カテゴリ「読書48件]

『神仙幻想―道教的生活(シリーズ道教の世界5)』(土屋昌明、春秋社 2002)
春秋社シリーズ道教の世界の最終巻。
道教入門として編まれたシリーズにも関わらず著者の関心の高い範囲に射程がグッと絞られていて、それが大成功している本。時代範囲も最盛期唐王朝に絞られているので内容の濃度も濃い
長安の都市計画と道観の把握に始まり、宮城を取り巻く武則天、太平公主、李隆基ら権力の中枢と道教の関係を掘り下げ、郊外に住む公主の道教生活と山々を見渡し、最後は地方を旅する李白に行き着く
最盛期唐王朝を、中心から外へ空間的に移動しながら道教を見つめる。いい本だった…

春秋社シリーズ道教の世界、とにかくめちゃくちゃ面白くて全巻読み終えて燃え尽き症候群になってしまいました
道教入門のためのシリーズなのにどれも単純に読み物として面白いのが強い
読みやすさも各巻のテーマもいいし、著者ごとの味がよく出てるいし名シリーズです

読書

『飛翔天界―道士の技法(シリーズ道教の世界4)』(浅野春二、春秋社 2002)
台湾でのフィールドワークにもとづき、主に道教の死者救済儀礼についてそれを行う道士と儀礼の歴史、意味、効果などを詳細に解説した一冊
主に取り上げられている儀礼は丸二日がかりで行われた犬を供養する(犬を供養する理由も面白いので割愛)「無上十廻抜度大斎」で、儀礼のタイムスケジュールや構成、供物の内容、関わる道士の数や役割、身につける装束の種類までとにかく詳細にレポしてるのが面白い
死者救済儀礼を通して道教が死者の霊魂を扱う手つきや死者に対し果たす役割を読み解く終盤の筆致はかなり好き

読書

『老子神化―道教の哲学(シリーズ道教の世界3)』(菊地章太、春秋社 2002)
最初期の道教文献を読み解きながら、老子が人物像粉飾のフェーズを超えて宇宙の根元たる「道」そのものと同一視され、更に老子の哲学と神格化した老子が民衆(五斗米道等の反乱勢力を含む)を支える「信仰」となる過程を辿る
『老子』の語る思想がいつ、どんな人々によって受け止められ、道教の信仰がどのようにして生まれたのか。社会に抵抗した人々は『老子』に何を求め、どのような時代にどのような事情から『老子』を自分たちの原点としたのか。『老子』の思想と道教の信仰は一つか否か…という冒頭の問いの答えが畳み掛けるように紐解かれる終盤の流れがすごかったです
道教の哲学、終末思想、救世主思想とそれを選びとる民衆→信仰の誕生というのは同じ菊地先生の『儒教・仏教・道教 東アジアの思想空間』(講談社 2022)の「スモモの下で世直しがはじまる―くりかえされる予言の力」の章でも触れられていたけど、それを一冊使ってグッと掘り下げてる感じ
やっぱり菊地先生にとってここが道教のサビだったんだ…と思ったし、私もこの菊地道教観がめちゃくちゃ好き
春秋社シリーズ道教の歴史はどれも面白いのでほんとうに文庫版で出してほしい

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法藏館: 「\法蔵館文庫3月!/ 1月配本分が続々と書店様に並んでおりますが、次回配本のラインナップも確定いたしました! 次回は、 ▼牛山佳幸『〈小さき社〉の列島史』 ▼渡辺信一郎『増補 天空の玉座:中国古代帝国の朝政と儀礼』 ▼荒木浩『方丈記を読む:孤の宇宙へ』 の3本です。 ご期待ください! - X

渡辺信一郎先生の『天空の玉座:中国古代帝国の朝政と儀礼』が増補されて文庫化するそうです
渡辺先生のこの本と『中国古代の王権と天下秩序―日中比較史の視点から』(高倉書房 2003)は東洋史関連の本でも十指に入るくらい好きな本
法藏館さん一生愛します

読書

東方書店さんで『唐太宗全集校注』『大唐創業起居注箋證(附壺關録)』を買った
年明け読みます

読書

2023年の読書まとめです https://fudge.mond.jp/dec2823/
東洋史に関する論文は50本弱くらいしか読めてないし少ないな…
来年は読書メモの内容をもっとしっかりめに書き残したい

読書

九月、十月、十一月の読書
全然本読めてないのでまとめて書きます

『仙境往来―神界と聖地(シリーズ道教の世界1)』(田中文雄、春秋社 2002)
道教の全体像を内容や周辺文化から解説する「道教の世界」シリーズのうち、「道教の神界と宇宙観」(コスモロジー)について読み解く巻
神仙世界、聖地、名山、天、地獄、肉体の宇宙、儀礼空間についての情報を網羅していて、中国古来の世界観を学べる
「『抱朴子』と聖地」の章が好きです

