May 14,2016

有史世良者、善相人、謂高祖曰「公骨法非常、必為人主、願自愛、勿忘鄙言。」高祖頗以自負。
(『旧唐書』本紀第一 高祖)

(訳)史世良という者がおり、人相見を善くした。
彼は高祖(李淵)に「公の骨相は非常なものであり、必ずや人主となりましょう。願わくば自愛し、この鄙言をお忘れなきよう。」と言った。
高祖はこれをもってすこぶる自負した。

太宗本紀の方↓

高祖之臨岐州、太宗時年四歲。有書生自言善相、謁高祖曰「公貴人也、且有貴子。」
見太宗曰「龍鳳之姿、天日之表、年將二十、必能濟世安民矣。」
高祖懼其言泄、將殺之、忽失所在、因采「濟世安民」之義以為名焉。
(『旧唐書』本紀第二 太宗)

ときに高祖(李淵)は岐州におり、当時太宗(李世民)は四歳であった。
ある書生が自ら人相見を善くすると申し、高祖に謁見して言った。
「公は貴人であり、また貴子を有しております」
また太宗を見て言った。「龍鳳の姿、天日の表、齢二十歳になれば、必ず世を救い民を安んじられるでしょう。」
高祖はこの言葉が外に漏れ出るのを恐れ、書生を殺そうとしたが、書生はたちまちいなくなってしまった。
これに因んで、「済世安民」の意味を込めて「世民」を太宗の名前とした。

このときその場に李世民も同席してるのに「高祖其の言の泄るるを懼れ、将(まさ)に之を殺さんとす」だったというのが物騒すぎて好き
しかも李淵はこの言葉で頗る自負するようになり、「済世安民」から名前を取って李世民を「世民」と改名した、という(それまでの李世民の幼名は不明)
淵パパって基本的に言動が物騒だったりイケイケだったり良くも悪くも昭和のヤ…感ある
しかしこの頃って隋の中央もごたごたしていた時期だと思うんですが、外州にいた淵パパも把握してたんでしょうか
それとも把握していたからこそ書生の預言が漏洩するのを恐れ、かつ「頗る自負」したんでしょうか

(追記)
ちなみに『新唐書』太宗本紀には〈方四歲、有書生謁高祖曰「公在相法、貴人也、然必有貴子。」及見太宗、曰「龍鳳之姿、天日之表、其年幾冠、必能濟世安民。」書生已辭去、高祖懼其語泄、使人追殺之、而不知其所往、因以為神。乃採其語、名之曰世民。〉とあり、書生が突然消えたことで神認定されたことになっています
『新唐書』高祖本紀にはこのエピソードは見えず、この予言説話は李淵の瑞祥譚から李世民の瑞祥譚に完全に切り替えられているようです
隋最盛期から李淵が野心家であったことが垣間見えるエピソードなので、『新唐書』のこの改変は勿体ないと思います