May 11,2022 李世民さん受けのメモ①

史料を読んでいて「李世民さん、受け!!!!!!!!!!!!!!」の思った箇所のメモです
cpごとにまとめました
①隋末〜太原挙兵編


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モブx李世民さん

〈時隋祚已終,太宗潛圖義舉,每折節下士,推財養客,群盜大俠,莫不願效死力。〉(『旧唐書』太宗本紀)

〈每折節下士〉がポイントです 
李世民さんは俺様君主なイメージを持たれがちだけど、調べてみるとむしろ貴賤を問わず他人に対してへりくだれる人だと感じます
アーサー・F・ライトの『隋代史』にも「古の専制君主というよりは元老院の長老っぽい」と書いてあって、確かに調整役が上手いよな〜と思った
そこが好きだし受けだと思う

〈上于武成殿賜宴,因從容謂侍臣曰:「朕少在太原,喜群聚博戲,暑往寒逝,將三十年矣。」時會中有舊識上者,相與道舊以為笑樂。〉(『旧唐書』太宗本紀)

少年の頃に博打で遊んでた話を30年後に懐かしみながら話すのエッチだね 再現ドラマ撮るなら吉○羊でお願いします
知り合いと再会して笑い合ってるのも可愛い〜


竇琮x李世民さん

〈琮與太宗有宿憾,每自疑。太宗方蒐羅英傑,降禮納之,出入臥內,其意乃解。及將義舉,琮協贊大謀。〉(『旧唐書』竇琮伝)

過去に何があったのかわからないけど目的を遂行するためなら私憤を収められるところが好き
子供の頃に竇琮に手を出されかけて不仲になっていたという私設定があります
(実際竇琮がそういう卑劣漢だったら、それが罷り通る時代だったとしても現代に生きる私はこの二人をBLcpとして描いたりはしませんが…)(面倒な人間)


劉文静x李世民さん

〈又竊觀太宗,謂寂曰:「非常人也。大度類於漢高,神武同於魏祖,其年雖少,乃天縱矣。」寂初未然之。後文靜坐與李密連婚,煬帝令繫於郡獄。太宗以文靜可與謀議,入禁所視之。文靜大喜曰:「天下大亂,非有湯、武、高、光之才,不能定也。」太宗曰:「卿安知無?但恐常人不能別耳。今入禁所相看,非兒女之情相憂而已。時事如此,故來與君圖舉大計,請善籌其事。」文靜曰:「今李密長圍洛邑,主上流播淮南,大賊連州郡、小盜阻澤山者,萬數矣,但須真主驅駕取之。誠能應天順人,舉旗大呼,則四海不足定也。今太原百姓避盜賊者,皆入此城。文靜為令數年,知其豪傑,一朝嘯集,可得十萬人,尊公所領之兵,復且數萬,君言出口,誰敢不從?乘虛入關,號令天下,不盈半歲,帝業可成。」太宗笑曰:「君言正合人意。」於是部署賓客,潛圖起義。候機當發,恐高祖不從,沉吟者久之。文靜見高祖厚於裴寂,欲因寂開說,於是引寂交於太宗,得通謀議。〉(『旧唐書』劉文静伝)

李世民さんの才覚をいち早く見抜いていた劉文静は初めての彼氏と同義だとずっと言っている
武德二年に文静が処刑された際も李世民さんは李淵パパに固く助命を請願しています

〈李綱、蕭瑀皆明其不反,秦王世民為之固請曰:「昔在晉陽,文靜先定非常之策,始告寂知,及克京城,任遇懸隔,令文靜觖望則有之,非敢謀反。」〉(『資治通鑑』卷187)

ちなみに文静は李世民さんの即位後に官爵を回復し、その息子の樹義が魯国公を継いでいるそうです

〈貞觀三年,追復官爵,以子樹義襲封魯國公,許尚公主。〉(『旧唐書』劉文静伝)

劉文静を失ったのと同時期に尉遅敬徳を出会うわけですが、殷開山・屈突通から守ったり周囲の讒言を退けて敬徳を後生大切にしてるのは、二度と同じ喪失を繰り返したくないからだと思っています


裴寂+李世民さん
cpでもいいしそうじゃなくてもいいです

〈時太宗將舉義師而不敢發言,見寂為高祖所厚,乃出私錢數百萬,陰結龍山令高斌廉與寂博戲,漸以輸之。寂得錢既多,大喜,每日從太宗游。見其歡甚,遂以情告之,寂即許諾。〉(『旧唐書』裴寂伝)

每日從太宗游←デートじゃん 乃出私錢數百萬〜はお金で釣ったというよりは大金を惜しみなく与えて度量をアピールしたということだと思います
即位後に裴寂は妖乱に連座し免官され流罪となりますが、

