突厥の官制・官号

突厥の官制や官号、中国史料における古代テュルク語についての備忘録
参考資料:『隋書』(唐 / 魏徴等撰、中華書局 1973)
『舊唐書』(後晋 / 劉昫等撰、中華書局 1975)
『新唐書』(北宋 / 欧陽脩・宋祁等撰、中華書局 1975)
『騎馬民族史 – 正史北狄伝』2(佐口透・山田信夫・護雅夫等訳註、東洋文庫 1972)
『西突厥史の研究』(内藤みどり、早稲田大学出版部 1988)
『古代トルコ民族史研究』Ⅰ〜Ⅲ(護雅夫、山川出版社 1992)
小野川秀美「鉄勒の一考察」(『東洋史研究』1940)
その他は適宜記載


中国史書の伝える“突厥”について / TürüktかTürkか

〈現在西アジアから中央アジアにかけて広範に分布しているトルコ系民族は、もと、現在のモンゴリアとそれ以西の草原地帯を本拠とする遊牧騎馬の民であった。かれらは六世紀半ば、モンゴリアを中心に民族史上最初の、帝国的規模と構造とを持った国を建設した。それが中国人のいう突厥である。「突厥」をふつうわが国では「とっけつ」と読むが、「とっくつ」と読むべきとの説もあり、いずれにしろ、隣接のモンゴル系民族が「テュルク人」を意味してテュルキュト Türükt とよんだ、それを中国人がこの漢字で写したとするのが通説である。〉(佐口・山田・護 1972,p28)
突厥という語については、これをテュルク(Türk)にモンゴル語複数語尾 -üd(-üt)の付けられた形、テュルキュト(türükt)の漢字音写とするマルクワト、ペリオの説が支配的であった。宮崎市定は「厥」に「クツ」という音もあったことを踏まえ、突厥は「とっけつ」ではなく「とっくつ」と読む方が原音テュルキュトに近いという説を出し、学者の中にはこれに従うものも少なくない。しかし近年プーリイブランクは、突厥をことさら Türükt の音写と見なす必要はなく、これは Türk という音をそのまま写した漢字であるという説を提唱した。プーリイブランクの見解をとれば、突厥をわざわざ「とっくつ」と読む必然性はなく、その通音に従い「とっけつ」と読んで差し支えはない。(佐口・山田・護 1972,p191)
テュルク Türk の名称の意義については、「強力な(もの)」を意味するというミュラーの説が有力ではあるが、コノノフの意見をはじめ異論が少なくない。(佐口・山田・護 1972,p192)


突厥と鉄勒について

オルホン碑文、イェニセイ碑文などに依ってテュルク民族自身の呼称を検分すると、 Türk は突厥でも東突厥を指す名称であり、西突厥は On、Oq と呼ばれる。漠北における鉄勒1鉄勒…隋唐代において広くテュルク系民族をさした呼称。 Türk の音訳語とみられる。鉄勒は漢代の丁零、そののちには敕勒などと呼ばれた民族の後裔であり、カスピ海北方の広大な草原に分布していた。そのなかでアルタイ山脈周辺にいた阿史那氏が独立し、六世紀の中頃に突厥帝国を建国したが、隋唐の史料では突厥以外のテュルク系民族を指して鉄勒と総称する。
九部の総合体、九姓鉄勒は Toquz Oγuz にあたり、 Säqiz Oγuz、 Alti Oγuz と、おそらく八姓鉄勒、六姓鉄勒と名づくべきものも見える。 Türk はテュルク民族の総称ではなく東突厥の独占する名称となり、西突厥並びに鉄勒諸部の総合体は、それぞれ別個の呼称を持っていることが注意される。西突厥が On、Oq と呼ばれるのは、それが十箭に分かれていたのに由来する。(小野川 1940)
九姓鉄勒と Toquz Oγuz については、片山章雄「Toquz Oγuzと「九姓」の諸問題について」『史学雑誌』1981 を参照。


