斉王元吉派‐『新唐書』袁朗伝の整理

『新唐書』列伝第百二十六 文藝上 袁朗伝にある李建成・世民・元吉の党について
斉王李元吉の党とされる5名の正史の列伝の抄訳
『新唐書』袁朗伝の整理 / 太子建成派 / 秦王世民派 / 斉王李元吉派
参考:『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』『貞観政要』


『新唐書』列伝第百二十六 文藝上 袁朗伝

武徳初、太子李建成、秦王李世民、斉王李元吉は相傾き、争って名臣を招致して自助とした。
斉王李元吉には記室参軍事榮九思、戶曹武士逸、典簽裴宣儼があり、袁朗を文学とした。朗の従父弟の袁承序にもまた名声があり、斉王は召して文学館学士とした。


記室参軍事 榮九思(?‐?)

新旧唐書に列伝なし。『新唐書』列伝第四巢王元吉伝に「記室參軍榮九思」の名前が見える。

時秦王有功、而太子不為中外所屬、元吉喜亂、欲並圖之。(…)元吉乃多匿亡命壯士、厚賜之、使為用。元吉記室參軍榮九思為詩刺之曰「丹青飾成慶、玉帛禮專諸。」元吉見之、弗悟也。其典簽裴宣儼免官、往事秦府、元吉疑事泄、鴆殺之。(『新唐書』列伝第四 巢王元吉伝)


戸曹 武士逸 / 字:逖(?‐?)

武士逸、字は逖。並州文水の人である。武士鸊(則天武后の父)の兄にあたる。武家は財産が多く裕福な家であった。軍事面で功績があり、斉王府戸曹参軍となって、六安縣公に封ぜられた。元吉の並州平定に従軍した際、劉武周に捕らえられたが、賊中にあって秘かに人を京師に遣わせて密計を立てた。劉武周が平定されると、李淵から慰労され益州行臺左丞を授かった。度々国政の得失について意見を述べ、李淵はその度に喜んだ。貞観年間に韶州刺史となり卒した。

参考:『旧唐書』列伝第八 武士逸伝 、『新唐書』列伝百三十一 外戚 武士逸伝


典簽 裴宣儼(?‐?)

新旧唐書に列伝なし。上記した『新唐書』列伝第四 巢王元吉伝に「典籤裴宣儼」の名前が見える。

 時秦王有功、而太子不為中外所屬、元吉喜亂、欲並圖之。(…)元吉乃多匿亡命壯士、厚賜之、使為用。元吉記室參軍榮九思為詩刺之曰「丹青飾成慶、玉帛禮專諸。」元吉見之、弗悟也。其典簽裴宣儼免官、往事秦府、元吉疑事泄、鴆殺之。(『新唐書』列伝第四 巢王元吉伝)


文学 袁朗(?‐?)

袁朗、雍州長安の人である。父は陳で尚書左僕射を務めた袁樞。勤学で文を好んだ。陳で秘書郎となると、江総に才能を認められた。千字詩を作り人々から賞賛された。後主はその才能を聞き袁朗を禁中に召し入れて《月賦》《芝草》《嘉蓮》を作らせ、それらはいずれも賞賛された。太子洗馬・徳教殿学士に累遷した。陳が滅亡すると、隋に仕えて尚書儀曹郎となった。武徳初に斉王府の文学を授けられ、祠部郎中となり、汝南縣に封ぜられ、給事中となった。貞観初に在官のまま死去した。世民は彼を悼んで一日廢朝し、高士廉に対して「朗は私に仕えて日も浅かったが、謹厚な人となりであった。人をして悼惜しよう。」と語った。詔して喪費を給し、その家を見舞った。朗には文集14巻と、詩4首があった。

参考:『旧唐書』列伝百四十 文苑上 袁朗伝、『新唐書』列伝第百二十六 文藝上 袁朗伝、『全唐詩』小伝


文学館学士 袁承序(?‐?)

父は陳で尚書僕射を務めた袁憲。武徳年間に建昌令を務めた。承序は任にあって清廉であり、士吏たちは彼を慕った。貞観十三年(639)、世民が中書侍郎の岑文本に「梁、陳で名臣と呼べる者はいるか?また子弟が招引するにふさわしい者はいるか?」と尋ねた。文本は「隋朝の師が陳を平定した際、百官が逃げ出す中ただ尚書僕射の袁憲のみが一人君主の傍におりました。王世充が隋から受禅しようとするや、群僚は上表して禅譲を勧めましたが、憲の子の国子司業の承家は病と称して一人署名することはありませんでした。この父子は忠烈と称するに足るでしょう。また承家の弟に承序がおり、今建昌の県令を務めております。清貞雅操はまことに先風を継いでおりましょう。」と言った。これによって承序は晋王(李治)の友として召し出され、兼ねて侍読となった。後に弘文館学士に抜擢された。

参考:『旧唐書』列伝百四十 文苑上 袁朗伝、『新唐書』列伝第百二十六 文藝上、『太平御覽』人事部六十七 清廉下、『貞観政要』巻第五 論忠義第十四

(計5名)