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ちなみに李世民さんが中華圏で「小凤(小鳳)」「二凤(二鳳)」と呼ばれているのは、《威鳳賦》の中で自分のことを鳳凰になぞらえていたのを中華の李世民さん推しが愛称として小凤(鳳ちゃん)と呼び始め、それが次男の輩行をとって二凤に転化していったらしいです
発音はシャオフォン / アーフォンで響きがどっちも可愛い

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楊廣x李世民というcp自体は好きなんですが、古代中国という時代背景があっても権力者が少年少女を性的に搾取する構図がだいぶきついので(当然李世民さんが14歳の武照を後宮に入れてるのもきっつ…と思う)、今後この二人を肉体関係のあるcpとして描くかというとかなり微妙です
でもドラマ开创盛世のように李世民さんが青年ビジュだと心理的ハードルが下がりありありのありになってしまう
どうあがいても李世民さん18歳以下の時点でよくないのだが

竇琮伝の李世民さん枕営業疑惑記述(17歳ごろの李世民が李淵の挙兵のために遊侠たちにへりくだって尽くして寝室を出入りしており、それを見て李世民さんとの間に憾みのあった竇琮も意志を理解したという話)も年々つらくなってきてます
この枕営業疑惑記述に関してはBL的な萌えは一切なく、李世民さんに自分を大事にしてほしい私と史料の記述と李世民さんの性格からして枕営業してる可能性を否定できない私による葛藤があるというのみ
でも竇琮伝の記述を採用すると物語的に最初に李世民を仕込んだのが楊廣であった方が収まりがいいので(収まりがいいので…)自動的に楊廣x李世民(17歳以下)の肉体関係が成立してしまうバグが起きます
宇文邕(北周武帝)が姪の竇氏を養育したように皇帝が親族を宮中で養育するのはあることだし、『隋書』煬帝本紀下に楊廣が後宮で少年に宮女たちと淫猥な行為をさせていたという話があるから別にぶっ飛んだ設定でもないし…(この逸話自体はぶっ飛んでるが)
少年時代に一目惚れした竇氏と瓜二つの李世民を見ての衝動と李淵への嫌がらせ目的で李世民を可愛がる楊廣は見たすぎるので、「李世民さんには楊廣の後宮で養育され女装させられていた時期がある」という裏設定だけは採用しようと思います

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李世民600年生まれ説をとるとこうなる↓
隋文帝開皇八〜九年(588~589):楊廣が陳討伐で総帥を務める。当時19歳〜20歳
隋文帝開皇二十年(600):太子楊勇が廃位され楊廣が立太子される。武功県にて李世民が生まれる。楊廣31歳、李世民0歳
隋文帝仁寿三年(603):李淵が書生の予言を受け李世民を「世民」と改名。楊廣34歳、李世民3歳
隋文帝仁寿四年(604):文帝が崩御し、楊廣が即位する。楊廣35歳、李世民4歳
隋煬帝大業九年(613):第二次高句麗遠征に際して楊玄感が反乱を起こし、遠征が頓挫。李世民と母竇氏は高句麗遠征に従軍する李淵に随伴して涿郡におり、病を得た竇氏を李世民が看病していたという(『冊府元亀』巻27)。この年6月に楊玄感の乱が起き、その前月の5月1日に竇氏が死去している(『大唐六典』巻四)。楊廣44歳、李世民13歳
隋煬帝大業十一年(615):楊廣が雁門において突厥に包囲され、李世民が募兵に参加し雲定興に煬帝救出の献策を行う。突厥を撤退させるのに成功したが、この際に恩賞が払われず、また再度高句麗遠征が企図されたため、将士はみな噴怨したとしたという。谷川道雄先生は『長安の春秋』で、これを李世民が隋を見限った契機としている。楊廣46歳、李淵47歳、李世民15歳

『旧唐書』および『新唐書』太穆皇后竇氏伝によれば、李淵が扶風郡太守を務めていたとき、駿馬を数頭有していた。竇氏は「上(煬帝)が鷹馬を好むのは唐公も知るところです。献上すべきであり、長く所有するのはいけません。人に告げ口されれば身に禍いもありましょう。願わくばよくお考えください」と言った。李淵はこれを聞かなかったが、のちに連座によって譴を受けた。幾ばくもなく竇氏は涿郡で亡くなり、年は四十五歳だった。
李淵はのちに隋の政治が乱れ、みだりに処刑が行われるのを見、自らの安泰を図るため、楊廣へたびたび鷹犬や珍しい馬を献上した。煬帝は喜び、李淵を将軍に抜擢した。李淵は諸子たちへ、「早くにお前たちの母の言うことを聞いていれば、もっと長くこの官にいれただろう」と涙して言った。
『旧唐書』高祖本紀によれば李淵は隋煬帝大業十二年(616)に右驍衛将軍となっており、将軍職はこれを指すと思われる。楊廣47歳、李淵50歳、李世民16歳のこと

