May 07,2017

この表を作るためだけに牛進達のデザインを作った
これだけド派手な外征事業の傍ら安定した内政を行っていた李世民政治手腕はやはり凄まじい
外敵を排除すれば国防が安定して内政に力を注ぎやすくなる、西域を統治下に置けば安定した交易が可能となり文化が栄える、相関関係があることとはいえここまで内治外征文化振興を成功させた人は中国史上でもそういないと思う
ところで晩年まで全然東夷に興味なかったんだね。まあ当時の情勢からすれば西域と北方に注力する方が先だよね

追記に各外征についてのメモ


東突厥平定(西暦630年) 

・李靖
・張公謹(副官)
・李世勣
・李道宗
・薛萬徹

副官の張公謹は李世民に玄武門の変を決断させ、貞観三年に突厥を討つよう上奏した張本人
玄武門の変の背景に緊迫した国際情勢があったことを考えると、おそらく張公謹は李世民にとっての突厥対策ブレーンのような存在だったのではないかと思います
現場では李靖が公謹抜きに勝手に李世勣と策立ててたけど…
公謹はサイトに出すのははじめてですがデザインは最初期の頃からあり、李世民の臣下でも大好きなひとりです


吐谷渾平定(西暦634年) 

・李靖
・侯君集(副官)
・李道宗(副官)
・李大亮
・薛萬徹
・薛萬均
・執失思力
・契苾何力

突厥平定後はじめての大規模な外征。李靖の副官に侯君集と李道宗の二人が付けられている
君集と道宗は現場で意見が食い違ったようだけど、道宗が李世民に君集をボロカスに言ったのはたぶん彼の嫌なところを戦場で散々目にしたからだろうな…
吐谷渾平定後、薛萬均が契苾何力の功績を横取りしようとし、それに激怒した何力が抜刀して萬均を殺そうとするというクレイジーな事件が発生しているが、李世民がいつもの強引なまとめ方で解決した


吐蕃軍撃退(西暦638年)

・侯君集
・執失思力
・牛進達

李世民は吐谷渾平定後、中々安定しない吐谷渾故地の慰撫や残党の撃退に度々侯君集を西域に派遣しており、この時期軍事の中心は李靖から侯君集に移り変わりつつあった
李世民が李靖に君集に兵法を教えるよう言ったのも、本気で君集を李靖の後継者と見ていたからだと思う
でも君集は「李靖の後継者」でなく「李靖以上の大人物」になりたかったし、李靖の存在は邪魔で忌まわしかった(ので讒言)
李世民は君集を大事にしすぎてるし、君集は自分が好きすぎ。あるいは李世民が好きすぎて他に嫉妬しすぎ。かわいいかよ…
ところで夜中に吐蕃軍に強襲をかけて大打撃を与えた牛進達は普通に強いし、これ以外の征戦でも功績を上げているのに正史に立伝されていないのが不思議です


高昌平定(西暦640年)

・侯君集
・薛萬均
・阿史那社爾
・契苾何力
・牛進達

人事力に定評のある李世民さんだけど侯君集と薛萬均のツートップはどう考えてもやばい
唐の進軍を聞きつけて高昌王麹文泰が急死し、唐軍が都に迫る中「天子に罪があるのは先王であり、位を継いで日の浅い私を許してほしい」と書面で謝罪を申し出た麹智盛に対し、「よく過ちを悔いるものは腕を縛って軍門に降るものだ」と返す君集
その後軍門を訪れ唐に仕えると申し出た智盛(あまり態度が良くなかった)に対し「先に城を取る。小僧と何を共に語ることがあるか」と激昂する萬均
チンピラ…この対応でいいのかよ対外的に…
その後君集は高昌で戦利品や婦女を私物にし、それが部下に露呈し掠奪が横行したのを止められず帰国後に弾劾を受け、萬均も同様に帰国後掠奪で弾劾を受けました
こうくると同じ高昌征戦後の阿史那社爾の「李世民の勅が出るまで褒賞に一切手をつけなかった(=掠奪行為を一切働かなかった)」という清廉さが沁みます
吐谷渾平定時に功績分捕り事件で揉めた萬均と何力を同時に起用していたり、この征戦での李世民の人事は神経の太さがにじみ出ている気がする


薛延陀平定(西暦641年−646年)

・李世勣
・李道宗
・薛萬徹
・阿史那社爾
・契苾何力
・執失思力
・牛進達

并州都督であった李世勣が兵部尚書を拝命し中央に戻る前に、薛延陀が李思摩の統治する突厥故地を襲撃
李世勣が救援に派遣され、以降彼が薛延陀対策の中心となりました
薛延陀と唐の緊張状態は長期に渡ったため多数の将軍が対策にあてられています
社爾は真珠可汗と李世民によって故郷を滅ぼされながら、李世民の忠臣として真珠への敵討ちを果たす。なかなかに数奇な人生を歩んでいる


第一次高句麗征戦(西暦644年−645年)

・李世勣
・李道宗
・薛萬徹
・阿史那社爾
・契苾何力
・執失思力
・牛進達

オールスター。阿史那思摩、劉弘基、尉遅敬徳、薛仁貴といった豪華メンツも参戦
李世勣がなぜか終始精彩を欠き、李世民に陥落した城を掠奪させろと部下を引き連れてゴネたりイマイチなこともしている(李世民がさすがに可哀想と拒否)
李世民期の外征面子は侯君集、薛萬均が李世民存命中に死去、
阿史那社爾、牛進達が次代の高宗期の初期に死去、
李道宗、薛萬徹、執失思力が房遺愛に連座して失脚しており(ヒント:外征反対派の長孫無忌と褚遂良)、
高宗期の高句麗討伐は無忌との政争に勝利した李世勣、次世代ホープの薛仁貴らが支えることになりました
李治は李世民期の功臣が大幅に欠けた即位初期も巧みな人材起用で外征を行っており、父親譲りの人事センスを感じさせます
李治は劉仁軌、薛仁貴など李世民が才能を見出した人々をきちんと重用していると思う


亀茲・焉耆平定(西暦646年−647年)

・阿史那社爾
・契苾何力

亀茲平定ではとにかく社爾がひたすら働いている
郭孝恪がやらかしたあとも社爾がひたすら働いている
正直李世民期の将軍で一番清廉で働きぶりが真面目で周囲と角を立てないの社爾じゃない?蕃将が一番真面目で清廉潔白って…
いや李世勣や李道宗も真面目だけど…
この二年後に李世民が崩御すると社爾と何力は殉葬を望みました。社爾の生涯には感じ入るところが多いです