『道法変遷―歴史と教理(シリーズ道教の世界2)』(山田利明、春秋社 2002)
「道教の世界」シリーズのうち「教理と歴史」(ヒストリー)について読み解く巻で、シリーズの総括的な本
道教に関する概説書にも良書が沢山あるけれど、入門書としては今まで読んだなかでもこれが一番くらいにいいです
道教教団登場以前の神仙思想や老子、荘子と道教の関係、後漢における道教教団の出現と、現代に至るまでの各王朝における教法、信仰、教団の変遷が概観でき、道教周辺の思想や信仰、文化についても紹介していて気が利いてます
後漢〜唐までは道教教団を主体としてた道教が、北宋以降は民間信仰が主になっていく様子が特に興味深かったです
北宋以降は交通網が整備されているので、地方でのみ名が知られた神も瞬く間に噂になって全国区から礼拝者が訪れるようになる。そんな風に民間で信仰される地方神を、道教界はちゃっかり道教の神に認定する(ちゃんとした手続きは踏む)
たとえば道教とはまったく関係なく、ある土地だけで祀られていた村の功労者がいたとして、それを聞き及んだ道士がその祠に「この人物ことまことの仙人であり、今ではその功績によって天上界で神君と称されている」などと書いた石碑を立てれば、その人は立派な道教神になったことになる。らしい
これを聞いた県の知事が参拝すれば知事公認の道教神となり、知事が参拝する頃には地元の役人によって祠は立派に修繕され、知事の上奏で皇帝がその神を知れば、皇帝は祠を大々的に改築し、廟なんかも立てちゃったり、神号なんかも賜っちゃったりして、村の守護神が国家公認の神になったりするらしい。草。いい意味で面白い
そんな感じで道教の神は増えても減ることはないので、中国はどんどん道教道教していく
中村裕一先生が『中国古代の年中行事』に「隋唐の年中行事は道教の神々関連のイベントが少ないのが特徴。宋元明清は道教関連の行事がめちゃある。だから隋唐と北宋以降は時代の雰囲気が異なる」ということを書いてて、まあなんとなくわかると思ってたんだけど、この本を読んだらこれか!と思った
唐までは道教道教してない。北宋以降はめちゃ道教道教する。この差が肌感で分かったのは嬉しい

『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』(松下憲一、講談社 2023)
twitterのTLで文体が軽いページの引用が流れてきてめちゃくちゃ警戒して読んだんですが、少なくとも隋唐代に関しては堅実な内容です
ネタに走ってる部分も全然講談社メチエの範疇内だと思う
隋唐のルーツが北朝にあることから、隋唐朝に過度に「北方的」な傾向を見出す拓跋国家論も、「中国に入ると北方の文化や民族もすべて漢化する(させられる)」のようなことさら「胡人/胡文化の漢化」を強調する論もどっち極端すぎて、隋も唐もそういった二元論で説明できるほど単純な時代じゃなくね?とモヤモヤしてたので、北朝隋唐について扱ったこの本が真っ当な内容だったのは嬉しい
鮮卑拓跋は中華文明を破壊したわけでも、それに飲み込まれたわけでもなく、「中華」を新しく変容させ、彼らが生み出し、あるいは作り替え、あるいは受け継いでいったものが、隋唐王朝にとっての「中華」であった、というのがも〜〜めちゃくちゃエモい
この時代について中華vs遊牧(鮮卑拓跋)という二項対立を排除し、俯瞰的にかつダイナミックに歴史の流れを書いているのがとにかく良かったです
文章も読みやすいしネタに走りすぎてもないし
正直どう書いても褒めたりないんだが…
ただ一個だけこの本と同先生の「后妃のゆくえ 北斉・北周の後宮」を読んで気になったのは、唐代で一番レヴィレート婚っぽい事例はおそらく李淵の後宮で最も寵愛されていた張婕妤、尹徳妃と李建成、李元吉が内通していたという話だと思うので(隠太子建成伝)、この事例についても取り上げてほしいかったってことですね
張婕妤、尹徳妃は李淵の後宮で最も寵愛され、親戚たちは宮府に務めており、李建成、李元吉と通じて李淵に李世民を讒言したため、李淵は世民を立太子する意思を無くした、というのがおおまかな内情なんですが、司馬光先生は私通については宮中の深秘であり真相はわからないとしているものの(資治通鑑190)、当時の政治状況や双方の立場、胡習の浸透具合などを踏まえると、私通関係にあったという記述もレヴィレート婚的な観点から検証されるべきと思います
これほんと指摘とかじゃなくて将来的に松下先生が北朝隋唐のレヴィレート婚についてまた何か書くならにこの件について検証してほしいという願望です
というか李淵の後宮とか張婕妤とか尹徳妃とか李建成とか李元吉についてレヴィレート婚的な観点から検証してる論文が今までないのがおかしいと思ってるので…ほんとう…

『アジア・中東の装飾と文様』(海野弘、パイインターナショナル 2023)
「アジア・中東」ってどういう射程??非ヨーロッパ圏を雑に括ってない?と思ったんですが、「シルクロードを通じて互いに影響しあったユーラシア大陸の王朝や地域」は全部射程です
というかシルクロードの終着地であるローマとかヨーロッパまでもちょっと含んでる
第一章ではシルクロードを通じて共鳴しあう文様たちが、第二章では西アジア、中央アジア、インド、中国各地の装飾文様の歴史が学べ、文様史の「縦の歴史」と「横の歴史」を抑えている良書です
写真も建築、服飾、装飾品、絵画などバランスよく掲載しているしブックデザインも洗練されてます
アジア文様史本で突如登場した良書って感じ
おすすめです
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読書

小島浩之「中国における記録媒体の変遷再考:文書料紙を中心として」
文書料紙を中心に、中国における記録媒体の変遷を考察した論文
唐貞観代に制勅に使われていた紙について、読む本によって唐初から黄麻紙を使っていた説と貞観代までは白紙で高宗(李治)期から防虫処理が施された黄紙を使っていた説と載っていて謎だったのですがこれを読んだら解決しました
(長文引用なので畳む)

