人物紹介(隋末唐初の群雄) 隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄 唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア 隋末唐初の群雄 隋煬帝〜唐太宗代初期に登場する軍閥の指導者たち。順番は『隋書』『舊唐書』の列伝参考。 【楊玄感陣営】 楊玄感(ようげんかん)(?1維基百科によれば571年生まれ。-613) 楊玄挺(ようげんてい)(?‐613) 楊積善(ようせきぜん)(?‐613) 趙元淑(ちょうげんしゅく)(?‐613) 韓相国(かんそうこく)(?‐613) 韋福嗣(いふくし)(?‐614) 李子雄(りしゆう)(?‐614) 【劉元進陣営】 劉元進(りゅうげんしん)(?‐613) 朱燮(しゅしょう)(?‐613) 管崇(かんすう)(?‐613) 【許】 宇文化及(うぶんかきゅう)(?2維基百科によれば569年生まれ。‐619) 宇文智及(うぶんちきゅう)(?3維基百科によれば572年生まれ。‐619) 王薄(おうぼ)(?‐622) 司馬徳戡(しばとくかん)(?‐618) 趙行枢(ちょうこうすう)(?‐618) 裴虔通(はいけんつう)(?‐?) 【翟譲陣営 / 魏】 翟譲(てきじょう)(?‐617) 李密(りみつ) / 字:玄遂(582‐619) 単雄信(ぜんゆうしん)(?‐621) 王伯当(おうはくとう)(?‐619) 王仲伯(おうちゅうはく)(?‐?) 郝孝徳(かくこうとく)(?‐?) 【鄭】 王世充(おうせいじゅう) / 字:行満(?4維基百科によれば591年生まれ。‐621) 祖先は西域の胡人とされる。大業十四年(618年)に宇文化及が楊廣を殺害すると越王楊侗を皇帝に擁立した。同年に李密と化及の軍を破ると翌大業十五年(619年)に恭帝を廃して即位、国号を鄭とし元号を開明とした。武徳三年(620年)に李世民が進軍すると竇建徳に救援を要請したが、世民が虎牢にて建徳を破ると部下を率いて世民に降伏した。死を免じて一族と共に巴蜀へ流刑となり、雍州で独孤修徳(世充が殺害した独孤機の子)によって殺された。 段達(だんたつ) (?‐621) 裴仁基(はいじんき) (?‐619) 裴行儼(はいこうげん) (?‐619) 【夏】 高士達(こうしたつ)(?‐616) 竇建徳(とうけんとく)(573‐621) 貝州璋南の人。楽寿で長楽王を称した。武徳元年(618年)、国号を夏とし元号を五鳳とした。翌年宇文化及を滅ぼし、山東・河北一帯を支配下においた。王世充が李世民と洛陽で対立すると世充の要請を受けて救援に駆けつけたが、世民と虎牢で決戦して大敗し、捕らえられて処刑された。 劉黒闥(りゅうこくたつ)(?‐623) 貝州璋南の人。若くして竇建徳とよしみを結んだ。建徳が敗亡すると郷里に逃亡したが、武徳四年(621年)に建徳の残党が黒闥を推戴し挙兵。突厥と結んで建徳の故地をことごとく恢復し、群雄の中でも一番の盛強を誇ったとする。武徳五年(622年)相州で漢東王を称し洺州を首都としたが、まもなく李世民の軍に大敗を喫した。一度突厥に逃れたのち、突厥の兵馬を率いて河北・山東を攻略し再び洺州に戻ったが、李建成・李元吉の軍に敗走し、部下に捕らえられ翌年に洺州で処刑された。 徐円朗(じょえんろう)(?‐623) 孟海公(もうかいこう)(?‐621) 【西秦】 薛挙(せつきょ)(?‐618) 蘭州金城の人。隋大業十七年(西暦617年)に子の薛仁杲とともに挙兵。西秦覇王を自称した。 薛仁杲(せつじんこう)(?‐619) 薛挙の子。薛挙が亡くなると跡を継いだ。折墌城で李世民に大敗を喫して降伏し、長安で処刑された。 【涼】 李軌(りき) / 字:処則(?‐619) 【定楊】 劉武周(りゅうぶしゅう)(?‐621) 瀛州景城の人。大業十三年(617年)に馬邑太守の王仁恭を殺して挙兵。突厥に帰順し定楊可汗に封じられ、皇帝を自称し元号を天興とした。