兵すると長春宮にて謁見し、李世民の下で渭北道行軍典簽となった。李世民と李建成の対立が深まると房玄齢と共にいち早く決起を進言し、玄武門の変では功第一席とされた。実務能力に優れ処世を徹底して慎ましく、「理に則り迅速に事の決裁にかけては、古人でも及ぶものがいない」と李世民から評された。褚遂良と共に李治の後見を託され、二人が李治を輔政した時代は朝廷に貞観代の遺風が残っていたという。高宗朝で朝廷で対立した人間の排斥を果敢に行なったが、許敬宗・李勣らが武照(則天武后)の立后を擁立すると失脚し、顕慶四年(659)に自縊を令され死去した。


【巻六十六 列伝第十六:房玄齢、子遺直、遺愛、杜如晦、弟楚客、如晦叔父淹】

房玄齢2『旧唐書』房玄齢伝は〈房喬、字玄齡〉と玄齢を字、喬を諱とする。『新唐書』房玄齢伝は〈房玄齡、字喬〉と諱を玄齡、字を喬とする。《房玄齢碑》は『新唐書』と同様玄齢を諱、喬を字とする。(ぼうげんれい) / 字:喬(579‐648)
齊州臨淄の人。父は隋で涇陽令を務めた房彦謙。幼くして聡明であり、隋朝の滅亡を予見し父彦謙から見識を奇とされた。十八歳で本州の進士に挙げられ、羽騎尉を授けられが楊諒の乱に連座して除名され、持ち場を得ず諷讀に努めて過ごした(『冊府元亀』巻九百二十五)。李世民が渭北に進軍すると自ら軍門を訪ね、その日に渭北道行軍記室参軍に抜擢された。玄齢は李世民を知己とし、軍が賊寇を平定する度に英俊を入幕させ、彼らと共に死力を尽くした。李建成と李世民の対立が深まると、玄齢は先んじて長孫無忌に「今すでに嫌隙が生じ、禍いはまさに起ころうとしている。ひとたび発端があれば必ずや大乱が起こるだろう。周公の故事に従って外に中原を安んじ内に宗廟社稷を安んじ、孝養の礼を尽くすより最善の策はない。国家の滅亡よりも、身名を滅ぼす方が良いではないか」と説いた。李建成の讒言により杜如晦と排斥を受けたが、秘かに李世民に呼び寄せられ入閣して事を謀った。論功行賞では第一等となり、李世民が即位すると尚書左僕射となった。玄齢は百司を任総する立場でありながら昼夜心を尽くして職務に勤しみ、吏事に明達し法令の審定は公正で、論者は彼を良相と称えた。

杜如晦(とじょかい) / 字:克明(585‐630)
京兆杜陵の人。父は隋に仕えた杜吒。若くして聡悟であり、好んで文史を談じた。隋の大業中に常調を以て選に授かり、吏部侍郎の高孝基から才能を認められた。滏陽県尉を務めたが棄官し、李淵が挙兵すると李世民に召し出されて秦王府兵曹参軍となった。ときに秦王府の英俊の多くが外州に遷任されたため、李世民はこれを憂いていた。房玄齢が「府僚に去る者が多くとも、惜しむに足りません。しかし杜如晦は聡明識達、王佐の才の持ち主です。もし大王が藩を守り端拱すれば用いるところはありません。しかし四方を経営しようと欲すれば彼以外の人物はいないでしょう」と説くと、上奏して秦王府にとどめ置かれた。薛仁杲、劉武周、王世充、竇建徳征戦に従軍し参謀として功績をあげた。天下統一後は秦王府十八学士の筆頭となった。策謀に長じた房玄齢に対し杜如晦は決断力に優れた。李世民が玄齢と事を謀ると玄齢は如晦に判断を委ね、如晦は常に玄齢の策を取るよう決断した。貞観三年(629)冬に体を病み、翌貞観四年(630)に逝去した。李世民は深く如晦の死を悼み、彼を思い出す度に涙した。

