Yearly Archives: 2018

唐の建国(李淵、劉文静、李世民、裴寂)

July 02,2018

李淵と唐朝創業の功臣たち 人間関係をもつれさせつつ結束して唐を興したり道を違えたりする四人 加工前(こっちの方が色味がまとまっていた) 劉文静の顔がお気に入りです エネルギーに溢れてそうだし軽率な言動しそう 文静は容貌が立派で才気才幹に溢れ権略に富むハイスペックインテリヤクザイケおじなのに、内側にどこか粗野な性質を持っていて、それをコントロールできないまま処刑されていく姿に悲哀と魅力が詰まっている 史実では 李淵:〈骨法非常〉(『舊唐書』高祖本紀) 李世民:〈龍鳳之姿、天日之表〉(『舊唐書』太宗本紀) 劉文静:〈偉姿儀〉(『舊唐書』劉文静伝) 裴寂:〈疎眉目、偉姿容〉(『舊唐書』裴寂伝) らしいのでここの四人でつるんでたら画の力が強いと思いました 太原にいる時点で李淵51歳、劉文静49、裴寂48歳、李世民18歳。援助交際の絵面だ…

房玄齢李世民

June 23,2018

〈玄齢は、昔、我に従いて天下を定め、備に艱苦を嘗め、万死を出でて一生に遇えり。草創の難きを見る所以なり。〉 (『貞観政要』巻第一 君道第一) 谷川道雄先生の『貞観政風の一研究』を読んでいます 特筆して目新しい発見はないものの「わかる〜」と言いたくなる文章がゴロゴロ出てくる 貞観代の君臣関係やっぱり好きだ〜。あの時代の朝廷には楊廣の悪政を見過ごした人間も隋末の動乱の中で傷ついた人間も沢山いたけれど、彼らは各々の傷から目をそらさず、自分より年若い君主と真摯に政治問答を重ねることで新しい時代の新しい政治を作ろうとした あの時代の政治議論は一見理想主義的だけど、実情はあまりにも切実な思いによって行われていた人間的な営みで、だからこそ時代を越えて人の胸を打つんじゃないかなと思った 李世民も臣下も皆大好き そんなことを考えていたら6/23の太原挙兵の日をうっかりスルーしました。完…

李淵李世民親子

May 06,2018

4〜5月に描いてた絵 姉たちに着せ替え人形にされて泣いて家を飛び出した李世民とそれを迎えにきた李淵パパ(長い) 流行ってるので… 李世民は死刑に該当する罪を軽減する代わりに一度肉刑(脚切りの刑)を復活させたものの甚だ後悔し、紆余曲折して肉刑を撤廃した話が新旧唐書刑法志に載っています 太宗(李世民)は即位すると、長孫無忌、房玄齢らに学士や法官と共に現行の律令を改訂するよう命じた。戴冑と魏徴が「旧来の律は刑罰が重きにすぎます」と上奏したため、絞首刑に該当する五十条を審議し、死罪を免じてその右足を切り落とすこととした。これにより、死罪となるはずの者で生命を全うする者が多くあった。 しかし太宗は、刑を受ける者の苦しみに心を悩まし、侍臣に「前代の王朝が肉刑を行わなかったことはすでに久しい。今突如として罪人の右足を断つというのは、甚だ心中忍び難いものがある」と語って言った。 諫議大夫王珪がこたえて言った。「昔肉刑があったのは、死刑に比べて軽い罪とするためです。今陛下は死刑の多いことを哀れんで、足切りの刑を設けられました。本来ならば死刑であったものが、今は生命を全うし生きながらえられるようになったのです。刑を受けるものは幸いに命を全うできているのですから、どうして足の一本など惜しみましょうか?また、人が刑を受けた者を見れば、懲誡(懲罰の恐ろしさを示すもの)として十分でしょう」と。 太宗は言った。「朕はもともと、刑罰を寛容にしようと思いこの法を行なったのだ。しかし刑罰が実行されたと聞くたびに心が痛み、それを忘れることができない。」と。 また蕭瑀、陳叔達らに言った。「朕は、死刑になったものは再び甦ることができないので、哀れみを与えようと考え、死罪にあたる五十条を右趾切りの刑に軽減したのだ。しかし今は彼らの受ける苦痛が気にかかり、到底忍び得ない」と。 陳叔達らはみな言った。「古の肉刑は、死刑の他に独立した刑として存在したのです。陛下は死罪の中から律を改訂して足切りの刑としました。これは生を以て死に変える、寛大な法ではないですか」と。 太宗は言った。「朕の思うところもそのようであったので、足切りの刑を行うようにしたのだ。しかしその後の上書には、まったく適切とは思えないものもあった。公らは改めてこの件を検討してくれ」と。 そののち、蜀王法曹参軍裴弘献が律令の時宜を得ていない四十余りについて上奏した。太宗は裴弘献にも参与させて律について再検討させた。裴弘献と房玄齢らは建議して言った。「むかし五刑があり、刖刑(足切りの刑)はそのうちの一つでありました。肉刑が廃止されるに至って、死、流、徒、杖、笞の五等を定め、これを五刑としました。今また刖足を復活させれば六刑となります。死罪を足切りに減刑するのは肝要な処置でしょうが、刑罰の種類が増えるのは、煩雑さと峻酷さを加えることになりましょう。」と。 そこで尚書八座と意見を定めて上奏した。これによって断趾の刑は廃止され、改めて加役流三千里、居作二年とした。 (『旧唐書』刑法志) 李世民さんの後悔しっぷりがすごい 李世民さんって聞き分けいいけど筋通さないといけないときは頑固なときめちゃくちゃ頑固になるところが好き…