〈俄逢山羌為亂,或言反獠劫寂為主,太宗聞之曰:「我國家於寂有性命之恩,必不然矣。」未幾,果稱寂率家僮破賊。太宗思寂佐命之功,徵入朝,會卒,時年六十。〉(同上)

賊を平定したことと創業の功績を以て許されたようです
「我國家於寂有性命之恩,必不然矣。」 これが言える李世民さんの他人を疑うことを知らないかのような素直さよ
李淵ー裴寂と李世民ー劉文静のラインはおそらく初期から別れていたのだと思いますが、複雑な関係性の裴寂にも情をかけるところに李世民さんの人間性が出ていると思います


唐倹x李世民さん
あんまり描いてないけど推しているcpです 隋唐にはまった初期から唐倹が好きすぎる

〈儉落拓不拘規檢,然事親頗以孝聞。初,鑑與高祖有舊,同領禁衛。高祖在太原留守,儉與太宗周密,儉從容說太宗以隋室昏亂,天下可圖。(略)太宗為渭北道行軍元帥,以儉為司馬。〉(『旧唐書』唐倹伝)

唐倹の父親と唐鑑と李淵が元々同職で親交があり、そのツテでお友達になり遊ぶようになったとのこと
唐倹は『新唐書』袁朗伝では秦王派の一派として名前が上がっていますが(ただこの表は秦王府に属していた竇軌を太子派としていたり検討が必要)、同書李綱伝では趙元楷と共に李建成に侍っていたともとれる記述が見えます

〈綱在東宮,太子建成尤加禮,嘗游溫湯,綱疾不從。有進魚者,太子使膾之,唐儉、趙元楷自言其能。太子曰:「操刀膾鯉和鼎味,公等善之。若弼諧審諭,固屬綱矣。」遣使賜絹二百匹。〉(『新唐書』李綱伝)

〈綱在東宮〉とあるので武徳二年(西暦619年)に李綱が太子詹事を辞職する以前のことと考えられますが、唐倹は同年十月、李淵の命を受けて永安王孝基、工部尚書獨孤懷恩、陝州總管於筠と共に劉武周討伐に出征し、十二月に宋金剛の派遣した尉遅敬徳と尋相の軍に攻撃され、彼らと共に捕まってしまいます
敬徳の軍にいる間も唐倹は国家のために色々と動いていますが、劉武周の侵攻を受けて太原を捨てようとする李淵を説得し、尉遅敬徳を破り唐倹を助けたのが李世民さんですね(ちなみに唐倹の本貫は并州晋陽)

〈時王行本猶據蒲板,未下,亦與武周相應,關中震駭。上出手敕曰:「賊勢如此,難與爭鋒,宜棄大河以東,謹守關西而已。」秦王世民上表曰:「太原,王業所基,國之根本;河東殷實,京邑所資,若舉而棄之,臣竊憤恨。願假臣精兵三萬,必冀平殄武周,克復汾、晉。」上於是悉發關中兵以益世民所統,使擊武周,乙卯,幸華陰,至長春宮以送之。〉(『資治通鑑』卷187)

〈世民至晉陽,武周所署僕射楊伏念以城降。唐儉封府庫以待世民,武周所得州縣皆入於唐。〉(『資治通鑑』卷188)

劉武周平定後唐倹は李世民さんに従軍していませんが、武徳四年には天策府の長史(トップ2)に任命されており、この頃には秦王支持派として立場を固めたと推測できます

〈後從幸洛陽苑射猛獸,群豕突出林中,太宗引弓四發,殪四豕,有雄彘突及馬鐙,儉投馬搏之,太宗拔劍斷豕,顧笑曰:「天策長史,不見上將擊賊耶!何懼之甚?」對曰:「漢祖以馬上得之,不以馬上治之;陛下以神武定四方,豈復逞雄心於一獸。」太宗納之,因為罷獵。〉(同上)

李世民さんを猪から守るために馬を捨てて猪を搏つ唐倹、100点
ここの李世民さん、守られてる立場のくせに「(自分は武将を撃てるくらい強いのに)何をそんなに恐れる?」とか言ってて可愛い
高飛車お嬢様の概念の具現化だし金髪縦ロールの李世民さんが見える

〈唐儉事太宗、甚蒙寵遇、每食非儉至不餐。〉(『朝野僉載』)

