October 21,2020

秦王府十八学士のまとめを作ったのでアーカイブに追加しました:秦王府十八学士
文章は李世民以外だいたい正史の列伝の抄訳です
十八学士と二十四功臣は一年ごとにまとめ更新しようかな〜成長記録的な感じで

追記にまとめについての補足とか

十八学士の説明
ほぼ『旧唐書』褚亮伝にある〈始太宗既平寇亂、留意儒學〜謂之「登瀛洲」〉から引用しました
十八学士図が描かれたのは薛収の死後、劉孝孫入館の間もない頃だそう

李世民
褚亮伝には「天下統一戦を終えて儒学に留意し学士を募った」とあるものの、一応太原にいた頃からちゃんとした儒者が家庭教師についていたらしいです

〈張後胤、字は嗣宗。蘇州崑山の人で、祖父の張僧紹は梁で零陵太守を務めた。父の張沖は陳で国子博士を務め、隋で漢王楊諒が并州に駐屯すると、引き入れられて博士となった。後胤は二十歳にして学業で知られた。父に従い并州におり、李淵が太原留守になると賓客となり、李世民に《春秋左氏伝》を教えた。〉(『旧唐書』儒学上 張後胤伝)

李世民本人は自分の若い頃を振り返って「決まりを守らず柴紹や竇誕のような(ごろつきの)人間としか交友がなかった」と言うけれど、18歳で《入潼關》を詠んだり22歳の頃には王羲之の書に目覚めていたり、少年の頃から文化的な素養があったのではないかと思っています。そもそもインテリの長孫無忌とも交友があったのだし…(《入潼關》の制作時期については諸説あり。李世民が武徳四年に《蘭亭序》を手に入れたという話は『隋唐嘉話』『南部新書』から。詳しくは過去記事

杜如晦

〈房玄齢と共に朝政を掌り、台閣の規模、典章・文物に至るまで、皆二人が定めた。はなはだ当代の誉れを得、良相を談じる者は、今に至るまで房杜を称賛した〉(『旧唐書』杜如晦伝)

この一文を入れるべきだったな〜
『旧唐書』杜如晦伝を読むと世民がいかに如晦を愛していたかがよくわかるのですが、字数の関係でエピソードが全然入れられませんでした。せっかくなのでここで訳しておきます

〈この年(貞観三年)の冬、杜如晦は病に遭い、解職を申し出た。職は解かれたが、禄賜は旧来通り与えられた。世民は深く病を憂い、しきりに遣いを見舞わせて病状を問い、名医上薬が道にあい望むほどであった。
四年、病は重篤となり、世民は皇太子を臨問せしめ、また自ら如晦の家に行幸した。如晦を慰撫して涙し、物千段を賜い、それが終わらざるうちに如晦の子に官職を授けるのを見せしめ、子を左千牛構から尚舍奉御に昇進させた。
まもなく如晦は薨去した。年は四十六歳であった。世民は甚だ慟哭し、廢朝すること三日、司空を追贈し、如晦を萊國公に徙封した。諡を成といった。
世民は著作郎虞世南に手詔して言った。「朕と如晦は、君臣の義重く、不幸奄(にわ)かに物化に従う。勳舊を追念し、懷に痛悼す。卿、吾が此の意を體し、為に碑文を制せよ。」
のちに世民が瓜を食べているとき、愴然として如晦の死を痛み、半分ほど食して、残りを如晦の霊座に供えさせた。
また世民はかつて房玄齢に黄銀帯を下賜し、玄齢を顧みて言った。「昔、如晦、公と心を同じくし朕を輔く。今日これを賜う所、唯だ公独りを見るのみ。」そしてはらはらと涙を流した。また「朕聞く、黄銀は多く、鬼神の為に恐らる」と言い、玄齢を遣わせて黄銀帯を霊所に送らせた。
その後、世民はたちまちに如晦を夢に見た。朝が来ると玄齢に報告して涙し、御饌を供えて如晦をたてまつった。
翌年の如晦の忌日には、尚宮を遣わせて妻と子を慰問させた。その国の官府もそのまま置かれた。恩遇は厚く、過去に例がないほどであった。〉