突厥の官制

〈突厥の阿史那氏は、そもそもは昔の匈奴の北方の一氏族であった。のちに金山(アルタイ山)の南にて蠕蠕(柔然)の支配を受けたが、子孫は繁栄し、吐門のときになってきわめて強大となった。かれらは可汗(カガン)の称号をとったが、これは匈奴の単于のようなものであり、妻は可敦(カトゥン)と言った。その支配圏は三方は海に近く、南は大きな砂漠(ゴビ砂漠)に接している。所領を別にして軍隊を持ち指揮するものを(シャド)といい、可汗の子弟を特勒(テギン)といった。可汗の臣のうち重要なものは、葉護(ヤブグ)、屈律啜(キュルチュル)、阿波(アパ)、俟利発(イルテベル)、吐屯(トドン)、俟斤(イルキン)、閻洪達頡利発(イルテベル、誤って俟利発と重複する)、達干(タルカン)などで、官職は全部で二十八等級ある。その官位は世襲であり、定員はない。衛士を附離(ブリ)という。可汗は都斤山(ウテュケン山)2都斤山(ウテュケン山)…ウテュケン Ütükän は都斤山の他に、都尉鞬山(『旧唐書』)、烏徳鞬山(『新唐書』)、鬱督軍山(新旧唐書)、於都斤山(『周書』)、都斤山(『隋書』)、大斤山(『隋書』)とも書かれ、北モンゴリアのハンガイ山脈の一部を指す。それに接したオルホン河上流域は、しばしばウテュケンの地と呼ばれ、古来北モンゴリアを支配するトルコ系モンゴル系民族の最大の要地であった。(山田信夫「チュルクの聖地ウトゥケン山」『静岡大学文理学部研究報告』)(佐口・山田・護 1972,p35)
に支配の拠点を置き、本営の入り口には金の狼頭をつけた大旗を立て、常に東に向かって席を占めている。〉
(『新唐書』列伝百四十上 突厥上)

可汗(カガン:qaγan)…可汗国における帝号。匈奴における単于に相当する。
可敦・可賀敦(カトゥン:qatun)…可汗の皇后に与えられる称号。匈奴における閼氏に相当する。
特勒・特勤(テギン:täginまたはティギン:tigin)…テュルク諸族において可汗の子弟が帯びた称号の一つ。中国の正史では殆どの場合「特勒」と写される。外国の学者の中には特勒をテュルク語で一種の高官(本来は「天幕上の最上階」「法律」を意味するtölrä)の音写と考えるものもいるが、これは誤りである。(佐口・山田・護 1972,p196)特勒は特勤の誤りとするのがほとんどの定説だが、誤字ではないとする見解もある。(佐口・山田・護 1972,p33)
葉護(ヤブグ:yabγu)…可汗国の西部(タルドゥシュ:tarduš)を統括する高官。王族である阿史那氏の中から任命される。突厥においては設と共に可汗に次ぐ称号とされた。
設・察・殺(シャド:šad)…可汗国の東面(テリス:tölis)を統括する高官。葉護同様王族である阿史那氏の中から任命される。東突厥第一可汗国におけるシャドはすべて阿史那氏一門の出身であり、多くは突厥国家内要地に強盛な部落を所有し、大可汗とは別にこれを支配した。これらの支配領域の中に、阿史那氏に征服された鉄勒、回鶻(回紇)、靺鞨などが住居し、シャドはこれらの君主を通して徴税していたのであり、大可汗の領域と並んでこれと並立する封建的な領地を得ていた。プリーブランクやヒルトは設を単なる軍事司令官とするが、この解釈は不十分である。(護 1992)
屈律啜(キュルチュル:köl čur)…köl:キュルはもともと湖を意味し、それが転じて「湖が水をたたえているように知恵で満ちた(もの)」を示すにいたり、称号や人名、またはその一部として用いられた。(佐口・山田・護 1972,p210)
(チュル:čur)…称号であるが、意味は不明。(佐口・山田・護 1972,p210)咄六部の長に与えられる称号の一つで、突厥の王族阿史那氏以外の最高官。(内藤 1988)
俟斤(イルキン:irkin)…俟斤・乙斤とも音写される。突厥の被支配部族の部族長が帯びた称号。(佐口・山田・護 1972,p198)西突厥におけるイルキンは、啜:čurとともに西突厥を構成する部族の首長たちに授与された。(内藤 1988)
頡利発・俟利発(イルテベル:iltäbärまたはエルテベル:eltäbär)…頡利発・俟利発・意利発・頡利吐発・頡利調発とも音写される。東突厥では被支配部族でも比較的有力部族の部族長が帯びた称号。iltäbärまたはeltäbärは古代テュルク語で「部族を支配するもの」を意味する。東突厥についていえば、これに対して比較的弱小な部族の首長はイルキン(俟斤:irkin)と称した。西突厥についてもほぼ同じことが言えると思われるが、なお検討が必要。(佐口・山田・護 1972,p197-198)護は イルテベル:iltäbär、イルキン:irkin は突厥支配下の鉄勒部の長に与えられた称号であったとするが(護 1992)、実際は西突厥の部族長にも与えられた称号である。(内藤 1988)
阿波(アパ)…
吐屯(トドン:tudun)…突厥支配下の諸国に対する監察官、貢納徴収官。(佐口・山田・護 1972,p210)また本来は監察官であったが、支配下の他部族や他王朝に派遣された場合には監察官と督税官の両面を兼ねたと考えられる。(内藤 1988)
達干・達官(タルカン:tariqan)…タルカン:tariqan は、中国で顕官を意味する「達官」のテュルク語による音写で、それがふたたび中国に伝えられて達干と写されたのではないかと思われる。(佐口・山田・護 1972,p220)キョル=テギン碑文によれば、梅録 ブイルク:buïruq と共に突厥幹部の行政幹部を構成した高官であった定義される。(護 1992)
閻洪達…突厥の官号の一つだと考えられるが、語源・意味・機能は今のところ不明。(佐口・山田・護 1972,p198)
附離(ブリ:böri)…侍衛の官。古代テュルク語で「狼」を指し、もともとの始祖が狼であることを忘れないようにその名が付けられたとする。(『周書』突厥伝)