文書への紙の普及が進む一方で、故事や伝統を尊ぶような部分には竹簡、絹布、石の使用が残るという逆転現象も見られるようになった。たとえば次の史料は唐代(609~907)における皇帝下達文書(王言)の料紙を規定するものである。
いま、冊書には竹簡を使用し、制書・慰労制書・発日勅には黄麻紙を使用し、勅旨・論事勅書および勅牒には黄籐紙を使用する。赦書は諸州に頒下するのに絹を使用する。
このように、記録媒体が完全に紙に置き換わった唐代でも、公文書の記録媒体として竹簡や絹布が使われているのである。史料の中で竹簡の使用が規定されている冊書は、唐朝において最も格式の高い重要な王言であり、より具体的には封冊(竹簡)、祝冊(木版)、即位冊・哀冊・諡冊・封禅冊・公主冊(玉)など、実際は種類によって竹材、木材、石材が使い分けられていた。また皇帝の特別の恩寵である恩赦の詔は、絹布に書かれて中央から発信された。紙の薄さは、偽造しにくいという点では長所となり文書の信用を高める効果があった。しかし、逆に破れやすいという点では短所となり、その格式と内容の永久性を担保する必要から冊書には堅固な竹や木や石を、皇帝の徳を称揚し罪人の生死を左右する重要性から恩赦の詔には破れにくい絹布を、それぞれ使う必要があったのである。
また、紙は虫など生物による被害を受けやすく、これは昔も今も情報の保存という点において深刻な問題となっている。上元三年(676)閏三月の詔には、
制勅の施行に関しては、すでに恒久的な規則が定められており、昨今では白紙が使用されているが、虫害が多発している。これより、尚書省が諸司・諸州に頒下する制勅や州が県に下す制勅は、みな黄紙を使用せよ。制勅を受領した官府は、内容を斟酌した上で巻子に仕立て、内容の確認や検査に備えよ。
とあって、皇帝の命令書である制(詔)や勅に白紙(染色していない白い紙)を使用していたところ、虫害が多発して、虫除けのために黄色に染色した紙に変更を余儀なくされたという。唐代の公文書は、差出と充所の上下関係により下行・上行・平行の 3 種があり、これらは、官府にあって常行される官文書、制勅など皇帝からの命令の王言、奏抄など皇帝の回答を必ず伴う「皇帝上呈文書」などに細分される。唐朝では、貞観十年(636)に初めて制勅に黄麻紙が使用されるようになり、上元三年に改めて黄紙使用の命令が出されていることから、制勅の料紙は「白紙(唐初)→黄紙(貞観十年)→白紙→黄紙(上元三年)」と変遷しているように受け取れる。もしくは、唐初から元三年までは黄白が混在して使われつつも、白紙が優勢であったと考えるべきかもしれない。

主要な記録媒体が簡牘から紙へと完全に切り替わった唐代において、皇帝下達文書の主要な料紙は黄麻紙と黄籐(藤)紙であった。麻紙は藤紙より歴史的にも古く質も良い格上の紙であり、文書の重要度と料紙の種類には相関関係が見出される。ただし、皇帝下達文書の中でも特殊な冊書は竹・木・玉といった前時代の記録媒体を引継ぎ、恩赦の制書である赦書は州への頒下までは絹布が、州から県へは黄紙が使用され、官僚の辞令書である告身には制勅の基本料紙である麻紙に装飾を施したものが使用されていた。唐代の公文書は、汎用的用途のものと専用的用途のものに二分でき、制度の変更や拡張、政治体制の変化によって、汎用的な文書から必要に応じて限定型・専用型などの文書が生み出されていったと考えられる。赦書は制書の用途を限定したものであり、告身は制勅奏抄の専用型とみなせるだろう。これらの料紙が汎用的な制勅と異なることからは、文書の機能や用途と料紙の種類の間にはある種の相関関係があると推測し得る。
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あ、ありがた情報〜〜
唐の公文書で使用されていた紙についてだけではなく唐代の文書行政についても学べて勉強になりました
唐代の公文書に使われた紙については同先生の「唐代公文書体系試論 中国古文書学に関する覚書(下)」に詳しいらしいので、そちらも読んでみようと思います

読書

九月の読書

何冊か読んだけど感想まとめられてないのでそのうち書きます
読んだのは『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』(松下憲一、講談社 2023)
『仙境往来―神界と聖地(シリーズ・道教の世界1)』(田中文雄、春秋社 2002)
読み途中なのが『アジア・中東の装飾と文様』(海野弘、パイインターナショナル 2023)
『アジア・中東の装飾と文様』は刊行後しばらくスルーしてたんですが中身確認したら予想の二十倍くらい良かったです

買ったけど手付かずの本たち
『隋―「流星王朝」の光芒』(平田陽一郎、中央公論新社 2023)
『中国の城郭都市―殷周から明清まで』(愛宕元、筑摩書房 2023)
『図解 中国の伝統建築 寺院・仏塔・宮殿・民居・庭園・橋』(李乾朗著、恩田重・田村広子訳、マール社 2023)
『アジア人物史第2巻 世界宗教圏の誕生と割拠する東アジア』(姜尚中総監修、集英社 2023)
隋末唐初の人物の伝記だけ先に読み終わってそこから進みません

『ポムポムプリン(1) ぼくたち、チームプリン!』(講談社 2023)はちゃんと読みました
公式ツイッターの一枚絵とチームプリン漫画で微妙にキャラの性格が違うのはわかってたですが、チームプリン漫画のプリンがマフィンよりかなり大人びてることがわかって良かったです
マフィンより遅くに寝て目覚まし時計が鳴る前に起きるプリン大人すぎる。プリンさん…
スタバのカスタム慣れしてるプリン見たときちむぷりフレンズたちよりプリンの方が大人なのか?と思ったけどその方向性で間違いないようです
あとプリンが陰でひそかにちむぷりフレンズの世話を焼いてるのにマフィンの自意識が「クールな一匹ハムだがプリンから目が離せないので仕方なく世話を焼いている」でド好みすぎるcp観
貞観朝の朝廷も李世民さんにめちゃくちゃ世話を焼かれてるのに「本来はクールなのに陛下から目が離せないので世話を焼いている」な臣下たち山ほどいそう 魏徴とか褚遂良とか李世勣とか尉遅敬徳とか長孫無忌とか なんなら房玄齢もそう
なんかほぼ全員該当しそう
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歴史創作読書