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ここで語っていた李世民さんの生年ですが、『新唐書糾謬』巻四 太宗紀享年差三歳は「『新唐書』虞世南伝で太宗本人が〈吾年十八舉義兵〉と語っており、また太宗本紀で煬帝を雁門で救出した大業十一年(615)当時に十六歳(満15歳)であるならば庚申(西暦600年)生まれで疑いはなく、本紀が享年を五十三歳とするのは誤りである」としていました
大抵の書籍や論文でも李世民の生年を598年とするのが多いなかで、谷川道雄先生『唐の太宗』は珍しく600年生まれ説をとっているのですが、「楊堅が太子楊勇を廃位し楊廣を立太子したのと同年に世民が生まれた」という小説的記述も実際にあるかもしれないと思うと自創作でも600年生まれ説を採用したくなってきました

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>2023/9/28 16:36
>李世民さんにトリックオアトリートされた魏徴さんの反応が見たいです……!

リクエストありがとうございました🫶
全然リクエストに応えてない魏徴(→)←李世民漫画です
ハロウィン漫画(李世民、魏徴、唐倹)

・魏徴の喉飴と貞観朝廷飲食事情
中国では日の出から朝政がはじまるため、朝食を取らずに登朝する官吏が多かった。貞観四年(630年)、李世民はこの問題を解消すべく、朝政のあとに臣下が食事をとる「廊下食」を設置した(『唐会要』巻24)
という話から朝廷で飲み食いできるなら魏徴がのど飴舐めててもいいかなと思いました 実際喉は酷使してるし
飴にモデルはないですがどうも魏徴は辛党らしいので(信憑性は微妙だが酒造りの逸話があり、酒の肴としてよく食べられていた醋芹(芹の酢漬け)が好物だったという話が『龍城録』にある)、龍角散とか生姜飴とか李世民が全然好きじゃない味のものを愛用していると思います
李世民さんははちみつ金柑とかミルクのやつじゃないんだ…と思いながら夜我慢して舐めることに…
ちなみに廊下食では天子が臣下と一緒に食事を取ることもあったらしいです。天子が朝から晩まで政務に励む様子を旰食宵衣(薄暗いうちから起きて服を着、夜遅く食事をとるの意)と形容しますが、李世民さんはご飯ちゃんと食べるし食べさせる派

・鴻臚寺の飴
鴻臚寺は唐の九寺のひとつで、賓客(外蕃国からの使者)の接待や凶儀(葬礼)を掌握する官署
飴は唐倹が鴻臚寺の長官にあたる鴻臚卿に就いていた時期(〜貞観四年(630))に盆菓子用に買い溜めされていたものでほぼ私物化されている
ちなみに魏徴が侍中を務めたのは貞観六〜十年(632〜636)の間で、このとき唐倹はすでに鴻臚卿から民部尚書に昇進しています
唐倹は官にあっては酒の肴を自ら用意して親賓と酒をほしいままにし、仕事に励まなかったといいます(唐倹伝)
やっぱり朝廷の飲み食いの規則緩くない?
#李世民 #魏徴 #唐倹

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キョンシー李世民さん
キョンシー李世民さん
ハロウィンにキョンシー李世民さんを描くという毎年のノルマをようやくクリア
手に持ってるのは糖葫芦(サンザシ飴)と柿饼(円盤型の干し柿)です
柿は民間伝承からネタ拝借しました:柿子火红,层林浸染,抱龙峪感味秦岭秋的绚丽_林峪
伝承で李世民さんの育ったとされる土地で干し柿が盛んに作られてる光景がエモかったので
死後に本物のキョンシーになってる世界線では抱龍峪の干し柿食べててほc~
#李世民