東突厥第一帝国滅亡後(羈縻支配時代)の突厥の官号3突厥可汗国の時代区分では、第一可汗国の滅亡後、第二可汗国が復興するまでの約五十年間(西暦630 – 682年頃)を唐朝による羈縻支配時代ととらえる。

天可汗(テングリ・カガン:Täŋri-Qaγan)
貞観4年(西暦630年)に唐が突厥第一可汗国を平定した際、北方部族の酋長らが太宗李世民に推戴した称号。
Täŋriはアジア北方の遊牧民族に共通する「天」「天上世界」を意味する概念で、「天なる可汗」の意。
いわゆる突厥碑文(古代テュルク語で書かれた碑文)では、突厥の可汗は〈Täŋritäg täŋridä bolmiš türk bilgä qaγan〉=「「天」(または「神」)の如き、天にて(または「天」より)生まれたるテュルクの賢明なる可汗」、あるいは「天(または「神」)の如く、天にて成りたるテュルクの賢明なる可汗」などと称せられた。(佐口・山田・護 1972,p206)

左賢王・右賢王
唐王朝配下の突厥人が帯びた官位。もともとは匈奴の国制における称号の一つ。匈奴には単于(匈奴の最高位)の下に左右賢王、左右谷蠡王、左右大将といった二十四の長があり、左賢王は右賢王と共に単于に次ぐ地位である。左賢王は匈奴領域内の左翼(東方)を、右賢王は匈奴領域内の右翼(西方)を統治する王将の一人で、左谷鑛王とともに最も大国を有した。左賢王の地位には常に太子が任命された。
突厥において、匈奴でいう左翼・右翼に相当する東西区画は、Tölis(テリス:東方、漢文史料の「左廂」)とTarduš(タルドゥシュ:西方、漢文史料の「右廂」)がそれにあたり、匈奴の左賢王にあたる官職としては突厥の Tarduš-Yabγu が、右賢王としては Tölis-Šad が対応する。 この左右廂の東西区画は羈縻支配下においても維持され、また第二可汗国復興後に唐統治下に残った突厥人に対しても名目上存続していた。すなわち突厥の左右賢王の称号は、左右廂を管轄する突厥人(おそらくはそれぞれの最高監督官)に対する唐側からの雅称であろうと推測される。(石見清裕「「阿史那毘伽特勤墓誌」訳試稿」『内陸アジア言語の研究』1992)