杜楚客(とそかく) / 字:山賓(588‐655)
杜如晦の弟にあたる。隋末は叔父である杜淹に付き従い王世充の陣中にいた。杜淹と如晦の兄弟は元々不仲であり、杜淹の讒言により如晦の兄は王世充に殺害され、また楚客は捕らえられて餓死寸前に追い込まれた。洛陽が平定されると淹は死罪に相当したが、楚客には恨みはなく、涙して如晦に杜淹の助命を請願した。如晦ははじめ従わなかったが、楚客が 「かつては叔父上が大兄上を殺し、今は兄上が恨みから叔父上を殺す。一族のうちでことごとく殺し合うなど、なんと痛ましいことだろう!」と言って自剄を果たそうとしたため、感服して李世民に助命を請願し、これにより淹は死刑を免除された。嵩山に隠居し、貞観四年(630)に召し出されて給事中、蒲州刺史を歴任し、有能さで名前を知られた。のちに魏王李泰の王府の長史を歴任し、工部尚書、摂魏王府事となった。 楚客は李世民が李承乾の素行を喜ばないことを知り、密かに魏王に命じられて友や朝臣に賄賂を渡し、魏王は聡明で世継ぎに相応しいと語った。李世民はこのことを察知していたが、のちに謀反が発覚し、はじめてそのことを問題とした。楚客は如晦に佐命の功があることから免死され、家に帰された。ついで虔化県令を拝命し卒した。

杜淹(とえん) / 字:執礼(?‐628)
杜如晦の叔父にあたる。祖父の業は北周で豫州刺史を、父の杜徴は北周で河内太守を務めた。聡明で多芸多才であり、弱冠にして美名で知られた。高孝基の推薦を受けて、承奉郎を授けられ、隋の大業末に御史中丞にまで昇った。王世充が皇帝を僭称すると、吏部に置かれて大いに重用された。李世民によって洛陽が平定されたが登用されなかったので、李建成を頼ろうとした。房玄齢は建成が杜淹を得、姦計に長じることを恐れたため、急いで李世民に事情を説き、杜淹を引き入れて天策府兵曹参軍とした。武徳八年(625年)に楊文幹が乱を起こすと3東宮と連帯していたことを自白したため、王珪、韋挺らと罪に問われて越巂へ流罪となった。李世民が即位すると、呼び戻されて御史大夫となった。吏部尚書を兼ねて朝政に参与し、前後四十人を推薦したが、後に名の知れた者が多かった。杜淹は二職を兼任していたが、清正の評判はなく、また長孫無忌と不仲であり、時の人は彼を非難した。杜淹が病となると、李世民は自ら家を尋ねて慰問した。貞観二年(628年)に卒した。


【巻六十七 列伝第十七:李靖、靖弟客師、李勣、孫徐敬業】

李靖(りせい) / 字:薬師(571‐649)
雍州三原の人。『舊唐書』李靖伝は本名を薬師とする。父は隋で趙郡守を務めた李詮。姿貌が立派で逞しく若くして文武の才を持ち、常に親しい人間に「大丈夫が人主に遭えば、必ずや功を立て富貴を得るものだ」と語った。また叔父の韓擒虎と共によく兵法について論談した。隋大業末に馬邑郡丞となると、突厥の討伐に任ぜられていた李淵の四方の志を察し、自ら江都へ詣で楊廣に異変を伝えようとした。しかし長安までの道が塞がれており、李淵が長安を平定すると捕らえられた。まさに処刑されようとすると、「公は挙兵して天下のために暴虐を除き、民を安らげ大事を成し遂げようとしているが、なぜ私怨によって壮士を殺そうとするのか」と大呼した。李世民は李淵に強く助命を請願し、李靖を幕僚に加えた。李孝恭の征討を副官として輔佐し、蕭銑、輔公祏討伐で多大な功績をあげた。世民即位後は東突厥、吐谷渾征戦において指揮をとり、貞観代の外征事業の中心となった。王珪は李靖を評し、「才は文武を兼ね、出れば将軍、入りては宰相となる」と語った。思慮深く落ち着いた性格だが、突厥征戦では現場の判断で軍を動かし、頡利可汗を捕らえるも帰還後に蕭瑀から弾劾を受けた。李世民は度々李靖の瑕疵を庇い、兄のように慕って臣下の礼を取らなかった。李靖と李世民の兵法についての問答をまとめた『李衛公問対』(仮託書)は武経七書の一つに数えられている。

