March 22,2019 秦王府十八学士の列伝を読む

十八学士のデザインをまとめました:秦王府十八学士
十八学士の列伝訳はここ
杜如晦、房玄齢、于志寧、虞世南、薛収、許敬宗といった重要メンツの訳がまだ手付かずです…
以下は各人の列伝を読んでの気付きなどのメモ

蘇世長
・北周の武帝とけっこう仲良し
・ひょっとしたら幼い頃武帝に養育されていた竇氏と面識あったかも
・初恋の相手が竇氏で淵パパに複雑な感情を抱いてるので淵パパにチクチク諫言している説
・初恋の相手である竇氏の面影を残す李世民さんに惹かれ学士になってしまった説
・ここまで妄想
・在位560〜578の武帝に十餘歳で上書した→生年545〜565くらい?
・隋文帝受禅後に上表する、淵パパに竇融の名前を出して昇進を得るなど世渡りが巧い
・一方で臆すること無く淵パパ相手にも諷諫する誠実な性格
・軍諮諧噱、超然辯悟。正色于庭、匪躬之故。
・突厥が武功に入寇したのにそのケアもせず武功に狩猟にいく淵パパふつうに非道
・淵パパ「狂態を発したようだな?」好き 淵パパ基本口悪い
・頡利と争っても譲らない世長最高
・非美形・滑稽そう・でも愛嬌があるというイメージでデザインしたら本当に容貌醜陋だったらしい(『太平御覧』人事部二十三醜丈夫)
・楊廣に驢馬に似ていると言われ驢馬のまねをしたために群臣から一笑いを買い、喜んだ楊廣から帛を賜ったことがある(『太平御覧』同上)
・この人やっぱり佞臣の素質あるんじゃ…

姚思廉
・楊侑(隋恭帝)の侍読やってたんだ
・李世民が「徐円朗を討伐した際」のややこしい時系列↓
・李世民さん武徳五年(622)四月に劉黒闥を討つ
→魯王を自称していた徐円朗動揺
→河北から進軍して円朗を討とうとするも李淵から朝廷に呼び戻される。兵を李元吉に預けて長安に戻る
→同月に史万宝が徐圓朗を攻撃する
→六月に李神通が派遣される
→七月李世民さん再び円朗を討ち十余りの城を降す
→淮、泗震撼、杜伏威入朝
→李世民さん、淮・済の間をほぼ平定したと考え神通、任瓌、世勣に円朗を攻撃させる
→翌年二月に円朗が窮蹙し、城を棄てて逃げるところを市民に殺害される
・おわり
・思廉が史料編纂の材料にしたのは謝炅ら諸家の梁史、傅縡や顧野王の記した舊史
・梁書と陳書は魏徴が総論を裁定、二史の著述は思廉の功績
・〈思廉以籓邸之舊、深被禮遇、政有得失、常遣密奏之、思廉亦直言無隱。〉籓邸之舊って具体的になんなのだろう?
・そもそも洛陽から長安に呼び戻し文学館学士としたことが旧恩にあたるのか
・思廉は進諫おじさん

陸徳明
・はじめに周弘正に師事した いきなりの大物人物
・陳後主主催の明儒イベで貴族であることを恃みとして弁論していた徐孝克は徐陵の弟(『陳書』徐孝克伝)
・徐孝克は列伝を読む限り確かに弁論に長けていたらしい
・徐孝克はかなりの母親孝行。孝克性清素而好施惠、故不免飢寒
・徐陵もはじめ周弘正に学んだ 周弘正の南朝の学界グループの領袖感
・徳明は楊廣が即位すると秘書学士に抜擢された 楊廣の才人を見抜くセンスは抜群
・徳明が門下省で討論した相手は魯達や孔褒
・『旧唐書』儒学上徐文遠伝によれば徐文遠の左氏、褚徽の礼、魯達の詩、陸徳明の易が当時の最とされた
・束脩を受けとるのを恥とする徳明
越智重明「南朝の門生」(『社会経済史学会』28巻4号、1963)によれば〈門生となる際の「束脩」が貧窮の民にとって随分の高額であったこと、逆にいえばそうした「束脩」をいれて門生となったのが富裕であったことを察せしめるに足ろう。〉とのこと
・束脩がなければ授業を行わなかった劉焯は確かにケチかも
・徳明の服用した巴豆散は巴豆(ハズ)から作る薬。ハズには強力な峻下作用があり、日本では毒薬または劇薬に指定されているらしい(出典:wikipedia)
・ただ明代の『普済方』によれば巴豆散は歯痛に効く(治牙疼)薬らしい。謎

孔穎達
・史料によって字がバラバラ
・穎に対応するなら冲だと思うのでこのサイトでは冲遠を採用します
・子供の頃から優秀な穎達
・劉焯に才能を認められる穎達
・才能ありすぎて名望のある儒者たちから刺客を送られる穎達
・その刺客を討つ楊玄感
・ここまででもだいぶストーリーが濃い
・李承乾を面折しまくる穎達
・気骨
・「国から恩を賜っているのだから(太子の恨みを買って)死んでもいい」と言い切る穎達
・気骨
・『五経正義』の誤謬を指摘する馬嘉運と揉める穎達
・気骨