Tag Archives: 長孫皇后

平陽公主

August 06,2022

唐の平陽公主 李淵の三女、李世民の同母姉。隋末の争乱期に数万の軍を率いて戦った。平陽公主の率いる軍は軍中で「娘子軍」と称された isfahanさんのブログの記事がめちゃ面白いので読んでください 娘子軍 – 積水極むべからず 李家の家系図 気がついたら吊り目−垂れ目の組み合わせばっかりになってる 李治は目元長孫氏似で垂れ目という設定です 『唐會要』巻六に李淵は平陽公主が軍功を挙げるたびに他の公主にはない特別な褒賞を与えたと書いてあってエモ…と思いました 平陽公主の葬儀に軍楽を用いたという話といい娘を一人の軍人として扱う淵パパかなりいいですね。平陽公主を独立した人間として見ているのが 一方の李世民さんは高句麗遠征の最中李治に「頭が痛くなったらすぐに言ってね、お父さんも病気になったら手紙を書くから…」という親バカな手紙を送っていた(《両度帖》) まあ李淵の下で親兄弟と揉めに揉めた李世民さんに李淵の子育てを手本にしろというのは酷な話か… サイトのサーバー契約更新してきたのでまた一年サイト運営頑張ります 閲覧してくださる方、拍手くださる方いつもありがとうございます🫶…

長孫皇后(ちょっと李世民)

June 30,2017

李世民の皇后の長孫氏 聡明で教養があり倹約家で李世民を献身的に支える賢后…なのですが、 なにより史料から李世民を心から愛して李世民に心から愛されていたのが伺えるのが最高です 唐太宗一生最爱的女人长孙皇后(https://www.douban.com/group/topic/70032777/) 中国語のサイトですが参考になるまとめ 冒頭では長孫皇后が「長孫晟の第二子で唯一の女子」とされていますが、実際には晟には五人の男子と三人の子がおり、この数字は間違っています あと長孫氏が開元通宝の原型にうっかり爪痕を残したせいで当時通用していた貨幣にその傷跡があるという話も伝承の類のものです(詳しくは中村裕一『中国古代の年中行事』第二巻 三十一 六月、鋳銭の休業月を参照) 長孫氏の体調が芳しくないのを心配した李世民が玄中寺の高僧道綽を訪ね、大量の珠宝を奉納して長孫氏の幸福を願ったのは本当。ただし貞観二年の即位後のことらしい(『金石萃編』巻八十四林諤撰《石壁寺鉄彌勒像頌碑》) まだいろいろあるけどファクトチェック必須なので逆に読まない方がいいかもしれない…(参考になると言ったのは…)…

喜怒哀楽に連動する翼善冠の耳(李世民、長孫皇后、李世勣、褚遂良)

March 27,2017

耳が連動している 喜の元ネタが最高なので書いておきます 貞観二十一年(西暦647年)、李世民は翠微殿へ御幸し、侍臣に訊ねた。 「古の帝王は、中華を平定できても戎・狄を服従させることはできなかった。朕は古人に才能では及ばないが、成功では上回っている。しかし自分ではその理由を知らない。諸公は各々率直に意見を言ってみろ」と。 群臣はみな讃えて言った。 「陛下の功徳が天地に行き渡っているので、万物がその下に入ったのです」と。 李世民は言った。 「そうではない。朕が成功したのには五つの理由がある。 一つに、古来の帝王は己より優秀な者を忌んだが、朕は人の長所を自分のもののように思う。 二つに、人には得意不得意があるが、朕は短所は見ずに長所を取る。 三つに、人主は往々に賢人を出世させれば慕われたいと思い、不肖を退けるときは谷へ落とそうとする。朕は賢者を見れば敬い、不肖の者を見れば憐む。賢人にも不肖にも各々得る場所がある。 四つに、人主の多くが正直者を憎み、陰で誅し公に殺戮することの無い時代はなかったが、朕は即位して以来正直の士と朝廷で肩を並べ、未だかつて一人も責罰を与えた者はいない。 五つに、古来から皆中華を貴び夷狄を卑しく扱うが、朕は一人これを同一に愛する。故にその種落の人間は皆、朕を父母の如く慕うのだ。この五つが朕がこんにち成功した所以だ。」と。 李世民は褚遂良を顧みて言った。 「公はかつて史官を務めていたが、朕の言葉は実を得ているか?」と。 褚遂良は言った。…