唐武徳二年(619年)、突厥と通じて太原を占拠し河東を席巻したが、翌年に麾下の宋金剛・尉遅敬徳らの軍が李世民に大敗して壊滅した。武周は大いに恐れて突厥に逃れたが、馬邑に逃げ帰ろうとし突厥に殺された。 宋金剛(そうこんごう)(?‐620) 苑君璋(えんくんしょう)(?‐貞観中) 劉季真(りゅうきしん)(?‐620) 【燕】 高開道(こうかいどう)(?‐624) 【梁】 蕭銑(しょうせん)(583‐621) 甯長真(ねいちょうしん)(?‐626) 丘和(きゅうわ)(552‐637) 【楚】 杜伏威(とふくい)(?‐624) 【宋】 輔公祏(ほこうせき)(?‐624) 闞棱(かんりょう)(?‐625) 王雄誕(おうゆうたん)(?‐623) 【梁王】 沈法興(しんほうこう)(?‐621) 【呉】 李子通(りしつう)(?‐622) 左才相(ささいそう)(?‐?) 【楚】 朱粲(しゅさん)(?‐621) 【操師乞陣営】 操師乞(そうしこつ)(?‐618) 林士弘(りんしこう)(?‐622) 【楚】 林士弘(りんしこう)(?‐622) 張善安(ちょうぜんあん)(?‐624) 高法澄(こうほうとう)(?‐?) 洗宝徹(せんほうてつ)(?‐?) 【羅芸陣営】 羅芸(らげい)(?‐627) 妻 孟氏(?‐627) 曹州女子 李氏(?‐627) 【梁】 梁師都(りょうしと)(?5維基百科によれば570年生まれ。‐628) 【永楽】 郭子和 / 李子和(かくしわ / りしわ)(?‐664) 【歴山飛】 魏刀児(ぎとうじ)(?‐618) 王須抜(おうすばつ)(?‐616) 甄翟児(しんてきじ)(?‐?) 【周法明陣営】 周法明(しゅうほうめい)(561‐622) 【大乗】 高曇晟(こんどうせい)(?‐618) 【嶺南地域】 馮盎(ふうおう)(?‐646) 【その他】 宋子賢(そうしけん)(?‐613) 向海明(こうかいめい)(?‐613) 劉迦論(りゅうかろん)(?‐614) 張金称(ちょうきんしょう)(?‐616) 盧明月(ろめいげつ)(?‐617) 王君廓(おうくんかく)(?‐?) 1維基百科によれば571年生まれ。2維基百科によれば569年生まれ。3維基百科によれば572年生まれ。4維基百科によれば591年生まれ。5維基百科によれば570年生まれ。
人物紹介(隋末唐初の群雄)
隋:隋朝の皇帝・皇后 / 『隋書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5 / 隋末唐初の群雄
唐:唐朝の皇帝・皇后 / 凌煙閣二十四功臣 / 秦王府十八学士 / 『旧唐書』列伝 / 2 / 3 / 4 / 5
隋唐の周辺諸国:東突厥第一可汗国・西突厥 / 北アジア / 中央アジア / 東アジア・東南アジア
隋末唐初の群雄
隋煬帝〜唐太宗代初期に登場する軍閥の指導者たち。順番は『隋書』『舊唐書』の列伝参考。
【楊玄感陣営】
楊玄感(ようげんかん)(?1維基百科によれば571年生まれ。-613)
楊玄挺(ようげんてい)(?‐613)
楊積善(ようせきぜん)(?‐613)
趙元淑(ちょうげんしゅく)(?‐613)
韓相国(かんそうこく)(?‐613)
韋福嗣(いふくし)(?‐614)
李子雄(りしゆう)(?‐614)
【劉元進陣営】
劉元進(りゅうげんしん)(?‐613)
朱燮(しゅしょう)(?‐613)
管崇(かんすう)(?‐613)
【許】
宇文化及(うぶんかきゅう)(?2維基百科によれば569年生まれ。‐619)
宇文智及(うぶんちきゅう)(?3維基百科によれば572年生まれ。‐619)
王薄(おうぼ)(?‐622)
司馬徳戡(しばとくかん)(?‐618)
趙行枢(ちょうこうすう)(?‐618)
裴虔通(はいけんつう)(?‐?)
【翟譲陣営 / 魏】
翟譲(てきじょう)(?‐617)
李密(りみつ) / 字:玄遂(582‐619)
単雄信(ぜんゆうしん)(?‐621)
王伯当(おうはくとう)(?‐619)
王仲伯(おうちゅうはく)(?‐?)
郝孝徳(かくこうとく)(?‐?)
