人物紹介(中央アジア)

隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5
隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア


【高昌】(こうしょう)(敦煌)

南北朝〜唐代にかけてトルファンに存在したオアシス都市国家。
西暦500年代から640年にかけて、王族の麹氏が世襲して王となった。

麹伯雅(きくはくが)(?‐623 在位:54‐613、620‐623)
高昌王麴乾固の子。北魏の高昌王麴嘉の六世孫。大業五年(609)に隋に来朝した。隋の高句麗遠征に従軍すると、隋は宇文氏を華容公主とし、麹伯雅へ嫁がせ和蕃公主とした。武徳二年(620)に亡くなると、子の麹文泰が跡を継いだ。
伯雅の卒年を『旧唐書』高昌伝は武徳二年(619)とする。『新唐書』高昌伝は武徳初とする。『資治通鑑』唐紀巻第百九十は武徳六年(623)とする。『旧唐書』高祖本紀では武徳三年(620)に伯雅からの遣使朝貢があったとする。

麹文泰(きくぶんたい)(?‐640 在位:623‐640)
高昌王麹伯雅の子。唐が東突厥を平定すると唐に入朝し朝貢したが、一方で西突厥に服属しており、唐の中央アジア進出に反発して対抗的な姿勢を見せた。唐と西域の通商を妨害し、また突厥から流入した漢人の引き渡しを拒否した罪を世民に責められ入朝を促されたが、病気と称して聞き入れなかった。貞観十三年(639)に唐の討伐軍が侵攻した報せを聞くと狼狽し、にわかに病死した。子の麹智盛が後を継いだが、貞観十四年(639)に唐に降伏し、高昌国は滅亡した。

華容公主(かようこうしゅ) / 宇文玉波(?‐?)
隋の宗室の娘。和蕃公主として華容公主に封ぜられて麹伯雅に嫁ぎ、伯雅が死去するとレビラト婚によって息子の文泰に嫁いだ。李世民が即位すると、高昌は黒狐の皮衣を献上したので、世民は返礼に華容公主に花鈿(かんざし)一具を下賜した。これに対し華容公主はまた玉盤を献上した。貞観四年(630)に麹文泰が来朝すると、世民は礼賜を甚だ篤く与えた。華容公主は唐室の皇族になりたいと申し出、詔を受けて李姓を賜わり、常楽公主に封ぜられた。
               
麹智盛(きくちせい)(?‐? 在位:640)
貞観十四年(640)に父の麴文泰の死去に伴って即位した。

麴智湛(きくちたん)(?‐?)
麹智盛の弟。高昌が唐に平定されると左武衛将軍となり、金城郡公に封ぜられた。


【吐谷渾】(とよくこん)

4〜7世紀に青海に存在した遊牧国家。永嘉の乱の混乱の際に鮮卑慕容部の慕容吐谷渾が青海に移り住み、その子孫が吐谷渾の名を国名とした。隋の遠征によって王が亡命し、傀儡政権が立てられ一時隋の領土となったが、隋末の混乱期に領地を奪回した。貞観九年(635)の唐の遠征や吐蕃の侵攻を受けて分裂し、東部は唐の属国として統治された。

伏允可汗(ふくいん・カガン) / 慕容伏允(ぼうようふくいん)(?1維基百科によれば571年生まれ。‐635 在位:603‐635)
吐谷渾第二十代王。隋開皇十七年(597)に王であった世伏が国人に殺されると王に立てられた。仁寿四年(604)に裴矩の策により鉄勒の攻撃を受け、壊滅状態に追い込まれ党項(タングート)へ亡命した。隋末の混乱期に領地を奪回すると度々唐の辺境に入寇し掠奪を行うようになった。貞観代に使者を送って入貢したが、李世民からの入朝の命に病気と称して従わず、両国の緊張は高まっていった。貞観八年(634)に李靖、侯君集、李道宗らの遠征を受けて大敗を喫し、磧中へ逃げ込んだが左右の人間に殺された。

