『朝野僉載』郝處俊の機知

唐 張鷟『朝野僉載』より 郝處俊の機知


唐太宗問光祿卿韋某、須無脂肥羊肉充藥。韋不知所從得、乃就侍中郝處俊宅問之。俊曰「上好生、必不為此事。」
乃進狀自奏「其無脂肥羊肉、須五十口肥羊、一一對前殺之、其羊怖懼、破脂並入肉中。取最後一羊、則極肥而無脂也。」上不忍為、乃止。賞處俊之博識也。
(唐 張鷟『朝野僉載』巻第六)

李世民は光禄勲の韋某(名前不詳)に、脂身の無い肥えた羊肉で薬を作るよう問うた。韋はどうしてよいか分からず、侍中の郝處俊1郝處俊(607‐681)は太宗・高宗に仕えた名臣。安州安陸の人。父の郝相貴は隋末に妻の父許紹と共に硤州から唐に帰順し、功を以て滁州刺史を授けられ、甑山縣公に封ぜられた。父相貴が滁州で卒すると、その故吏が贈賄をしてきたが、ことごとく辞して受け取らなかった。読書に通じ、『漢書』を好んで略能暗誦した。貞観年間に本州進士となり、吏部尚書高士廉はこれを甚だ奇とした。著作佐郎を授けられ、甑山縣公を襲爵した。一時官を棄て家に戻り農耕に親しんだが、しばらくのち太子司議郎となり、五遷して吏部侍郎となった。乾封二年(西暦667年)、司列少常伯となった。高句麗が反叛を起こすと、李勣の副管となり征討に従軍した。處俊は度々李治が武后を重用するのを諫め、その意見を重用された。開曜元年(681年)に七十五歳で卒した。處俊は『旧唐書』列伝第三十四と『新唐書』列伝第四十に、祖父許紹は『旧唐書』列伝第九と『新唐書』列伝第十五に伝がある。の宅を訪れて尋ねた。
處俊は答えた。「上(李世民)は生を好む(死を好まない)ので、必ずやおやめになるでしょう。」
處俊は自ら上奏して言った。「脂身の無い肥えた羊を得るためには、まず50頭の肥えた羊を用意し、一頭ずつ殺していくのです。そうすれば羊は恐れおののき、脂身が破れて肉の中に入り込みます。最後に一頭だけ残った羊は、極めて肥えておりますが脂身はありません。」
世民はこれを忍びなく思い、ついに取り止めとし、處俊の博識を褒めたのであった。


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    郝處俊(607‐681)は太宗・高宗に仕えた名臣。安州安陸の人。父の郝相貴は隋末に妻の父許紹と共に硤州から唐に帰順し、功を以て滁州刺史を授けられ、甑山縣公に封ぜられた。父相貴が滁州で卒すると、その故吏が贈賄をしてきたが、ことごとく辞して受け取らなかった。読書に通じ、『漢書』を好んで略能暗誦した。貞観年間に本州進士となり、吏部尚書高士廉はこれを甚だ奇とした。著作佐郎を授けられ、甑山縣公を襲爵した。一時官を棄て家に戻り農耕に親しんだが、しばらくのち太子司議郎となり、五遷して吏部侍郎となった。乾封二年(西暦667年)、司列少常伯となった。高句麗が反叛を起こすと、李勣の副管となり征討に従軍した。處俊は度々李治が武后を重用するのを諫め、その意見を重用された。開曜元年(681年)に七十五歳で卒した。處俊は『旧唐書』列伝第三十四と『新唐書』列伝第四十に、祖父許紹は『旧唐書』列伝第九と『新唐書』列伝第十五に伝がある。