歴代可汗・有力者の称号について

【東突厥第一可汗国】
〔〕内は在位期間

土門可汗 / ブミン・カガン(Bumïn-Qaγan)
(ブグト碑文、ホショ・ツァイダム碑文に拠る)
・伊利可汗 / イリグ・カガン(Ilig-Qaγan)
ilイルは「国家」、ligリグは「持つところの」、「国家を保有する者」の意。(佐口・山田・護 1972)

木汗可汗 / ムカン・カガン(Muqan-Qaγan)

他鉢可汗 / タトパル・カガン
『隋書』では佗鉢可汗と表記される。
『ブグト碑文』(ソグド語碑文)ではマガ・タトパル・カガン(mγ’t’tp’r x’γ’n)(森安孝夫、オチル「モンゴル国現存遺蹟・碑文調査研究報告」1999)

第二可汗
『ブグト碑文』(ソグド語碑文)ではマガ・ウムナ・カガン(mγ’wmn’ x’γ’n)(森安、オチル 1999)

爾伏可汗 / ニワル・カガン
沙鉢略可汗 / イシュバラ・カガン(伊利倶盧設莫何始波羅可汗)(Il-Kül-Šad-Baγa-Ïšbara-Qaγan)
išbaraイシュバラは古代テュルク語でbaghaバガと共に「勇健」の意。沙鉢略、始波羅とも音写される。(佐口・山田・護 1972)

葉護可汗 / ヤブグ・カガン(Yabγu-Qaγan)
葉護(yabγu / ヤブグ)は可汗国の西部を統括する高官。王族である阿史那氏の中から任命される。突厥においては設(šadシャド)と共に可汗に次ぐ称号。
設(シャド:šad)は可汗国の東面を統括する高官。ヤブグと同様に王族である阿史那氏の中から任命される。察・殺とも音写される。東突厥第一可汗国におけるシャドはすべて阿史那氏一門の出身であり、多くは突厥国家内要地に強盛な部落を所有し、大可汗とは別にこれを支配した。これらの支配領域の中に、阿史那氏に征服された鉄勒、回紇(回鶻)、靺鞨などが住居し、シャドはこれらの君主を通して徴税していたのであり、大可汗の領域と並んでこれと並立する封建的な領地を得ていた。(護 1992)

達頭可汗 / タルドゥシュ・カガン(Tarduš-Qaγan)
tardušタルドゥシュ は古代テュルク語で「西部」。可汗国の西部を統治する可汗の意。西面可汗。ビザンツ史料では タルドゥ:Ταρδου と記された。(佐口・山田・護 1972)
また歩迦可汗とも。

倶陸可汗 / キュリッグ・カガン(Külüg-Qaγan)
külügキュリッグは古代テュルク語で「名声ある」「栄誉ある」「有名な」の意。
(鈴木宏節「突厥阿史那思摩系譜考:突厥第一可汗国の可汗系譜と唐代オルドスの突厥集団」 2005)

突利可汗(自称)→啓民可汗(意利珍豆啓民可汗)
tölisテリス は古代テュルク語で「東部」。可汗国の東部を統治する可汗の意。東面可汗。(佐口・山田・護 1972)

始畢可汗
sibiシビルの音写とする説もあるが、この見解は時代錯誤以外のなにものでもない。(佐口・山田・護 1972)