可愛い
『朝野僉載』によれば李世民は晩年唐倹のことを嫌うようになったらしいのですが、他の史料には見えない話なのでよくわかりません

〈吏部尚書唐儉與太宗棋,爭道。上大怒,出為潭州。蓄怒未泄,謂尉遲敬德曰:「唐儉輕我,我欲殺之,卿為我證驗有怨言指斥。」敬德「唯唯」。明日對仗雲,敬德頓首曰:「臣實不聞。」頻問,確定不移。上怒,碎玉珽於地,奮衣入。良久索食,引三品以上皆入宴,上曰:「敬德今日利益者各有三:唐儉免枉死,朕免枉殺,敬德免曲從,三利也;朕有怒過之美,儉有再生之幸,敬德有忠直之譽,三益也。「賞敬德一千段,群臣皆稱「萬歲」。〉(同上)

唐倹世民の喧嘩に付き合わされる尉遅敬徳
唐倹は尉遅敬徳の軍に捕まったあとも敬徳を説得して劉世譲を唐に帰国させたりしてるし出会った頃からちゃんとコミュニケーションとれてたんだろうなと思います 
尉遅敬徳x李世民の世界線では嫉妬深い敬徳が唐倹にだけは喧嘩を売らないという私設定があります


劉弘基x李世民さん
これはほぼ公式cpだと思います 公式というのは本当に肉体関係があってもおかしくないという意味です
(いうまでもなくこの時代の同性愛関係≠恋愛関係です)

〈大業末,嘗從煬帝征遼東,家貧不能自致,行至汾陰,度已後期當斬,計無所出,遂與同旅屠牛,潛諷吏捕之,繫於縣獄,歲餘,竟以贖論。事解亡命,盜馬以供衣食,因至太原。會高祖鎮太原,遂自結托,又察太宗有非常之度,尤委心焉。由是大蒙親禮,出則連騎,入同臥起。〉(『旧唐書』劉弘基伝)

出則連騎,入同臥起(意味深) 
この2人は歳の差が17歳あります 遊侠のおじさんに懐く少年李世民さん、100点
谷川道雄先生が挙兵から高句麗親遠征まで活躍する劉弘基はレアケースだとなにかの論文で言ってた気がしますが

〈太宗征遼東,以弘基為前軍大總管。從擊高延壽於駐蹕山,力戰有功,太宗屢加勞勉。〉(同上)

おじいちゃんになっても労られています(駐蹕山は李世民さんの駐屯した山)
高句麗遠征に従軍した将軍でも劉弘基は一番年配の部類ですね


長孫順徳+李世民さん
cpではないです 長孫皇后の親族と李世民さんをcpにするの申し訳ないと思ってしまうので…(でも長孫無忌x李世民さんは大大大好き)

〈順德仕隋右勳衛,避遼東之役,逃匿於太原,深為高祖、太宗所親委。〉(『旧唐書』長孫順徳伝)

〈後,順德監奴,受人饋絹事發,太宗謂近臣曰:「順德地居外戚,功即元勳,位高爵厚,足稱富貴。若能勤覽古今,以自鑑誡,弘益我國家者,朕當與之同有府庫耳。何乃不遵名節,而貪冒發聞乎!」然惜其功,不忍加罪,遂於殿庭賜絹數十匹,以愧其心。大理少卿胡演進曰:「順德枉法受財,罪不可恕,奈何又賜之絹?」太宗曰:「人生性靈,得絹甚於刑戮;如不知愧,一禽獸耳,殺之何益!」尋坐與李孝常交通除名。歲餘,太宗閱功臣圖,見順德之像,閔然憐之,遣宇文士及視其所為,見順德頹然而醉,論者以為達命。召拜澤州刺史,復其爵邑。〉(同上)

この李世民さんツンデレの体現じゃないですか? べっ別にあいつなんか殺す価値もないんだからねっ(然惜其功,不忍加罪)
「李世民さんは順徳に厳しい」という意見を日本ではよく目にしますが、収賄の罪も許してるし宇文士及に様子を見に行かせたり優しくしてると思います
ちなみに

〈發疾,太宗聞而鄙之,謂房玄齡曰:「順德無慷慨之節,多兒女之情,今有此疾,何足問也!」〉(同上)

こんなこと言ってる李世民さん本人は、長孫皇后との間に生まれた平陽公主が十二歳で早世した際には悲しみのあまり一ヶ月まともにご飯が食べられなかったそうです

〈帝閱三旬不常膳,日數十哀,因以臒羸。群臣進勉,帝曰:「朕渠不知悲愛無益?而不能已,我亦不知其所以然。」因詔有司簿主湯沐余貲,營佛祠墓側。〉(『新唐書』諸帝公主 平陽公主伝)

多兒女之情…
まあ娘に甘々な李世民さんはいいと思います

まだ李靖も房玄齢も長孫無忌も出てこないけど②に続きます