八月の読書

『歴史をひらく: 女性史・ジェンダー史からみる東アジア世界』(宋連玉・秋山洋子・伊集院葉子・井上和枝・金子幸子・早川紀代編集、御茶の水書房 2015)
感想
『唐人軼事彙編』(周勛初主編、嚴杰・武秀成等編、上海古籍出版社 2015)
感想

以上です 何も読んでないすぎる
春秋社のシリーズ道教の世界を9月に持ち越すことになるとは
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読書

『唐人軼事彙編』(周勛初主編、嚴杰・武秀成等編、上海古籍出版社 2015)
正史や墓誌以外の唐、五代、両宋の雑史、伝記、故事、小説から、唐〜五代十国(宋以前)の主要人物約2700人の逸事を人物別に集録した逸話集
隋末唐初の人物の知らない逸話がいっぱい読めるかも!と思って買ったんですけど、そもそも隋末唐初の人物がよく出る史料は唐宋史料筆記叢刊でだいたい買い揃えてるから9割出典込みで知ってる話だった
残り5%が知ってるけど出典まで把握してない話、あと5%はほんとうに全く知らない話
尉遅乙僧が平陽公主の肖像画描いてる話とか初めて知ったんですけどその絵見たすぎる
あと『資治通鑑』『冊府元亀』からの引用はないけど『資治通鑑考異』からはあって、これはかなり嬉しかったです
『資治通鑑考異』持ってないし全然読んでないので というか早く通鑑考異買った方がいい

読書

昨日伽羅香(きゃらこう)の字が伽羅であることに改めて気付いて独孤伽羅の伽羅じゃん!となった
伽羅が仏教由来の名前というのも伽羅香の存在も知ってたのに自分のなかで繋がってなかった アハ体験
宮川尚志「六朝人名に現れたる佛教語」(「東洋史研究」)によれば薛世雄も仏教由来の名前らしいです
仏の尊称の一つで世間において雄々しく一切の煩悩に打ち勝つ人を指す言葉だそう
息子二人はあんなに我欲に塗れてるのに…

歴史読書

李世民さんと長孫皇后の間に生まれた子どものうち、李泰、李治、李明達はそれぞれ小字または幼名が判明している(李泰:小字青雀、李治:小字雉奴、李明達:幼字兕子)
坂井田ひとみ「中国人の姓氏名字考」(『社会科学研究』16 1996)によれば、昔子どもの乳名・小名(親のつけるニックネーム)には縁起のいい文字を用いるよりも魔除け・無病息災を願い「賤名」をつけることが多く、当時は子どもの死亡率が高かったので、動物のように逞しく育つよう願って動物の漢字を用いることがあったらしい
昭陵六駿(馬)とか将軍(白鶻)とか動物好きだもんなくらいに思ってたけど、り、李世民さん…
これはかんぜんに親の愛でしょう
最愛の正妻である長孫氏の産んだ子どもたちには愛情もひとしおだったのではないだろうか
李世民は李明達が12歳で亡くなると食事も喉を通らず痩弱したというし、芯から子煩悩だったんだと思うと切ない

歴史読書

『歴史をひらく: 女性史・ジェンダー史からみる東アジア世界』(宋連玉・秋山洋子・伊集院葉子・井上和枝・金子幸子・早川紀代編集、御茶の水書房 2015)
2013年開催日中韓女性史国際シンポジウム「女性史・ジェンダー史からみる東アジアの歴史像」の諸報告と、2014年開催総合女性史学会大会「女性史・ジェンダー史からみる東アジアの歴史像―女性史の新たな可能性を求めて」における諸報告を再構成し1冊にまとめた本
第一セッションでは5〜9世紀の中国・韓国・日本に出現した女帝、女王、女主などと呼ばれる女性統治者、女性権力者の存在形態と国家構造について、第二セッションでは10〜18世紀の「家」の変化を中心に社会構造や儒教などのイデオロギーが家の構成や夫婦や親子の人間関係に与える影響について、第三セッションでは19、20世紀の女性の移動を労働の観点から取り上げる
各セッションごとに「成果と課題」と「コメント」(書評みたいなの)が付いていて、これがけっこう手厳しくて読み応えがある
姜英卿著、井上和枝訳「新羅における善徳女王の即位背景と統治性格」を目当てて読んだんですが、この論考の首をかしげる部分はちゃんと「コメント」で指摘されてました
この的確なコメント誰が書いてるんだと思ったら李成市先生だったので完全に得心
李成市先生は善徳女王の父・真平王の時代から対倭外交がはじまったこと、また日本の「女帝の時代」(590〜770)に新羅との外交が盛んであったこと、善徳・真徳女王の親唐政策、唐から見た善徳女王の存在感などから倭→新羅→唐へ「女帝即位の構想がミーム化」し伝播したのではないかと指摘していて、私としては姜英卿先生の報告よりこっちの方が興味深かった
あと李世民さんが善徳女王に香りのない牡丹の花の絵を送った話信憑性ないと思ってたけど、姜英卿先生の報告で善徳女王が即位後に芬皇寺(芳しい皇帝の寺)という名前の寺院を立ててたと知って笑った 喧嘩じゃん
李世民さんが善徳女王に香りのない牡丹の花の絵を送った話は史料によって意味合いに相違があるので機会があればサイトにまとめたい