玄甲軍漫画1

March 06,2018

字読みにく… 年に一度くらいの頻度で描く玄甲軍の装束 参考にしたのは昭陵六駿颯露紫像と『中国古代甲冑図鑑』(劉永華著、春日井明訳、アスペクト 1998)です (左:昭陵六駿颯露紫像 右:章懐太子墓(李賢王墓)壁画) 丘行恭像の矢筒についている飾りがよくわからなくて、李賢墓壁画なんかで見るような貂とかの動物のしっぽかと思ったけど確信が持てなかったので適当に描いてしまった 屈突通と尉遅敬徳の二人をよくセットで描いていますが、この二人は『旧唐書』太宗本紀の史評でまとめて紹介されています 臣の文皇帝を観るに、迹(あと)を発すること多奇、聡明神武たり。人物を抜けば則ち党に私せず、志業を負えば則ち咸(みな)その才を尽くす。屈突、尉遅の仇敵によりて心膂を傾けんことを願い、馬周、劉洎の疏遠より卒(つい)に鈞衡を委ねる所以なり。 (『旧唐書』本紀第二太宗) 屈突通はもともと隋の忠臣で、李世民以外が降した降将で、李淵に重任され李世民陣営に入りそのまま李世民の忠臣に 尉遅敬徳は隋末に劉武周の配下となり、李世民が直接降した降将で、李世民陣営からそのまま李世民の忠臣に 同じ「仇敵」でも対照的な二人ですね…

『貞観政要』より魏徴李世民

January 18,2018

〈太宗新たに位に即き、精を政道に励まし、たびたび徴を引いて臥内に入れ訪(と)うに得失を以てす。 徴雅(つね)より経国の才有り、性又抗直にして、屈撓する所無し。 太宗、之と言う、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦知己の主に逢うを喜び、其の力用を竭(つ)くし、知りて言わざるは無し。〉 (『旧唐書』列伝第二十一 魏徴) /// 「訪(と)うに得失を以てす」「性又抗直にして、屈撓する所無し」、李世民は寝室で自分の過失や良かったことについて尋ね、魏徴は李世民に面折してはっきりと欠点を指摘した、という意味なのでこの絵とは若干趣きが異なりますが… でも『貞観政要』などを読むとこの二人はわりとほのぼのした政治問答してるときも多いですよね ところで『旧唐書』房玄齢伝の〈玄齡既遇知己、罄竭心力、知無不為。〉と同書魏徴伝の〈徵亦喜逢知己之主、思竭其用、知無不言。〉の記述が対になってることにある日ふと気が付きました 知己(李世民)と出会い心力を尽くし知りて為さざる無きの玄齢と、知己との出逢いを喜び知りて言わざる無きの魏徴 正史のこの記述はともに『貞観政要』巻二の〈玄齡既喜遇知己、遂罄竭心力。〉〈徴亦喜逢知己之主、竭其力用〉をほぼ移植しており、玄齢と魏徴が各々自分の本領で李世民を支えていたとする認識は貞観以降早期、あるいは李世民と同時代の人間にも共有されていたのかもしれません…