房玄齢
世民との関係性とキャラ立ちが濃すぎて簡潔に説明するのが難しい。時点で李世勣、尉遅敬徳、魏徴、長孫無忌も難しい
玄齢伝の〈古人有云、『為國者不顧小節』、此之謂歟。孰若家國淪亡、身名俱滅乎。〉がとにかく好きなのでここは絶対入れたかった
「古人は『国を治める者、小節を顧みず』と言った。これがまさにそうではないか!国家を滅ぼすか、身名を共に滅ぼすかだ。」ここは玄齢伝の一番の激アツポイントだと思う

于志寧
唐初に数少ないチル系臣下。下書きの時はそうでもなかったのにペン入れしたら可愛くなりすぎちゃった
2019年のまとめだと片目隠れキャラに描いてて、描いた当時はいまいちしっくりきてなかったのに今見直すといいデザインだな…と思いました。自画自賛。ちょっとダウナーな志寧のキャラと馴染んでる

蘇世長
諷諫して李淵をイラつかせるエピソードをもっと入れたかった。詳しくは列伝訳
ちなみに顔はロバに似ていたらしいです。しょぼいロバ(『太平御覧』人事部二十三醜丈夫)

薛収
王世充・竇建徳征戦において建徳迎撃を献策するエピソードと、洛陽平定後に世民に隋朝の滅亡を語るエピソード、どっちをとるかで悩みました。有能で果断な人物像を伝えたくて前者をとりました
世民が洛陽平定後に洛陽宮の壮麗さを見て「人欲の極みだ。国が滅ぶはずではないか」と愕然とし、薛収が進み出て隋は豪虐によって滅びたと説くシーン好きです。滅亡した国の美しい宮城と、これから中華を再建していく(はずだった)年若い二人の義憤のコントラスト。このあとに世民が洛陽宮の門を燃やすのも象徴的な場面だと思います

孔穎達
孔穎達の隋末の動向。新旧唐書では「虎牢の地に避難した」としか書かれていないものの、『資治通鑑』巻187には「王世充は韋節、楊続、孔穎達らに禅代の儀を造らしめ…」とあり、どうも王世充の下にいたらしいです。正史はぼかして書いてるけど、戦時中に虎牢みたいな要衝に避難するわけないですね。列伝訳

李玄道
王君廓とのゴタゴタのエピソードも入れたかったけど字数の関係で無理でした。列伝訳

李守素
字数の関係で守素に圧倒される世南のリアルな描写が紹介できなかった
李守素伝の虞世南って可愛くないですか?可愛い。知識量で太刀打ちできないと悟ると笑ってごまかすんだ… 列伝訳

虞世南
煬帝に諫言するなと警告されていた話は『隋書』五行志から
「私は諫言を欲しない。まして名声を求めて諫言する人間など耐えられない。それが卑賤の人間であれば、寛大に扱っても地上に置いてはおかない。お前もこれを覚えておくことだ」って感じの言葉でしょうか…
まあ世南も隋朝では保身してたということなんだけど(『隋書』のこの記事は、煬帝はこんなこと言っちゃう人間なので世南が煬帝に諫言しなかったのも仕方ないんだよ、という言い訳にも感じる)、この話を踏まえた上で世南が兄虞世基を失ったあとの反応や世民への態度を見た方が、世南の人となりがより立体的に感じられると思います
人間性の厚みを伝えるためのエピソードの取捨選択って難しいな

許敬宗
高宗朝でのエピソードは諦めて太宗期〜長孫無忌・褚遂良排斥までに全振りしました
敬宗は無忌に「武后に取り入って甘い汁吸おうよ!」と利害を説いてるだけわりと良心あると思う(叱責されて逆恨みしてるけど)
李勣の名前を出さなかったのは言及を避けたわけでなくうっかりミスです

無忌、遂良と比べると可愛い系に書いてしまう二人
でも于志寧、許敬宗の方が年上なんだよね

蓋文達・蘇勗・劉孝孫
字数の関係で省略して申し訳ない。列伝訳