読書

太宗嘗召司徒長孫無忌等十餘人宴於丹霄殿、各賜以貘皮、萬徹預焉。太宗意在賜萬徹、而誤呼萬均、因愴然曰「萬均朕之勳舊、不幸早亡、不覺呼名、豈其魂靈欲朕之賜也。」因令取貘皮、呼萬均以同賜而焚之於前、侍坐者無不感歎。(『旧唐書』薛萬徹兄萬均伝)
(訳)太宗(李世民)はかつて司徒長孫無忌ら十数人を召し出して丹霄殿で宴席を開き、各々に貘皮(パンダの毛皮か)を賜った。薛萬徹もその宴席に列席していた。太宗が萬徹に毛皮を賜ろうとしたところ、誤って萬徹の兄の萬均の名を呼んでしまった。すると愴然とし(悲しみに心を痛めて)言った。「萬均は朕の勲旧であるが、不幸にも早くに亡くなってしまった。不意にその名を呼んでしまったのは、萬均の魂が朕の賜り物を欲しているからだろう」と。そこで貘皮を取らせ、萬均の名を読んで御前で焚き上げた。その場にいた者で感歎しないものはいなかった。


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貘とパンダについては荒木達雄「中国古文献中のパンダ」を参考にしました

歴史読書

『唐會要』巻79を見ていたら、薛萬均と温大雅の諡号が同じ「景」だった。毛色が違いすぎる二人
景。耆意大慮曰景。布義行剛曰景。由義而濟曰景。贈禮部尚書黎國公溫大雅。贈幽州都督潞國公薛萬均。(『唐會要』巻79 諸使下)
『逸周書』諡法解によれば
由義而濟曰景。布義行剛曰景。耆意大慮曰景。(義に由りて濟ナすを景と曰う。義を布シきて剛を行なうを景と曰う。耆ツヨき意もて大いに圖るを景と曰う。)
とのこと
つまり義によって功績・武功を立てたり武力・軍略で軍功を立てた人に贈られる諡号らしい
太原元従軍団の一人である温大雅と武勇と軍略に優れ吐谷渾・高昌平定に貢献した薛萬均が同じ景を贈られてるのも納得
『逸周書』諡法解の読み方については瀧野邦雄「景泰帝の諡号の恭仁康定景について」(『経済理論』391、2018)を参考にさせてもらいました

歴史読書

七月の読書

『紫禁城 FORBIDDEN CITY』(紫禁城出版社 1991)
感想
『道教思想10講』(神塚淑子、岩波書店 2020)
感想

今月実質一冊しか読み切ってない。『新釈漢文大系27 礼記 上』積んだまま終わった(完)
あと『東アジアは「儒教社会」か? アジア家族の変容』を中断して『歴史をひらく:女性史・ジェンダー史からみる東アジア世界』(早川紀代、秋山洋子、伊集院葉子、井上和枝、金子幸子、宋連玉編、御茶の水書房 2015)を読み始めた。これに載ってる善徳女王に関する論考が面白そうだったので(実際読んだら面白かった)
今月は追加で『北京大学版 中国の文明 第5巻 世界帝国としての文明上』(稲畑耕一郎監修、紺野達也訳、潮出版社 2015)と『シリーズ・道教の世界』(春秋社)を積んでます
『シリーズ・道教の世界』は読みやすく面白いのでめちゃ好きです。菊地章太『道教の世界』の次に読むのこれで良かったな
硬度低いのに春秋社の本なのでちゃんとガチ。単行本5冊なので物理的に場所取るのがネック
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読書

馬周が糖尿病で火色(頬の赤い貴相)であることって関連性あったりしないよな…とふと調べたら糖尿病性潮紅というのがあるらしい
ほっぺ赤いの可愛いとか言ってる場合じゃない もちろん病気と赤ら顔の関連性はわからないけど
岑文本の「騰上必速、恐不能久」も馬周の相から天命を予見していたというニュアンスだと思うけど顔色みて早死にするのをわかってたってことだとするとゾッ…(意味がわかると怖い旧唐書)

過去にtwitterで趙匡胤の顔色(紫黒色)と嗜酒について論じた荒木敏一「<論説>宋太祖酒癖考」を紹介したことがあるけど、中国史料における顔色の表現と病気についてきちんと調べたら小ネタにはなりそう
試しに自分で軽く調べたけど病気の生々しい描写のある史料読むのに気が滅入ったのでやめました おわり

歴史読書

『北京大学版 中国の文明 第5巻 世界帝国としての文明上』届いたけど李世民さんの山東系非貴族の抜擢と人材登用範囲の拡大についててしっかり論じてあってほらほらほら〜〜!!😄になった 笑顔😄
春秋社の「シリーズ・道教の世界」(全5冊)も読み始めたけどどの本も読みやすい上に読者を惹きつける文章で良すぎる
夏場に読む用に確保してよかったです勝ち確

読書

神塚淑子『道教思想10講』(岩波書店 2020)ようやく読み終わった
新書だしさくっと読めると思ったら二日かかった
道教や中国史に事前知識がある人間で二日です 読書の目安にしてください

「全体像の捉えにくい」道教を、そのはじまりと展開、「道」の思想、生命観、宇宙観、神格と救済思想、儒教・仏教との関係などの10のトピックごとにかっっっちり解説したハイレベルな概説書
概説書として優れているけど入門書として読みやすいとは思わない(固有名詞が多いし)
でも情報量が多くて読んでて面白かった。道教に関する本でまず一冊手元に置いておくならこれだと思う

