May 13,2016 《襃勳臣詔》を読む

武徳元年(西暦618年)八月、李淵が隋から禅譲を受け唐を建国した約三ヶ月後に出した《襃勳臣詔》という詔があります
李淵が太原の功臣の功績を褒賞し、彼らが大罪を犯しても刑罰を免除するものです

(武徳元年)八月壬申、劉文靜除名。戊寅、約功臣恕死罪。
(『新唐書』本紀第一 高祖)

朕起義晉陽、遂登皇極、經綸天下、實仗群材。
尚書令秦王世民、尚書右仆射裴寂等、或合契元謀、或同心運始、並蹈義輕生、捐家殉節、艱辛備履、金石不移。
論此忠勤、特宜優異。官爵之榮、抑惟舊典、勛賢之議、宜有別恩。
其罪非叛逆、可聽恕一死。其太原元謀勛效者、宜以名聞。
(『全唐文』 巻第一 高祖 《襃勳臣詔》)

文靜初為納言時、有詔以太原元謀立功、尚書令秦王某、尚書左僕射裴寂文靜、特恕二死。左驍衛大將軍長孫順德、右驍衛大將軍劉弘基、右屯衛大將軍竇琮、左翊衛大將軍柴紹、內史侍郎唐儉、吏部侍郎殷開山、鴻臚卿劉世龍、衛尉少卿劉政會、都水監趙文恪、庫部郎中武士彠、驃騎將軍張平高李思行李高遷,左屯衛府長史許世緒等十四人,約免一死。
(『旧唐書』 列伝第七 劉文静伝)

始,高祖論太原首功詔尚書令秦王、尚書左仆射裴寂、納言劉文靜恕二死、左驍衛大將軍長孫順德、右驍衛大將軍劉弘基、右屯衛大將軍竇琮、左翊衛大將軍柴紹、內史侍郎唐儉、吏部侍郎殷開山、鴻臚卿劉世龍、衛尉少卿劉政會、都水監趙文恪、庫部郎中武士彠、驃騎將軍張平高李思行李高遷、左屯衛府長史許世緒等十四人恕一死。
(『新唐書』 列伝第十三 劉文静伝)

(要約)劉文静が納言を務めていたとき(武徳元年)、李淵は太原での功績について詔した。
太原の功臣を褒賞し、その罪が叛逆にあらずば特別に刑罰を免除するものである。
李世民、裴寂、劉文静は二死が許された。
長孫順徳、劉弘基、竇琮、柴紹、唐倹、殷開山、劉世龍、劉政會、趙文恪、武士彠(かく)、張平高、李思行、李高遷、許世緒等十四人が一死免除を賜った。

李世民はこの詔の中で太原で企謀に参画した功臣の筆頭とされ、裴寂、劉文静と共に二死を免除されています
(「其罪非叛逆、可聽恕一死」なので、謀叛の疑いをかけられた劉文静は翌年の武徳二年(619)に処刑されていますが)
次いで十四名が一死を免除。真っ先に名前の挙がる長孫順徳と劉弘基は挙兵の企謀に参与しただけでなく、宋老生戦など軍事面での活躍が大きかったのでこの序列なのかもしれません

この李淵が出した《襃勳臣詔》の功臣の序列は、上位五名以降新旧唐書と『唐會要』で食い違いが見られます

武德元年八月六日。詔曰。朕起義晉陽。遂登皇極。經綸天下。實仗群材。尚書令秦王。右僕射裴寂。或合契元謀。或同心運始。並蹈義輕生。捐家殉節。艱辛備履。金石不移。論此忠勤。理宜優異。官爵之榮。抑惟舊典。勳賢之議。宜有別恩。其罪非叛逆。可聽恕一死。其太原元謀勳效者。宜以名聞。及所司進簿。
尚書右僕射裴寂。納言劉文靜。加恕二死。左驍衛大將軍長孫順德。右驍衛大將軍劉宏基。都水監趙文恪。右屯衛大將軍竇琮。衛尉少卿劉政會。鴻臚卿劉世龍。吏部侍郎殷開山。左翊衛大將軍柴紹。內史侍郎唐儉。庫部郎中武士彠。驃騎將軍張平高。左驍衛長史許世緒。李思行。李高遷等。並恕一死。
(『唐會要』 巻第四十五 功臣)

この序列は太原での企謀、挙兵から長安入りまでの功績が反映されていると考えられるので、
1李世民、2裴寂、3劉文静、4長孫順徳、5劉弘基の序列は順等に思えますが、6席以降については史料の記述が少ない人物も多く、判断基準は判然としません
竇軌の弟である竇琮の序列が高めだったり(外戚という立場も序列に反映されているのかもしれませんが)、李世民の河東平定でも活躍した殷開山の序列が意外に低かったり
あと段志玄がいない!