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李世民さんは少なくとも三回ほど脱いだ服を人に与えたことがある
貞観十七年(643)、宴席の最中、李世民は李世勣に「幼孤(みなしごのこと。自身が死去したのちの李治を指す)を託すのに、卿を越える者はない」と言った。李世勣は泣いて謝辞を述べると、指を噛んで流血し酔いつぶれてしまった。李世民は御服を解き、李世勣に被せた。(『旧唐書』李勣伝)
貞観二十年(646)、李世民は亀茲討伐を計画した。阿史那賀魯はこれを知ると、先導を申し出、数十騎を率いて入朝した。李世民は賀魯を崑丘道行軍総管とし、嘉寿殿で厚く宴賜し、自身の衣を解いて彼に着せた。(『新唐書』突厥下 阿史那賀魯伝、『資治通鑑』巻199)
新羅に薛罽頭(せつけいとう)という者がいた。武徳四年(621)にひそかに海船に乗って唐に入り、貞観十九年(645)に李世民が高句麗に親征すると、高句麗軍と駐蹕山の下で戦い、敵陣に深入りして戦死した。李世民は涙を流して言った。「彼は異国の人でありながら、我が国のために死んでいった。何を以てこの功に報いれば良いだろうか?」と。御衣を脱ぐとそれで薛罽頭の遺体を覆い、大将軍の職を授け、礼を以て埋葬した。(『三国史記』薛罽頭伝)
このとき円領袍を脱いで半臂姿になっているとも思えないので、円領袍の上に上着を羽織るのが通常スタイルだったのかもしれない
円領袍+胡服はちょっとごちゃついてる気もするけど、ドラマ贞观之治の李世民さんもそういう服装してるのでありなんだろう。もしくはドラマ贞观之治も上記のエピソードを参考にしてそういう衣装にしているか
ちなみに唐代伝奇『虯髯客傳』の李世民さんは英雄性の表現として衫も履物も身に付けずに登場します
人に服あげちゃって半臂姿になっててもそれはそれで可愛いけど目を覚ました李世勣がそれを見たらめちゃくちゃ動揺しそう

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侯君集と李承乾の謀叛の企みが発覚すると、李世民は群臣に君集の助命を請願した。しかし群臣たちは法に則り不可だとした。李世民は処刑を決断すると、「公とは永久の別れだ。今後はただ公の遺像(凌煙閣二十四功臣図に描かれた君集の図像)を見るのみだ」と言って咽び泣き、君集もまた地面に身を投げ出した。(新旧唐書侯君集伝、『資治通鑑』197要約)
自分を庇いきれなかった李世民さんが号泣してるのを見て「自投於地」する君集すごく味があると思うんですけど、処刑に望んでは顔色を一切変えず「君集が謀反人となったのは蹉跌(足を踏みまずして失敗すること、挫折)によるものだ」と言ってるものこいつすごいな…と感嘆します(出典同上)
自分が100悪いとか言わないのつよすぎる
裏切られた側の李世民さんが「君集がこうなったのは(彼の本意ではなく)挫折によるものだ」というならわかるけど裏切った側の君集が言ってるのが面白い
続けて祭祀のために子どもを一人保全してくれと言うのもすごい
李世民さんは特別に罪を許し、君集の妻と子ども一人の命を助けて嶺南への流罪としたそうです

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昨日伽羅香(きゃらこう)の字が伽羅であることに改めて気付いて独孤伽羅の伽羅じゃん!となった
伽羅が仏教由来の名前というのも伽羅香の存在も知ってたのに自分のなかで繋がってなかった アハ体験
宮川尚志「六朝人名に現れたる佛教語」(「東洋史研究」)によれば薛世雄も仏教由来の名前らしいです
仏の尊称の一つで世間において雄々しく一切の煩悩に打ち勝つ人を指す言葉だそう
息子二人はあんなに我欲に塗れてるのに…

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李世民さんと長孫皇后の間に生まれた子どものうち、李泰、李治、李明達はそれぞれ小字または幼名が判明している(李泰:小字青雀、李治:小字雉奴、李明達:幼字兕子)
坂井田ひとみ「中国人の姓氏名字考」(『社会科学研究』16 1996)によれば、昔子どもの乳名・小名(親のつけるニックネーム)には縁起のいい文字を用いるよりも魔除け・無病息災を願い「賤名」をつけることが多く、当時は子どもの死亡率が高かったので、動物のように逞しく育つよう願って動物の漢字を用いることがあったらしい
昭陵六駿(馬)とか将軍(白鶻)とか動物好きだもんなくらいに思ってたけど、り、李世民さん…
これはかんぜんに親の愛でしょう
最愛の正妻である長孫氏の産んだ子どもたちには愛情もひとしおだったのではないだろうか
李世民は李明達が12歳で亡くなると食事も喉を通らず痩弱したというし、芯から子煩悩だったんだと思うと切ない