趉故呂烏甘豆可汗 / 慕容順(ぼうようじゅん)(?2維基百科によれば604年生まれ。‐635 在位:635)
伏允可汗の嫡子。唐の遠征を受けて国を挙げて降伏し、唐から西平郡王、趉故呂烏甘豆可汗に封じられ吐谷渾の故地を治めた。中国で長く人質となっていたため国人に心服されず、臣下に殺害された。

慕容諾曷鉢(ぼうようだくはつかつ) / 漢名:志烈3『新出唐吐谷渾王族慕容环墓志研究』に拠る。(624‐6884『新出唐吐谷渾王族慕容环墓志研究』に拠る。
慕容順の子。順が亡くなると唐から燕王に封じられ立った。諾曷鉢が幼かったため、大臣達は権力を争い国中が大いに乱れた。兵部尚書侯君集らが軍を率いて支援し、詔を奉じないものは討伐された。諾曷鉢は翌年に中国の暦と年号の使用と子弟の入侍を請願した。また河源郡王に封ぜられ、烏地也抜勤豆可汗となった。貞観十三年(639)に来朝し、宗族の娘である弘化公主を娶った。


【吐蕃】(とばん)(チベット王朝)

7〜9世紀にチベットに存在した統一王国。
ソンツェン・ガンポによる統一後、唐の文成公主の降嫁や仏教の伝来を受け、政治制度や文化が急速に発達した。

ソンツェン・ガンポ(569‐6505矢崎正見「ソンツェンガムポ王の年代推定に關する一考察」に拠る。 在位:629‐650)
吐蕃王朝の統一者。貞観十年(636)に唐に降嫁を求め、李世民が拒絶すると20万の兵を率いて吐谷渾へ出兵し松州まで迫った。使者を派遣し再び降嫁を要請したが、世民の派遣した侯君集・執失思力らの軍に敗れた。長安へ謝罪の使者を派遣した際、ふたたび降嫁を請願し(何度目?)、唐の宗室の娘である文成公主がソンツェンの息子グンソン・グンツェンに降嫁した。唐はこれにより吐蕃と和親し、国土西方面の国防を盤石なものとした。

文成公主(ぶんせいこうしゅ)(?6維基百科によれば623年生まれ。‐680)
唐の宗室の娘。貞観十四年(640)に和蕃公主としてソ王の息子グンソン・グンツェンに降嫁した。グンソンが643年に死去すると、三年の服喪を経てソンツェン・ガンポと再婚(レヴィレート婚)した。

グンソン・グンツェン(?‐6437維基百科は630年代、632または633年生まれ、650年没とする。英wikiは605年生まれ、649または655年没とする。

ソンツェン・ガンポの息子。638年に吐蕃王に即位する。妃として文成公主を迎え入れたが、翌643年に落馬事故により急死する。

マンソン・マンツェン(?‐?8維基百科は637または650年生まれ、676年没とする。

グンソン・グンツェンの子。650年に祖父であるソ王が崩御すると若年で即位した。以降吐蕃ではガル・トンツェンユルスンやガル・ティンリンツェンジュらガル一族による専制政治が行われるようになる。

ガル・トンツェンユルスン(?‐667)
吐蕃の辣腕宰相。ソ王の死後に専制政治を行う。吐谷渾にコネを持つ親吐谷渾派であり、実権を握ると唐と吐谷渾の故地を巡って争った。


【党項羌】(タングート)


【焉耆】(えんぎ)


【康國】(こうこく)(サマルカンド)


  • 1
    維基百科によれば571年生まれ。
  • 2
    維基百科によれば604年生まれ。
  • 3
    『新出唐吐谷渾王族慕容环墓志研究』に拠る。
  • 4
    『新出唐吐谷渾王族慕容环墓志研究』に拠る。
  • 5
    矢崎正見「ソンツェンガムポ王の年代推定に關する一考察」に拠る。
  • 6
    維基百科によれば623年生まれ。
  • 7
    維基百科は630年代、632または633年生まれ、650年没とする。英wikiは605年生まれ、649または655年没とする。
  • 8
    維基百科は637または650年生まれ、676年没とする。