【鄭】
王世充(おうせいじゅう) / 字:行満(?4維基百科によれば591年生まれ。‐621)
祖先は西域の胡人とされる。大業十四年(618年)に宇文化及が楊廣を殺害すると越王楊侗を皇帝に擁立した。同年に李密と化及の軍を破ると翌大業十五年(619年)に恭帝を廃して即位、国号を鄭とし元号を開明とした。武徳三年(620年)に李世民が進軍すると竇建徳に救援を要請したが、世民が虎牢にて建徳を破ると部下を率いて世民に降伏した。死を免じて一族と共に巴蜀へ流刑となり、雍州で独孤修徳(世充が殺害した独孤機の子)によって殺された。
段達(だんたつ) (?‐621)
裴仁基(はいじんき) (?‐619)
裴行儼(はいこうげん) (?‐619)
【夏】
高士達(こうしたつ)(?‐616)
竇建徳(とうけんとく)(573‐621)
貝州璋南の人。楽寿で長楽王を称した。武徳元年(618年)、国号を夏とし元号を五鳳とした。翌年宇文化及を滅ぼし、山東・河北一帯を支配下においた。王世充が李世民と洛陽で対立すると世充の要請を受けて救援に駆けつけたが、世民と虎牢で決戦して大敗し、捕らえられて処刑された。
劉黒闥(りゅうこくたつ)(?‐623)
貝州璋南の人。若くして竇建徳とよしみを結んだ。建徳が敗亡すると郷里に逃亡したが、武徳四年(621年)に建徳の残党が黒闥を推戴し挙兵。突厥と結んで建徳の故地をことごとく恢復し、群雄の中でも一番の盛強を誇ったとする。武徳五年(622年)相州で漢東王を称し洺州を首都としたが、まもなく李世民の軍に大敗を喫した。一度突厥に逃れたのち、突厥の兵馬を率いて河北・山東を攻略し再び洺州に戻ったが、李建成・李元吉の軍に敗走し、部下に捕らえられ翌年に洺州で処刑された。
徐円朗(じょえんろう)(?‐623)
孟海公(もうかいこう)(?‐621)
【西秦】
薛挙(せつきょ)(?‐618)
蘭州金城の人。隋大業十七年(西暦617年)に子の薛仁杲とともに挙兵。西秦覇王を自称した。
薛仁杲(せつじんこう)(?‐619)
薛挙の子。薛挙が亡くなると跡を継いだ。折墌城で李世民に大敗を喫して降伏し、長安で処刑された。
【涼】
李軌(りき) / 字:処則(?‐619)
【定楊】
劉武周(りゅうぶしゅう)(?‐621)
瀛州景城の人。大業十三年(617年)に馬邑太守の王仁恭を殺して挙兵。突厥に帰順し定楊可汗に封じられ、皇帝を自称し元号を天興とした。唐武徳二年(619年)、突厥と通じて太原を占拠し河東を席巻したが、翌年に麾下の宋金剛・尉遅敬徳らの軍が李世民に大敗して壊滅した。武周は大いに恐れて突厥に逃れたが、馬邑に逃げ帰ろうとし突厥に殺された。
宋金剛(そうこんごう)(?‐620)
苑君璋(えんくんしょう)(?‐貞観中)
劉季真(りゅうきしん)(?‐620)
【燕】
高開道(こうかいどう)(?‐624)
【梁】
蕭銑(しょうせん)(583‐621)
甯長真(ねいちょうしん)(?‐626)
丘和(きゅうわ)(552‐637)
【楚】
杜伏威(とふくい)(?‐624)
【宋】
輔公祏(ほこうせき)(?‐624)
闞棱(かんりょう)(?‐625)
王雄誕(おうゆうたん)(?‐623)
【梁王】
沈法興(しんほうこう)(?‐621)
【呉】
李子通(りしつう)(?‐622)
左才相(ささいそう)(?‐?)
【楚】
朱粲(しゅさん)(?‐621)
【操師乞陣営】
操師乞(そうしこつ)(?‐618)
林士弘(りんしこう)(?‐622)
【楚】
林士弘(りんしこう)(?‐622)
張善安(ちょうぜんあん)(?‐624)
高法澄(こうほうとう)(?‐?)
洗宝徹(せんほうてつ)(?‐?)
【羅芸陣営】
羅芸(らげい)(?‐627)
妻 孟氏(?‐627)
曹州女子 李氏(?‐627)
【梁】
梁師都(りょうしと)(?5維基百科によれば570年生まれ。‐628)
【永楽】
郭子和 / 李子和(かくしわ / りしわ)(?‐664)
【歴山飛】
魏刀児(ぎとうじ)(?‐618)
王須抜(おうすばつ)(?‐616)
甄翟児(しんてきじ)(?‐?)
【周法明陣営】
周法明(しゅうほうめい)(561‐622)
【大乗】
高曇晟(こんどうせい)(?‐618)
【嶺南地域】
馮盎(ふうおう)(?‐646)
【その他】
宋子賢(そうしけん)(?‐613)
向海明(こうかいめい)(?‐613)
劉迦論(りゅうかろん)(?‐614)
張金称(ちょうきんしょう)(?‐616)
盧明月(ろめいげつ)(?‐617)
王君廓(おうくんかく)(?‐?)