莫賀咄設 / バガテュル・シャド(Baγatur Šad)→頡利可汗 / イリグ・カガン(Ilig-Qaγan)
baγatur:バガテュル は古代テュルク語で「勇者」「英雄」の意。
内田吟風は「莫賀咄」を baγatur:バガテュル に比定するが、この言葉は突厥碑文には使われておらず、「英雄」「勇ましい」を指す場合はalp:アプル を用いるのが一般的であった。莫賀咄を baγatur に比定するのは断定しかねる。ふつう莫賀咄は、テュルク=モンゴル語で「勇者」「英雄」をしめす baγatur:バガトゥール の音写であるとされている。しかしこれは、バガ:baγa と チュル:čur (いずれも称号、ときには名前として用いられた言葉)を重ねた称号であるかもしれない。(佐口・山田・護 1972)

突利可汗 / テリス・カガン(Tölis-Qaγan)

【西突厥】

室点蜜可汗 / イステミ・カガン(Istemi-Qaγan)
『ホショ・ツァイダム碑文』に登場するIstemi-Qaγan(イステミ・カガン)、『メナンドロス』に登場するディザブロスにあたると考えられる。

阿波可汗 / アパ・カガン
阿波アパは可汗国における官職の一つ。葉護ヤブグ、屈律啜キュルチュルなどと並ぶ重要な臣の一つとされる。

泥利可汗 / ニリ・カガン

統葉護可汗 / トン・ヤブグ・カガン(Ton(tun)-Yabγu-Qaγan)
クリャシュトルヌィは「統」「暾」を「第一の」「最初の」などを意味するテュルク語 ton / トン、tun / トゥン の音写とする。(佐口・山田・護 1972)

莫賀咄侯屈利俟毘可汗 / バガテュル?・?・キュル・ひし・カガン
「屈利」は kölキュルの音写と考えられる。 キュルはもともと湖を意味し、それが転じて「湖が水をたたえているように知恵で満ちた(もの)」を示すにいたり、称号や人名、またはその一部として用いられた。グミリョフは「侯」を「諸侯」の意味にとるが誤りである。テュルク語の音写に相違ないがその原音は不明。(佐口・山田・護 1972)

咥力特勤 / テュルク・テギン(Türk-Tägin)→肆葉護可汗(乙毘鉢羅肆葉護可汗)
täginテギンまたはtiginティギンはテュルク諸族において可汗の子弟が帯びた称号の一つ。中国の正史では「特勒」「特勤」と写される。外国の学者の中には特勒をテュルク語で一種の高官(本来は「天幕上の最上階」「法律」を意味するtölrä)の音写と考えるものもいるが、これは誤りである。 (佐口・山田・護 1972)

咄陸可汗 / テュルク・カガン(Türk-Qaγan)→吞阿婁抜奚利邲咄陸可汗

奚利邲咄陸可汗 / イルテベル・テュルク・カガン(Eltäbär-Türk-Qaγan)→興昔亡可汗

同娥設 / トンガ・シャド(Toŋa-Šad)→沙鉢羅咥利失可汗 / イシュバラ・テリシュ・カガン
toŋaトンガは「豹」「英雄」を意味し、人名や称号として用いられた。
「咥利失」は古代テュルク語で「集めること」を意味するtirišティリシュ、terišテリシュの音写かもしれない。(佐口・山田・護 1972)

欲谷設 / ユクク・シャド(Yoquq-Šad)
クリャシュトルヌィは欲谷を古代テュルク語で「大切なもの、珍しいもの」の意であるyoquqユククを音写したものであるとする。この説は正しいと思われる。(佐口・山田・護 1972,p225)

乙屈利失乙毘可汗
『旧唐書』では莫賀咄乙毘可汗 / バガテュル・イビル・カガンと表記される。

薄布特勤(『新唐書』では畢賀咄葉護)→乙毘沙鉢羅葉護可汗 / イビル・イシュバラ・ヤブグ・カガン

乙毘射匱可汗 / イビル・しゃき・カガン

沙鉢羅可汗 / イシュバラ・カガン(Ïšbara-Qaγan)

