Yearly Archives: 2017

薛萬均・薛萬徹兄弟1

December 26,2017

薛萬均・薛萬徹兄弟のらくがき 萬均の傷口を舐める李世民さんが描きたかったけどキスしてるみたいになっちゃった 兄弟の一番好きな台詞 大言壮語だけどそれに見あうほどやることもでかいし鬼強いしがめつい萬均 外征事業のエースで兄をもう少し理性的にした感じ…と思いきや兄同様豪快な萬徹 どっちも同じくらい好きです 来年は李世民との絡みも沢山描きたい…

李世民、褚遂良、虞世南

November 27,2017

『旧唐書』『新唐書』初唐の三大家 初唐の三大家の三人と李世民で色々描きました 欧陽詢先生は顔出しNGキャラです。私の創作は顔出しNGキャラが多いです(ex.李建成、李元吉) 褚遂良も虞世南も被っている冠は風俗考証に沿っていません いちおう褚遂良の冠は進徳冠、虞世南の冠は貂蝉冠をイメージしているけど、そもそも虞世南は侍中を務めた経験がないので貂蝉冠を被る機会はなかった… 冠を被ってる褚遂良の表情が読みにくいところは史実の褚遂良の印象とマッチしている気がして気に入っています 褚遂良って笑わなそうだし何があっても表情変わらなそう。いつも仏頂面してそう 唐の太宗は空前の英明な君主であるが、書の技量においても、古今を通じて第一級である。その上、随臣の中に、いわゆる三大家がいて、初唐は書の最高の隆盛をむかえる。(略) 褚遂良(五九八ー六五八)は、両大家の晩年にようやく壮年に達した、いわば唐代生えぬきの最初の名家である。虞の死後、太宗の顧問となった、その最高の傑作「雁塔聖教序」(六五三)は、欧・虞でさえ夢想しなかったような、全く新しい境地を開拓している。 (伏見冲敬編集『角川書道字典』角川書店、1997) 褚遂良が新境地に達したのが李世民の死後なの、なかなか切なくていいですね…

文成公主

July 24,2017 唐代の和蕃公主について

貞観十五年(641)に吐蕃に降嫁した文成公主とソンツェン・ガンポの話。 歴史創作では基本人物のデザインに関して李世民との年齢差に忠実に設定しようと決めてるんですが、ソ王だけはガン無視で若者に描いてます。 史実のソ王は文成公主降嫁時72歳くらい(諸説あり) 文成公主の本来の降嫁先はソンツェン・ガンポではなく、彼の息子のグンソン・グンツェンでした。 しかし降嫁した二年後にグンソンが落馬で亡くなり、その後三年の喪に服し義父であったソ王と再婚します。 レビレート婚(寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する習慣)と思われますが、ソ王は三年喪に従った上で公主と再婚しています。親唐派なので唐への対応を弁えていたのでしょうか。 以下隋唐代の和蕃公主について…

twitterパロ(李世民)

July 18,2017

漫画の冒頭は『貞観政要』巻六論倹約第十のエピソードを下敷きにしています 〈貞觀二年、公卿奏曰「依《禮》、季夏之月、可以居臺榭。今夏暑未退、秋霖方始、宮中卑濕、請營一閣以居之。」太宗曰「朕有氣疾、豈宜下濕。若遂來請、糜費良多。昔漢文將起露臺、而惜十家之產、朕德不逮於漢帝、而所費過之、豈為人父母之道也?」固請至於再三、竟不許。〉 (『貞観政要』巻六論倹約第十) (訳)貞観二年、公卿が上奏して言った。「《礼記》には「季夏の月は〔暑気を避けて〕臺榭(高台)に居るべきである」とあります。今盛暑が退かないまますでに秋の長雨が始まり、宮中は土地が低くじめじめしております。高台一閣を建ててそこでお過ごしになるべきです。」 李世民は言った。「朕には気病があり、湿気は体に宜しくない。しかし上奏の通りに高台を建てれば多くの経費がかかる。昔、漢の文帝は露台を作ろうとしたが、その費用が〔中流家庭の〕十家分の資産に相当すると知ると、その費用を惜しんで中止した。朕の徳は漢の文帝に遠く及ばないのに、文帝以上に浪費するのは、どうして人の父母の道に沿っていると言えよう。」ついに申し出を許さなかった。 (参考:新釈漢文大系96『貞観政要 下』原田種成著、明治書院 1978) 李世民は度々太極宮は湿気が多く夏場過ごしにくいと口にしていますが、長安は盆地で高温多湿地域のため体感では敦煌より暑かったそうです そりゃ愚痴も言いたくなる…

長孫皇后(ちょっと李世民)

June 30,2017

李世民の皇后の長孫氏 聡明で教養があり倹約家で李世民を献身的に支える賢后…なのですが、 なにより史料から李世民を心から愛して李世民に心から愛されていたのが伺えるのが最高です 唐太宗一生最爱的女人长孙皇后(https://www.douban.com/group/topic/70032777/) 中国語のサイトですが参考になるまとめ 冒頭では長孫皇后が「長孫晟の第二子で唯一の女子」とされていますが、実際には晟には五人の男子と三人の子がおり、この数字は間違っています あと長孫氏が開元通宝の原型にうっかり爪痕を残したせいで当時通用していた貨幣にその傷跡があるという話も伝承の類のものです(詳しくは中村裕一『中国古代の年中行事』第二巻 三十一 六月、鋳銭の休業月を参照) 長孫氏の体調が芳しくないのを心配した李世民が玄中寺の高僧道綽を訪ね、大量の珠宝を奉納して長孫氏の幸福を願ったのは本当。ただし貞観二年の即位後のことらしい(『金石萃編』巻八十四林諤撰《石壁寺鉄彌勒像頌碑》) まだいろいろあるけどファクトチェック必須なので逆に読まない方がいいかもしれない…(参考になると言ったのは…)…

太原にて(李淵、李世民)

June 13,2017

李淵が616年に馬邑にいた際、配下の優れた騎兵に突厥の風俗をそっくり真似させ、戦場で突厥の軍にその騎兵をあてて混乱させて大勝したというエピソードがあるのですが、その中に李世民がいたら面白いなと思ってます 馬邑(朔州)から太原(并州)に移る際にわざわざ世民を別所から呼んだとも考えにくいし、世民は常に李淵に随行して軍事を学んでいたのではないかなあ…