読書

神塚淑子『道教思想10講』ひとまず第3講まで読んだ
神仙への幻想に魅惑された人物として、斉・燕の方士たちが盛んに説いた東海の三神山(蓬莱・方丈・瀛州)の話に心を動かされ、不死の仙薬を求めようとした秦の始皇帝や漢の武帝のことは、よく知られている。この二人の皇帝は、泰山(山東省泰安市)で封禅の儀式も行っている。封禅の儀式は本来、天命を受けた天子が天地の神々に自らの功を報告するものであるが、この二人の天子の場合は、不死登仙を希求する個人的な祭祀・祈祷という性格が強かった。祭祀・祈祷によって神仙を求めようとすることは、のちに葛洪によって批判されることになる。(第3講 生命観 p55)
↑ふむふむ
葛洪が神仙になるために学ぶべきこととして挙げたものは、きわめて多岐にわたる。(略)しかし、神仙になる方法として、葛洪が何よりも重要であると考えたのは、「還丹」と「金液」の服用である。還丹は丹砂(硫化水銀からなる鉱物)を熱して作ったもの、金液は金を液状にしたもので、還丹と金液を合わせて「金丹」という。(略)
葛洪にとって、神仙への道とは、人が知識と技術を駆使して丹薬を完成させ、それを服用して身体を錬成し、不老不死に至ることだったのである。人の努力によってそれは可能であると葛洪は考えた。したがって、秦の始皇帝や漢の武帝のように祭祀・祈祷によって神仙を求めることに対しては、鋭く批判したわけである。しかし、実際には、水銀化合物を含む丹薬は毒薬であり、唐代には武宗をはじめ丹薬の服用による中毒で命を落とした皇帝が何人も出たことはよく知られている。(第3講 生命観 p64-66)

↑こっちの方がむしろ害大きいだろ
やっぱり内丹法(外物を取り込むのではなく修練によって自分の体内に丹を作り出すやり方)がナンバーワン!
やっぱり内丹法がナンバーワン!

読書

元気が出ないので手元に置いておきたかった『北京大学版 中国の文明 第5巻 世界帝国としての文明上』(潮出版社 2015)を買った。6巻(下巻)は来月買う
今月は神塚淑子『道教思想10講』(岩波書店 2020)を読もうと思ってるのに全然読み進められなくて巻末の読書案内のページ(道教に関する書籍が簡潔な説明とともにまとめられてる)だけ読んでる
『講座道教』(全6巻)と『シリーズ道教の世界』(全5巻)も年内に全部読みたい

読書

常健(佐藤大志訳)「唐の太宗李世民の詩とその影響について」(「中國學論集』6、中国文学研究会 1993)
従来の中国文学史における、李世民を〈斉梁詩風の指導者〉と見なし批判的に評価する傾向に『唐詩紀事』を読め!と張り手し(誇張)、代表的な作品と文芸面での指導思想を読解しながら李世民の〈剛健で清新〉な詩風、および後世の詩壇への影響に迫る論文
面白かったけど李世民のことめちゃくちゃ好きな人が書いてるんじゃないかという疑念が…
〈その気魄の雄壮さにおいて、『全唐詩』の中で、唐の太宗を除いて、第二の詩人を探すことはできない〉とか へ、へえ
でも「飲馬長城窟行」を唐代における辺塞詩の先駆けと言ってるのはちょっとなるほどねと思った
ちなみに「飲馬長城窟行」のような楽府作品にはもととなる歌詞(本辞)が存在し、本辞や先行作品に模擬する形で作られる場合が多く、「飲馬〜」も漢代の本辞が存在し蔡邕、陸機、陳琳などが同題の詩を読んでいます。前者二首は『文選』にも収録されている
楊廣と李世民の「飲馬長城窟行」の比較は矢淵孝良「隋の煬帝と唐の太宗: 詩作にみる個性の相違」で検証されています

この論文けっこう古いので、今だと李世民の詩壇への影響や存在感を論じている研究もふつうにあると思います
村田正博「李世民「「山夜臨秋」の詩想をめぐって : 『翰林学士集』注解の試み」(1995)、後藤秋正「送葬詩小論(承前) : 南北朝末期から唐・太宗李世民へ」(1997)、種村由季子「二つの「帝京篇」 : 唐太宗と駱賓王」(2010)など。 日本での影響については井実充史「文武朝の侍宴応詔詩 -唐太宗朝御製・応詔詩との関わり-」(1995)がある
李賀《秦王飲酒》の発想が李世民と臣下らの作った聯句からの出発してるのではという原田憲雄先生の指摘(『李賀歌詩編』平凡社 1998)とか、唐代詩人の個々の詩への細かい影響を調べたらもっといっぱいあるはず
そういえば1992年の矢淵論文でも楊廣の民歌風な詩風は南北朝の伝統に従ったもので、民歌風な作品のない太宗の詩作の方が特記すべきと書かれてたな
矢淵論文と常健論文は当時において詩壇における李世民の存在感についていち早く論じたものだったのかもしれない

読書

『紫禁城 FORBIDDEN CITY』(紫禁城出版社 1991)
ヤフオクで親の顔より見る謎の紫禁城写真集。好奇心で買った
出品情報を複数参照したところ、写真集ではなく30年くらい前に現地で売られていたパンフレットらしい
ページの9割は紫禁城の写真で、あとは解説文と地図のみ。本文は中文で日本語・英語の対訳付き
写真に見応えがあるし日本語解説もあるので、紫禁城に興味のある人が買っても損はないと思う
『紫禁城宮殿』(講談社 1984)手元に置いておきたいけど高いし
しかし漱芳斎の多宝閣の写真とか日本語で読める紫禁城関連の本でもはじめて見た気がする