李勣(徐世勣→李世勣→李勣)(じょせいせき / りせいせき / りせき) / 字:懋功(594‐669) 
曹州離狐の人。はじめ李密に仕えたが、李密が唐に帰順すると領土を持って唐に降り、李世民の幕僚として征戦で功績をあげた。李世民即位後は突厥、薛延陀、高句麗への外征で活躍する。軍略に優れ名将の李靖と合わせて二李と称される。李世民崩御後は保身を徹底し、武照(則天武后)の立后を許敬宗と共に高宗に勧め(新旧唐書于志寧伝)、後に王朝を乱す要因を作った。李世民への忠誠心は強く、「死後先帝(李世民)に会ったときにのための朝服一式を棺に入れておくように」と遺言して死去した。愛。


【巻六十八 列伝第十八:尉遅敬徳、秦叔宝、程知節、段志玄、張公謹】

尉遅敬徳(尉遅恭)(うっちけいとく / うっちきょう) / 字:敬徳(585‐658)
諱は恭。字で通称される。朔州善陽の人。隋大業末に高陽で従軍し、群賊を捕らえて武勇で称され朝散大夫となった。劉武周が挙兵すると偏将となり、宋金剛と共に晋、澮の二州を陥落し、獨孤懐恩と唐倹らを捕らえた。武徳三年(620)、殷開山、秦叔寶の軍と美良川で戦い、安邑にて李世民の襲撃を受け大敗し、介休と永安を挙げて陣営に降った。驍勇な性質を殷開山や屈突通から警戒視されたが、李世民から厚く礼遇され、王世充・竇建徳、劉黒闥征戦に従軍し功績をあげた。李建成と李世民の対立が深まると長孫無忌・侯君集らと共に決起を迫った。玄武門の変では李元吉から李世民を救出し、李淵のもとに使者として赴き功第一席となった。戦場で李世民を救う騎士力に定評がある。功績を誇り直実な性格であり、房玄齢や杜如晦、長孫無忌の欠点を指摘するなど周囲との衝突も多かった。また直情的な性格で、貞観六年(632)の宴会では席順に不満を持ち、上座に座る宇文士及を罵倒すると、仲裁に入った李道宗の顔面を殴打した(『唐暦』)。李世民の高句麗遠征に反対し識者から称されたが、従軍して駐蹕山にて高句麗の軍を破った。晩年は仙道を信奉し、人との交友を断ち隠居に務めた。

秦叔宝(秦瓊)(しんしゅくほう / しんけい) / 字:叔宝(?3維基百科によれば571年生まれ。‐638)
諱は瓊。自で通称される。齊州歴城の人。はじめ隋に仕え張須陀に従っていたが、張須陀が李密に破れると李密に帰順した。李密が王世充に敗れると世充に降ったが、彼の性格を嫌って武徳元年(619)に程知節らと唐に帰順し李世民の幕僚となる。劉武周、王世充、竇建徳、劉黒闥征戦に従軍し功績をあげた。敵陣に単騎で乗り込み暴れ回るのを得意とし、李世民も幾度か敵の陣営に叔宝を差し向けたという。死後に尉遅敬徳と共に武神として信仰されるようになる。

程知節(程咬金)(ていちせつ / ていこうきん) / 字:義貞(589‐665)
齊州臨淄の人。若くして驍勇であり、馬槊の扱いに巧みだった。のちに李密に従い、李密が敗れると王世充に帰順した。しかし世充の性質を嫌い、秦叔宝に「世充は狭量で妄語が多く、巫師の老嫗のように呪いの言葉を吐く。これが撥乱の主君であるものか」と語った。世充が九曲で王師の軍と戦うと、陣にいた叔宝とともに「公からは接待を受けており、恩に報いたいと感じます。しかし公は猜疑心が強く周囲に惑わされ、僕が一身を託せる方ではありません。今謹んでここを去りたいと思います」と言い、馬を踊らせて立ち去った。唐に帰順すると秦王府左三統軍に任ぜられ、宋金剛・竇建徳・王世充との戦いに従軍し、度々先陣を切って戦った。武徳七年、李建成の讒言を受けて康州刺史に左遷されたが、「大王の腕が断ち切られては、身の守りようがありません。知節は死のうがここを去りませんから、殿下も自衛してください」と李世民に告げ赴任を拒んだ。玄武門の変のに参与し、貞観初年に瀘戎栄三州諸軍事・瀘州刺史となり、行軍総管に任ぜられ鉄山獠の乱を平定した。657年に葱山道行軍大総管に任ぜられ、西突厥の阿史那賀魯を討伐した。怛篤城に至った際に胡人数千が帰順したが、知節は屠城して城から去り、賀魯はその隙をついて逃走した。長安に帰還すると連座して免職された、岐州刺史に復職されたがまもなく致仕した。