【薛延陀】

薛延陀は鉄勒の有力部族の一つ。その祖先が薛種族と雑居し、のちに延陀部を滅ぼして、これを合わせて薛延陀と名乗った。〔可汗の〕姓は一利咥。鉄勒諸部のなかでも最も勢力が強く、その風俗はだいたいは突厥と同じである。(『新唐書』回鶻伝下)
原文には〈姓一利咥〉とあるが、『通典』巻百九十九には「可汗姓壱利吐氏」とあり、これは iltäriš と読めるかもしれない。(佐口・山田・護 1972)
海外では薛延陀を、いわゆる突厥碑文に見える シル:sir とタルドゥシュ:tarduš とから成る複合語、シル・タルドゥシュの音写とする説が有力であるが、これは誤りである。(小野川 1940)
ハウスィヒは薛延陀を東ローマの史料に見える セリンダ:serinda の音写であると考えているが、これには従えない。突厥のみならず、中央アジア、北アジアに関するハウスィヒの研究には誤りが多く、これを無批判に採用するのは慎むべきである。(佐口・山田・護 1972)

野咥(也咥)可汗(乙失鉢)
野咥(也咥)は Yädiz / Ädiz を指すか、一利咥あるいは Ärtisイルティシュ を指す語という説がある。(佐口・山田・護 1972)
乙失鉢はïšbaraの音写と思われる。 ïšbaraイシュバラ は baghaバガ と同様、古代テュルク語で「勇健」を意味する言葉。(佐口・山田・護 1972,p44)
『隋書』北狄 鉄勒伝において、野咥可汗は〈薛延陀内俟斤、字也咥、為小可汗〉と記述される。

真珠可汗(真珠毗伽可汗) / しんじゅ・びが・カガン / インチュ・ビルゲ・カガン(Yinčü-bilgä-qaγan)(乙失夷男)
yinčüインチュまたはYenčüイェンチュ は古代テュルク語で「真珠」の意。漢語の「真珠」あるいは「珍珠」の音を写したものである。bilgäビルゲ は古代テュルク語で「賢明なる」の意。(佐口・山田・護 1972)
夷男はinälイネルの音写と考えられる。イネルは称号、または鉄勒部の人名として用いられた言葉。(佐口・山田・護 1972)

突利失可汗 / テリス・カガン(Tölis-Qaγan)

多彌可汗(頡利倶利薛沙多彌可汗) / イリグ・キュリュグ・シャド・イステミ・カガン(Ilig-Külüg-Šad-Istämi-Qaγan)
薛の字は衍字であると思われる。(佐口・山田・護 1972)

伊特勿失可汗 / イトミシュ・カガン
伊特勿はitmiš / イトミシュ、古代テュルク語で「樹立させる」「立ちたる」の音訳かもしれない。(佐口・山田・護 1972)


  • 1
    鉄勒…隋唐代において広くテュルク系民族をさした呼称。 Türk の音訳語とみられる。鉄勒は漢代の丁零、そののちには敕勒などと呼ばれた民族の後裔であり、カスピ海北方の広大な草原に分布していた。そのなかでアルタイ山脈周辺にいた阿史那氏が独立し、六世紀の中頃に突厥帝国を建国したが、隋唐の史料では突厥以外のテュルク系民族を指して鉄勒と総称する。
  • 2
    都斤山(ウテュケン山)…ウテュケン Ütükän は都斤山の他に、都尉鞬山(『旧唐書』)、烏徳鞬山(『新唐書』)、鬱督軍山(新旧唐書)、於都斤山(『周書』)、都斤山(『隋書』)、大斤山(『隋書』)とも書かれ、北モンゴリアのハンガイ山脈の一部を指す。それに接したオルホン河上流域は、しばしばウテュケンの地と呼ばれ、古来北モンゴリアを支配するトルコ系モンゴル系民族の最大の要地であった。(山田信夫「チュルクの聖地ウトゥケン山」『静岡大学文理学部研究報告』)(佐口・山田・護 1972,p35)
  • 3
    突厥可汗国の時代区分では、第一可汗国の滅亡後、第二可汗国が復興するまでの約五十年間(西暦630 – 682年頃)を唐朝による羈縻支配時代ととらえる。