読書

成田健太郎「唐宋の蘭亭伝説について」
たまたまこれ読んでたんですけど
最後に唐・李綽『尚書故実』には、李世民は臨終に際してではなく健在のうちにすでに李治に『蘭亭』の副葬を託していたと記す。[9]
〈[9]『尚書故実』原文「嘗一日、附耳語高宗曰、『吾千秋萬歲後、與吾蘭亭將去也。』及奉諱之日、用玉匣貯之、藏於昭陵。」唐宋史料筆記叢刊『大唐傳載(外三種)』(中華書局、2019 年)に拠る。

とあってうっかり可愛いな…と思ってしまった
維基文庫『尚書故實』で前段も確認したところ〈太宗酷好法書、有大王真跡三千六百紙、率以一丈二尺為一軸。寶惜者獨《蘭亭》為最、置於座側、朝夕觀覽。嘗一日、附耳語高宗曰「吾千秋萬歲後、與吾《蘭亭》將去也。」及奉諱之日、用玉匣貯之、藏於昭陵。〉とのこと
王羲之の書のなかでも特に蘭亭序を愛し、常に座の傍らに置いて朝夕眺め、李治に「私が死んだら蘭亭も一緒に埋めるんだぞ」と耳打ちする李世民さん
可愛い 言ってることひどいけど
健在のころから蘭亭副葬を願っていたという情報より李治に耳打ちする李世民さんにすべて持っていかれた

読書

六月の読書
今年もう半年終わってるの怖

読んだ
『儒教の知恵 矛盾の中に生きる』(串田久治、中央公論新社 2003)
感想
『道教の世界(講談社選書メチエ)』(菊地章太、2012 講談社) 
感想

 読んでる
『新釈漢文大系27 礼記 上』(竹内照夫著、明治書院 1971)
『礼記』をちゃんと読んでない不勉強さにさすがに不便さを覚えはじめたのでちまちま読んでます
内容が雑多で楽しいけど、このとりとめのなさのせいでいまいち読書が捗らない
『東アジアは「儒教社会」か? アジア家族の変容』(浜正子編、京都大学学術出版会 2022)
京都大学学術出版会が出してる東アジア史ジェンダー本で一番読み応えある気がする。ので全然進みが遅い
『中国の伝統色 故宮の至宝から読み解く色彩の美』(郭浩・李健明原著、黒田幸宏訳、鷲野正明監修、翔泳社 2023)
故宮の文化財の色彩を色見本とし、古典に登場する伝統色を体系化し二十四節気と七十二候に基づいて紹介する本
色の解説にもさまざまな古典が引用されていて、これがかなり壮観
全部に目を通して推し時代に関係があるところだけピックアップしたい
故宮の美術品の写真が一枚も載ってないことにびっくりしたけどイラストが好みのタッチだったのでヨシ(中身未確認購入猫)
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読書

『道教の世界(講談社選書メチエ)』(菊地章太、講談社 2012)
かなり好き
道教について、老子、宗教、自然観、教団、経典、神統譜、山岳信仰、仙人、女神…といったテーマを軸に縦横無尽に語る入門者向けの本
同先生の『儒教・仏教・道教 東アジアの思想空間』(講談社 2022)を読んだときも思ったけど、菊地先生は「信仰」に対する解像度が高いというか、中国史に生き道教を信仰した人々をちゃんと「人間」として見ているので、必然中国史世界の解像度も高い。と思う
なのでこの本も道教を通じて「道教を信仰した人々の生きる中国世界」まで見えてくる
最初『儒教・仏教・道教 東アジアの思想空間』に比べたら控えめかな?と思っていた筆致も章が進むにつれ徐々にギアが上がっていくので笑ったし嬉しかったです
以下は好きな部分の引用

道教はなんだかとらえにくい。いろいろなものがありすぎる。ありすぎて芒洋としている。(略)
定義することは範囲を限定することでもある。範囲を限定すれば、そこからこぼれ落ちてしまうものがある。道教の場合、それがあまりにも多い。そうしてこぼれ落ちたもののなかに、かがやいているものがあまりにも多い。むしろそれを拾い集めてみたい気がする。そのために今あえて定義をこころみる。
道教とは「道」の教えである。
ここから出発しよう。(「はじめに」 p4)


中国には「人生に成功したら儒教、失敗したら道教」という言葉がある。しかもこの成功と失敗ということも、いったん成功したらもうめでたしなどとは誰も考えないだろう。王朝が交代をくりかえしてきた中国社会では、それは厳然たる社会法則である。それは世のなかを生きていくうえでの戒めである。同時に慰めでもある。(略)
あたかもあざなえる縄のごとくに成功と失敗の人生がくりかえされていく。そのなかで儒教も道教もそのときどきに頼りにされていく。そうした融通のきいたしたたかさと、ふところの深さが、いかにも人々の心情に合うのだろう。(「第一章 しいたげられた心の救い - 老子/宗教/自然観」p14)


…こうした差異をふまえてもなお、したげられたものの救いという性格が道教にもある。
それはかならずしも特定の階層だけに限定されない。たとえ社会の上層であっても、そのような痛みはあるにちがいない。皇帝でさえそうかもしれない。不安だらけの孤独と猜疑心に押しつぶされて、いつしか道教にのめりこんでいった支配者は数知れない。したがって、道教を民衆の宗教という視点からだけでとらえると、大事な一面を取り逃してしまう。(「第一章 しいたげられた心の救い - 老子/宗教/自然観」p16)


道教は捨てたりしない。この世への執着を大事にする。この世にありつづけようとする。たとえ今、踏みつけられ、おとしめられていてもである。世の中はいつか変わるかもしれない。いつか光がさしてくるかもしれない。それもこれも、ながらえてあればこその話ではないか。そのために命をいつくしむのである。
命をいつくしむ。道教の原点はきっとここにある。
不老長生の願いはここからはじまる。そのためになすべきことは山ほどある。(「第一章 しいたげられた心の救い - 老子/宗教/自然観」p18)