段志玄(段雄)4《唐故輔國大将軍右衛大将軍揚州都督褒忠壮公段公碑銘》に拠る。(だんしげん / だんゆう) / 字:志玄(598‐642)
諱は雄。字で通称される。斉州臨淄の人。父の段偃師は隋末に太原郡司法書佐を務め、李淵が挙兵すると郢州刺史となった。志玄は容貌が逞しく若いうちから無頼となって度々法を犯した。多くの遊侠が彼を恐れたが、そのために李世民から知られ甚だ厚く接待された。李淵が挙兵すると兵士千人余りを集め右領大都督府軍頭となった。霍邑、下絳郡、永豊倉平定において皆先鋒を務め、劉文静に従って潼関で屈突通を拒んだ。李世民に従軍し王世充、竇建徳征戦で功績をあげた。李建成と李元吉は競って金帛を与え志玄を李世民から離反させようとしたが、拒絶して李世民にそのことを伝えた。貞観十六年(642)に病のため亡くなった。

張公謹(ちょうこうきん) / 字:弘慎(594‐632)
魏州繁水の人。隋末に王世充に仕えたが、武徳二年(619)に唐に帰順した。はじめ名が知られていなかったが、李勣と尉遅敬徳が李世民に紹介したため、召されて秦王府に入った。李建成・李元吉と対立を深める李世民から自安の策を尋ねられ親遇を受けるようになった。李世民が挙兵を決断できず占卜師に占わせていた際、外から室に乱入し、占卜の亀を地に投げ捨て、「事は決まっているのに何故これを占う必要があるのですか?卜に不吉と出ても、中止にはできないでしょう」と一喝した。玄武門の変に参与し功績をあげた。東突厥対策のブレーンであり、東突厥征戦では李靖の下で副将を務め、功績によって鄒国公に進封された。貞観六年(632)に39歳で亡くなった。官吏が辰日の哭(辰日の慟哭を忌む風習)について李世民に進言したが、李世民は「君臣の間柄は父子と同じであり、情は心から湧いてくるものである。どうして辰の日を避けられようか」といって哀哭した。


【巻六十九 列伝第十九:侯君集、張亮、薛萬徹、兄萬均、盛彦師、盧祖尚、劉世譲、劉蘭、李君羨】

侯君集(こうくんしゅう)(600以降?5『新唐書』列伝第十九侯君集伝には〈少事秦王幕府〉とあり、十代のうちに秦王府に仕えていたとする。李世民が秦王に封じられたのは武徳元年(西暦618年)六月なので侯君集の生年は600年以降と推測される。維基百科では573年生まれとされている。‐643)
豳州三水県の人。若くして秦王府に入幕し李世民の征討に従った。恩恵を蒙り謀策に参与するようになり、玄武門の変でも挙兵を勧め功績を上げた。李世民が即位すると兵部尚書になり、朝廷の政治に参与した。貞観九年(635年)に李靖らと共に吐谷渾を征討した。高昌討伐から帰還したのち戦利品を私した件で弾劾され、岑文本の上疏によりことなきを得たが、ひそかに蟠りを抱えていた。他の功臣と共に凌煙閣に画像を掲げられたが李承乾の挙兵の謀議に参与した。李靖や李道宗、張亮は李世民に君集の叛意を密告したが、李世民は君集を擁護して取り合わなかった。承乾の事件が発覚すると李世民は群臣に君集の助命を懇願したが、群臣は罪を重く見て許さなかった。李世民は君集のために涙した。貞観十七年(643)に収容され、斬刑に処されたが、処刑前は自若としていた。

