March 21,2023

貞観四年三月甲申(630.3.19)、尚書右僕射・萊國公杜如晦が薨去した

貞観三年、杜如晦は長孫無忌に代わって尚書右僕射となり、選事を担当し、玄齢と共に朝政を司った。
台閣の規模、及び典章、人物に至るまで、すべて二人の定めるところであり、はなはだ当代の誉れを獲得した。良相を談じる者は、今に至っても房、杜を賞賛した。
その冬に病に遭い、辞職を願い出て許されたが、禄賜は特別にそのまま授けられた。
太宗(李世民)は如晦の病を深く憂慮し、しきりに使者を使わせて病状を問い慰問をし、名医上薬が道に相望むようであった。
貞観四年、病が重篤となったため、太宗は皇太子を第に就かせ臨問させ、太宗自身もその家を訪ねて見舞いした。
如晦を慰撫して流涕し、物千段を賜い、それが終わらぬうちに如晦の子を官に任命し、ついに左千牛衛から尚舍奉御へ超遷させた。
如晦は間もなく薨去した。年は四十六歳であった。
太宗は慟哭すること甚だしく、廃朝すること三日、司空を贈り、萊蔡國公へ徙封し、諡を「成」とした。
太宗は手詔して著作郎虞世南へ言った。
「朕と如晦、君臣の義重く、不幸奄(にわ)かに物化に従う。勲旧を追念し懐に痛悼す。卿、吾が此の意を体し、為に碑文を制せよ。」と。
のちに太宗が瓜を食していると、そこで愴然とし、如晦を悼んだ。瓜の半分ほどに手をつけたが食するのをやめ、使者を遣わせて残りを如晦の霊座に備えさせた。
またあるとき玄齢へ黄銀帯を賜り、玄齢を顧みて言った。
「昔、如晦と公は心を同じくして朕を補佐した。こんにちこれを賜うところ、唯だ一人公を見るのみである。」
そこではらはらと涙をこぼし流涕した。
また「朕が聞くところによれば、黄銀は鬼神のために恐れられるという。」と言い、命じて黄金帯を用意し、玄齢を遣わせて如晦の霊所へ供えさせた。
その後太宗は突然如晦を夢に見た。まるで平生のときのようであり、夜が明けるに及んでこのことを玄齢に告げて咽び泣き、御饌を送り如晦の霊を祀らせた。明年の如晦の亡日には、尚宮を遣わせて如晦の宅を尋ね妻子を慰問した。
その国官府佐は生前の通りのまま保たれ、終始恩遇は未だかつてないほどであった。
(『舊唐書』杜如晦伝)

上(李世民)は佳物を得る度に、常に如晦を思い、その家に遣いを送り賜り物を送った。
これより久しく、如晦のことに話が及ぶと必ず流涕し、玄齢に言った。
「公は如晦と共に朕を支えてくれた。今はひとり公を見るだけで、如晦とまみえることができない」と。
(『資治通鑑』巻193)