乳母娘々(にゅうぼニャンニャン)。母乳がたくさん出るようにしてくれる女神である。願いがかなったら真っ白な蒸し饅頭をおそなえする。てっぺんを紅で染めてあり、おっぱいみたいだ。(「第三章 その喧噪のただなかで - 山岳信仰/仙人/女神」p90)

女神たちの祭壇には娃々(ワアワア)の人形が所せましとおそなえしてある。娃々は赤ちゃん。はだかの赤ちゃんの泥人形は、子宝を祈るためのものである。娘々像の前に置いてある娃々を抱いて家に帰る。名前をつけて大切にする。いつか子どもができたなら、お礼に新しい人形を買い求めておそなえする。(略)
こればかりは神さまにお祈りするしかない。そういう願いはどんなに科学が発達してもなくならない。そしてどんなに時代が変わろうとも、神さまに願うことはそれほど大きく変わらない。
赤ちゃんができますように。赤ちゃんが元気に育ちますように。子どもが病気にかかりませんように。病気が早くなおりますように。(「第三章 その喧噪のただなかで - 山岳信仰/仙人/女神」p90)


私たちは何もかもしゃにむにプラスの方向へ積み上げてきた。それがたった一撃の大波でもろくも崩れ去った。波はそもそも水ではないか。もっとも低いところにあるものが、もっとも高いところにある科学技術の城をつきやぶった。(略)
動脈は人の体に血液をめぐらしている。動脈を流れる血液は体中に酸素をはこぶ。ところが動脈だけでは体は機能しない。二酸化炭素でにごった血液をもどす静脈がある。静脈の所々に弁があって血液の逆流を防いでいる。(略)それらが機能しつつ補完しあって体はまったき活動を維持することができるのだ。
中華帝国の歴史を動かしてきたのは儒教主導の政治理念であった。そしてそこに生きる人々の暮らしを道教が包み込んでいる。そのまわりの民間の習俗と道教はひとかたまりである。儒教がありつづけるところに道教もありつづけるであろう。(略)
有為を強いられ有事を耐えしのぶ心に、無為をよろこび無事にやすらぐ世界があることを教えてくれる。それも救いのひとつのかたちではないか。(「第六章 十中八九でたらめでも - 学術史/学者/現在」p179)

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読書

『虯髯客傳』ちゃんと読みたくなったので前野直彬編訳『唐代伝奇集1』(平凡社  1971)で確認した
『虯髯客傳』の李世民さんは
・衫(袍衫)も履物も身に付けずに普段着で登場する(英雄性の表現らしい)
・神気(精神力)がみなぎっていて風貌も常人とは異なる
・人が驚くほど出色の見た目をしており、その場に風が吹き込むかのような清々しい神気がある
・お目目がキラキラしている
でした

一言も台詞がない代わりに李世民さんの非凡さを強調するためのいろんな表現が登場していて面白かった
〈神氣清朗、滿座風生〉という表現めちゃいい…
李世民さん実際快活な性格してるから清風が吹くような神気と形容されているの見ると感謝の念が湧く
やっぱり李世民さんをいわゆる「男らしくない」、中性的な風貌に表現するの妥当じゃんと思った

読書

李世民さんの金髪に関しては『虬髯客傳』の虬髯客が赤ひげ(説話の亜種によっては黄ひげ)とされているので李世民さん自身も実際に茶髪や金髪だったのでは…とうっすら疑念を覚えるんですよね
虬髯(虯鬚)自体が「胡人の(ような)ひげ」を指して使われることもあるし
『虬髯客傳』も成立年代が李世民崩御後比較的早い伝奇なのでビジュアル情報も忠実に残ってそうだし
(虬髯客の虬髯が李世民さんのそれを反映していると仮定して)

歴史読書

『儒教の知恵 矛盾の中に生きる』(串田久治、中央公論新社 2003)
『王朝滅亡の予言歌 古代中国の童謡』でお馴染み串田先生の儒教本
串田先生編著の『天変地異はどう語られてきたか 中国・日本・朝鮮・東南アジア』を読んだ際に串田先生の書き物好きかもな…となったので読んだけど、やっぱり好きだった
タイトル通り「儒教に学ぶ」系の主旨で書かれた本だけど押し付けがましさもなく、儒教の思想や慣習などの基礎的な部分をちゃんと抑えている良書でした
そのうえで副題の通り中国史(儒教社会)に生きた人々の理念と現実のギャップや矛盾に着目し、そこをしっかりめに掘り下げているのがいい
そして原則を設け理想をうたいつつも、ときには積極的に例外を認め現実に対応する儒教の現実主義的な面も描き出している

儒教思想の入門書なら『儒教入門』(土田健次郎、東京大学出版会 2011)を最初に薦めるかなって感じだけど、エピソードの引用が豊富だし読みやすいのは断然こっちだと思います
儒教社会に生きる人たちの矛盾という着眼点にちょっと捻りがあるので、中国史の人々の価値観が知りたい人がはじめに読む本にいいかもしれない
次『「生き方」の中国史 中華の民の生存原理』(竹内康浩、岩波書店 2005)で(いつもお薦めしてるけどこれもいい本なので…)
串田先生の、中国史に生きた人々の矛盾や苦悩についてむやみに理非曲直をあげつらわず、かといって入れ込むでもなく程よい距離感で淡々と記す感じかなり好きです
同先生の『無用の用 中国古典から今を読み解く』(研文出版 2008)もそのうち読みたい

読書

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