張亮(ちょうりょう)(?6維基百科によれば569年生まれ。‐646)
鄭州滎陽の人。寒賤の家に生まれ、農業を生業とした。才気に優れ大志を抱き、振る舞いは惇厚であったが、内心では詭詐を得意とした。はじめ李密に仕えたが、李密が王世充に破れると唐に亡命した。房玄齢と李勣から才覚と智謀を以て李世民に推薦され、秦王府の車騎将軍となった。李世民からの顧遇は甚だ厚かった。ときに李建成と李元吉が乱を起こそうと謀ると、張亮は李世民の命を受けて洛陽へ向かい、山東の豪傑と結んで変に備えた。李世民が即位すると、工部尚書、太子詹事などを歴任した。侯君集から謀反の共謀を誘われたが李世民に報告し、その褒賞として刑部尚書に任じられ、朝政に参与した。張亮はもとの妻を捨てて新たに李氏を娶ったが、彼女は淫行で傲妬であり、左道を好み巫覡と交友した。彼女はしばしば政事にも干渉したため、張亮の名声は次第に損なわれた。また法術師の程公穎を信頼し、怪しげな術や讖言を喜んだ。陰謀が暴かれ、張亮が五百人の養子を養っていることが報告されると、百官の議論により死罪となり、長安で斬刑に処された。しかし李世民はのちに張亮の才能を惜しみ、処刑を後悔した。

薛萬均(せつばんきん) / 字:?(587以降7《薛萬述墓志》によれば、兄の薛萬述が587年に生まれている。‐641)

薛萬徹(せつばんてつ) / 字:?(587以降8《薛萬述墓志》によれば、兄の薛萬述が587年に生まれている。‐653)

劉世譲(りゅうせいじょう) / 字:元欽(?‐?)


【巻七十 列伝第二十:王珪、戴冑、岑文本、杜正倫】

王珪(おうけい) / 字:叔玠(570‐639)

戴胄(たいちゅう) / 字:玄胤(573‐633)

岑文本(しんぶんぽん) / 字:叔玠(595‐645)

杜正倫(とせいりん) / 字:?(?‐?)


【巻七十一 列伝第二十一:魏徴】

魏徴(ぎちょう) / 字:玄成(580‐643)
鉅鹿曲城の人。はじめ李密に仕えたが敗戦して唐に降り太子洗馬となった。王珪とともに早くから李建成に李世民を排するよう進言したが聞き入れられなかった。李世民が玄武門の変の後に魏徴を召し出し「何故汝は私たち兄弟の仲を離間したのか」と詰問すると、自若とした態度で「太子が私の言葉を早急に用いていれば、今日の禍は起こりませんでした」と返した。李世民は元々魏徴の才能を知っていたため態度を改めて礼を取り、魏徴に諫議大夫、秘書監、門下侍中など重職を歴任させた。抗直で経国の才を持ち、李世民を知己として知りて言わざることはなかった。李世民曰く前後三百余事の諫言があり(『貞観政要』定本)、みな理に適っていたという。


  • 1
    維基百科によれば594年生まれ。
  • 2
    『旧唐書』房玄齢伝は〈房喬、字玄齡〉と玄齢を字、喬を諱とする。『新唐書』房玄齢伝は〈房玄齡、字喬〉と諱を玄齡、字を喬とする。《房玄齢碑》は『新唐書』と同様玄齢を諱、喬を字とする。
  • 3
    維基百科によれば571年生まれ。
  • 4
    《唐故輔國大将軍右衛大将軍揚州都督褒忠壮公段公碑銘》に拠る。
  • 5
    『新唐書』列伝第十九侯君集伝には〈少事秦王幕府〉とあり、十代のうちに秦王府に仕えていたとする。李世民が秦王に封じられたのは武徳元年(西暦618年)六月なので侯君集の生年は600年以降と推測される。維基百科では573年生まれとされている。
  • 6
    維基百科によれば569年生まれ。
  • 7
    《薛萬述墓志》によれば、兄の薛萬述が587年に生まれている。
  • 8
    《薛萬述墓志》によれば、兄の薛萬述が587年に生まれている。