『朝野僉載』「吃醋」 李世民と任瓌の妻

唐 張鷟『朝野僉載』より 「吃醋」 


初、兵部尚書任瓌敕賜宮女二人、皆國色。妻妒、爛二女頭髮禿盡。太宗聞之、令上宮齎金壺瓶酒賜之、云「飲之立死。瓌三品、合置姬媵。爾後不妒、不須飲、若妒、即飲之。」
柳氏拜敕訖、曰「妾與瓌結髮夫妻、俱出微賤、更相輔翼、遂致榮官。瓌今多內嬖、誠不如死。」飲盡而臥。然實非鴆也、至夜半睡醒。帝謂瓌曰「其性如此、朕亦當畏之。」因詔二女令別宅安置。
(唐 張鷟『朝野僉載』巻三)

はじめ、兵部尚書の任瓌1任瓌(任瑰)(?‐629)、字は瑋、廬州合肥の人。陳鎮東大将軍蠻奴の弟の子である。父の七寶は陳に仕えたが早くに亡くなり、瓌は蠻奴に養育された。十九歳で衡州司馬になり、都督の王勇に重用されたが、王勇が隋に降ると官を棄てて家に戻った。李淵が山西の討伐に当たった際に轅門にて謁見し、河東縣戸曹に任命された。太原では長子李建成とともに留守を任された。また龍門で李淵に謁見し、挙兵を勧めた。李淵が即位すると谷州刺史となり、王世充討征で功績を上げ、管國公に封ぜられた。瑰は親戚を多く重用し人事が公平ではなく、妻の柳氏(『旧唐書』任瓌伝では妻を劉氏とする)は嫉妬深く残酷であったため、人々はこれを批難した。輔公祏を討伐した功績により邢州都督となった。玄武門の変が起こると、瑰の弟の璨は典膳監であったため瑰も連座して通州都督に左遷された。貞觀四年に卒した。瑰が卒した際、対仗奏事(官人が儀仗兵・百官の居並んだ中で奏事し君臣間で討論する、公開性の高い上奏)を行った有司がおり、李世民は怒って言った。「かつて杜如晦が亡くなった際、私は数日なにも手につかずにいた。今有司の奏事が私の意に叶っているであろうか?私の子弟に不幸があった際、どうしてこのような奏事をしよう。」これによって、大臣が亡くなった際は、対仗奏事を忌諱するようになった。『旧唐書』列伝第九、『新唐書』列伝第十五に伝がある。
は、〔李世民から〕宮女二人を賜った。どちらも國色(美女)であった。任瓌の妻は嫉妬し、宮女二人の頭髪を焼き、丸坊主にしてしまった。世民はこれを聞くと瓌の妻を宮廷に召し出し、金の壷に入った酒を賜って言った。
「これは飲めばたちまちに死んでしまう毒だ。瓌は三品の高位にあり、妾を持っても何の問題もない。もし今後嫉妬しないと誓うなら、これは飲まなくとも良い。もし嫉妬するのであれば、ただちにこれを飲め。」
妻の柳氏は聞き終えて言った。「私と瓌は夫妻の契りを結び、共に微賤から身を立て、お互いを支え合って遂に高官にまで出世しました。今瓌が多く妾を得ようとするなら、死んだ方がましでしょう。」
柳氏は酒を飲むとそのまま倒れた。しかしそれは毒でも何でもなかったので、夜半に至って目を覚ました。
世民は瓌に言った。「彼女の性質はこの通りである。私も畏れ入る。」詔して、宮女二人を別宅に安置させた。


【補足】
『隋唐嘉話』はこの話を房玄齢とその妻盧氏の説話とするが、任瓌の妻劉氏の嫉妬深さは任瓌伝にも記されており、『朝野僉載』が正しいと思われる。
玄齢の妻盧氏は『新唐書』列女伝に伝がある。〈房玄齡妻盧、失其世。玄齡微時、病且死、諉曰「吾病革、君年少、不可寡居,善事後人。」盧泣入帳中、剔一目示玄齡、明無它。會玄齡良愈、禮之終身。〉(房玄齢の妻の盧氏は、出身経歴は伝わっていない。玄齢は身分が低かったころ、病にかかり瀕死の状態となった。玄齢は妻に委ねて、「私の病気は重く、君はまだ年も若い。一人で暮らさせるわけにはいかないから、後夫を見つけなさい」と言った。盧氏は泣いてとばりの中に入り、片目をえぐって玄齢に示し、後夫に嫁ぐ気がないことを明らかにした。たまたま玄齢の病は快方に向かい、礼の道は終身のものとなった。)


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    任瓌(任瑰)(?‐629)、字は瑋、廬州合肥の人。陳鎮東大将軍蠻奴の弟の子である。父の七寶は陳に仕えたが早くに亡くなり、瓌は蠻奴に養育された。十九歳で衡州司馬になり、都督の王勇に重用されたが、王勇が隋に降ると官を棄てて家に戻った。李淵が山西の討伐に当たった際に轅門にて謁見し、河東縣戸曹に任命された。太原では長子李建成とともに留守を任された。また龍門で李淵に謁見し、挙兵を勧めた。李淵が即位すると谷州刺史となり、王世充討征で功績を上げ、管國公に封ぜられた。瑰は親戚を多く重用し人事が公平ではなく、妻の柳氏(『旧唐書』任瓌伝では妻を劉氏とする)は嫉妬深く残酷であったため、人々はこれを批難した。輔公祏を討伐した功績により邢州都督となった。玄武門の変が起こると、瑰の弟の璨は典膳監であったため瑰も連座して通州都督に左遷された。貞觀四年に卒した。瑰が卒した際、対仗奏事(官人が儀仗兵・百官の居並んだ中で奏事し君臣間で討論する、公開性の高い上奏)を行った有司がおり、李世民は怒って言った。「かつて杜如晦が亡くなった際、私は数日なにも手につかずにいた。今有司の奏事が私の意に叶っているであろうか?私の子弟に不幸があった際、どうしてこのような奏事をしよう。」これによって、大臣が亡くなった際は、対仗奏事を忌諱するようになった。『旧唐書』列伝第九、『新唐書』列伝第十五に伝がある。