October 31,2021

阿史那社爾と阿史那忠
史料に幼少期についての記述がある人物は少年期を描いても許される気がする

齊藤茂雄先生が隋末唐初の突厥について、突厥に属しながら唐と緊密な関係を結ぶ、いわゆる「両属関係」にあった有力者が複数存在したことを指摘しているのですが(「突厥有力者と李世民―唐太宗期の突厥羈縻支配について―」)、

・父の阿史那社蘇尼失が即位前の李世民と友好関係を結んでおり、息子の忠も即位前の李世民に謁見していた
・貞観三十年の東突厥平定時に最終的に頡利可汗を捕らえた
・頡利捕縛後に親子で唐に帰順すると、忠(泥熟)は李世民から「忠」の名前を賜り、太宗期のほぼ一代を通じ遺民集団内で高い地位を保った
・辺境統治のために塞外に出された忠が「陛下の側に支えたい」と使者が来るたびに涙するため、李世民が哀れんで中央に呼び戻した

と李世民さんとの蜜月っぷりが凄まじい忠とは対照的に、父の蘇尼失は

・頡利の政治が乱れた後も蘇尼失のみは離心しなかった
・突利可汗が唐に帰順したのち頡利によって小可汗に立てられた
・李靖が頡利を破ると、衆を率いて投降するために息子の忠に命じて頡利を捕縛させ唐軍に引き渡した
・頡利が貞観8年(634年)に無くなると殉死した

と突厥への帰属意識が強く、この親子のコントラストは面白いなと思います
啓民可汗(始畢、処羅、頡利の父)の弟の蘇尼失と611年生まれの忠では世代的な価値観の違いも大きいような気がするけど
ちなみに頡利には渾邪という頡利の母の婆施氏(吐谷渾の貴族)の代から随従する臣下がおり、彼も頡利の死後に悲しみの余り死去したそうです
この漫画でも描いたように、テュルク系は君主−臣下の一対一の紐帯を重んじる傾向があり、蘇尼失にとってはその相互作用が頡利との間で働き、忠にとっては李世民との間で働いたと見るべきなのでしょうか