そして新旧唐書と『唐會要』の序列の違いから何となく見えてくるものもあります

席次新旧『唐書』劉文静伝『唐會要』 巻第四十五 功臣
1尚書令・秦王李世民尚書令秦王李世民
2尚書左僕射裴寂尚書右僕射裴寂『新唐書』高祖本紀によれば尚書右僕射が正しい
3納言劉文静納言劉文静
4左驍衛大將軍長孫順徳左驍衛大將軍長孫順徳
5右驍衛大将軍劉弘基右驍衛大将軍劉弘基
6右屯衛大将軍竇琮都水監趙文恪
7左翊衛大将軍柴紹右屯衛大将軍竇琮
8内史侍郎唐倹衛尉少卿劉政会
9吏部侍郎殷開山鴻臚卿劉世龍
10鴻臚卿劉世龍吏部侍郎殷開山
11衛尉少卿劉政会左翊衛大将軍柴紹
12都水監趙文恪内史侍郎唐倹
13庫部郎中武士彠(かく)庫部郎中武士彠(かく)
14驃騎将軍張平高驃騎将軍張平高
15驃騎将軍李思行左驍衛長史許世緒
16驃騎将軍李高遷左驍衛長史李思行
17左屯衛府長史許世緒左驍衛長史李高遷

新旧唐書の方は柴紹、唐倹、殷開山、劉政会と、凌煙閣二十四功臣に封ぜられている功臣の順列が少しだけ高いです
つまり武徳代に李世民を支持した人士(李世民集団)の評価が『唐會要』に比べて高くなっています
どちらの序列が正しいかは分かりませんが、李世民から劉弘基の序列に変化はないのでこのあたりの功績は硬そうです
どっちにしろ竇琮の功績は大きいので、李世民は体を張って竇琮を口説き落とした甲斐があったと思う

軌弟琮、亦有武干、隋左親衛。大業末,犯法、亡命奔太原、依於高祖。琮與太宗有宿憾、每自疑。
太宗方蒐羅英傑、降禮納之、出入臥內、其意乃解。及將義舉、琮協贊大謀。
(『旧唐書』 列伝第十一 竇琮伝)

軌弟琮、有武幹。大業末、犯法亡命太原、依高祖。與秦王有憾、不自安。
王方收天下豪英、降禮接之、與出入臥內、琮意乃釋
(『新唐書』 列伝第二十 竇琮伝)

枕だな…(察し)


(追記)
twitterのフォロワーさんに劉世龍の席次が高いとご指摘いただいてなるほどと思ったので、劉世龍の伝の一部を載せておきます

劉世龍者、並州晉陽人。大業末、為晉陽郷長。
高祖鎮太原、裴寂數薦之、由是甚見接待、亦出入王威、高君雅家、然獨歸心於高祖。
義兵將起、威與君雅內懷疑惑、世龍輒探得其情、以白高祖。及誅威等、授銀青光祿大夫。
從平京城、累轉鴻臚卿、仍改名義節。
(『旧唐書』 列伝第七 劉世龍伝)

(訳)劉世龍、並州晋陽の人である。大業末に晋陽の郷長となった。
李淵が太原留守となると裴寂は度々彼を推薦し、これゆえに厚くもてなされた。
太原副留守の王威と高君雅の家を出入りしていたが、ただ一人李淵に心を寄せていた。
李淵が兵を起こすと王威と高君雅は内心で猜疑した。
世龍はそれを知ると李淵に報告し、二人が誅殺されると銀青光祿大夫を授かった。
累遷して鴻臚卿となり、名を「義節」と改めた。

世龍は裴寂の推薦で李淵と仲良くなったんですね
もちろん挙兵時に活躍してることもあるけど(王威と高君雅を売ってるし)、李淵-裴寂ラインの一人だったのも席次に関係していそうです
「亦出入王威、高君雅家、然獨歸心於高祖。」って世龍は李淵大好きですね