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新旧唐書薛萬徹伝の
萬徹在軍、仗氣凌物、人或奏之。及謁見、太宗謂曰「上書者論卿與諸將不協、朕錄功棄過、不罪卿也。」因取書焚之。尋為副將、右衛將軍裴行方言其怨望、於是廷驗之、萬徹辭屈。英國公李勣進曰「萬徹職乃將軍、親惟主婿、發言怨望、罪不容誅。」因除名徙邊、會赦得還。(『旧唐書』薛萬徹伝)
萬徹在軍中、任氣不能下人、或有上書言狀者、帝愛其功、直加讓勗而已、即為焚書。副將裴行方亦言其怨望。李勣曰「 萬徹位大將軍、親主壻、而內懷不平、罪當誅。」因詔除籍徙邊、會赦、還。(『新唐書』薛萬徹伝)
のところひどすぎてふつうに面白い
目の前で李世民に自分を告発する上書を燃やしてもらってるとこまでは美談なのにあとで裴行方から怨望を暴露されて弁明もできず李世勣からは「こいつの罪は死んでも許されないっすよ」(『新唐書』は「死んで当然ですよ」)って言われてる薛萬徹
薛萬均の方が問題児な印象だったけど薛萬徹の方が程度がひどいな
薛萬均は高昌の婦女と財産を略奪してるだけだし…そのくらい侯君集もやってるし…高昌の麹智盛を恫喝したのも罪にあたらないし…(こうして感覚麻痺していく)

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薛萬均・薛萬徹の兄弟は大業末に涿郡太守の父薛世雄に従って兄弟で幽州におり、ともに武略をもって羅藝に厚遇された。このとき萬徹はまだ十代だった
薛萬徹、雍州咸陽人、自燉煌徙焉、隋左禦衞大將軍世雄子也。世雄、大業末卒於涿郡太守。 萬徹少與兄萬均隨父在幽州、俱以武略為羅藝所親待(『旧唐書』薛萬徹伝)
『隋書』薛世雄伝によれば、世雄は大業九年(613)に楊玄感の乱が起きたため東北道大使、燕郡(涿郡)太守となり、懐遠に駐屯した。また翌年に煬帝の第三次高句麗遠征が起きると左禦衛大将軍、涿郡留守を兼ねたという
613年か614年にまだ十代(満19歳未満)だったということは、薛萬徹の生年は594年か595年以降ということになる
李世民は当代の名将として李世勣(594生)、李道宗(600か603生)、薛萬徹を並称しているけど、やっぱり三人とも世代が近かったのかもしれない

あと李淵は薛世雄と同年に懐遠に駐屯しており、それに随従して竇氏と李世民も涿郡にいたようである
九年、遷衛尉少卿。遼東之役、督運於懷遠鎮。及楊玄感反、詔高祖馳驛鎮弘化郡、兼知關右諸軍事。(『旧唐書』高祖本紀)
大業中(…)后崩於涿郡」(『旧唐書』太穆皇后竇氏伝)
先是、帝在髫齓、穆后於諸子之中獨所鍾愛、自穆后寢疾、朝夕侍側、不解衣冠、所進湯藥必先嘗之。及丁穆皇後憂、毀瘠三年、杖而能起。(『冊府元亀』巻27 帝王部孝德)
ということは薛家と李家のメンツが顔を合わせていてもおかしくないってことだ
薛萬徹・薛萬均が羅芸と誼を結んだように遠征先で高官の子どもが人脈を広げるケースがあるなら、李淵・李建成・李世民と薛世雄・薛萬徹・薛萬均もワンチャン会ってる可能性が…
でも李世民さんは竇氏の看病で忙しいからあんまり人付き合いする余裕もなさそうだけど

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太宗嘗召司徒長孫無忌等十餘人宴於丹霄殿、各賜以貘皮、萬徹預焉。太宗意在賜萬徹、而誤呼萬均、因愴然曰「萬均朕之勳舊、不幸早亡、不覺呼名、豈其魂靈欲朕之賜也。」因令取貘皮、呼萬均以同賜而焚之於前、侍坐者無不感歎。(『旧唐書』薛萬徹兄萬均伝)
(訳)太宗(李世民)はかつて司徒長孫無忌ら十数人を召し出して丹霄殿で宴席を開き、各々に貘皮(パンダの毛皮か)を賜った。薛萬徹もその宴席に列席していた。太宗が萬徹に毛皮を賜ろうとしたところ、誤って萬徹の兄の萬均の名を呼んでしまった。すると愴然とし(悲しみに心を痛めて)言った。「萬均は朕の勲旧であるが、不幸にも早くに亡くなってしまった。不意にその名を呼んでしまったのは、萬均の魂が朕の賜り物を欲しているからだろう」と。そこで貘皮を取らせ、萬均の名を読んで御前で焚き上げた。その場にいた者で感歎しないものはいなかった。


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貘とパンダについては荒木達雄「中国古文献中のパンダ」を参考にしました

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『唐會要』巻79を見ていたら、薛萬均と温大雅の諡号が同じ「景」だった。毛色が違いすぎる二人
景。耆意大慮曰景。布義行剛曰景。由義而濟曰景。贈禮部尚書黎國公溫大雅。贈幽州都督潞國公薛萬均。(『唐會要』巻79 諸使下)
『逸周書』諡法解によれば
由義而濟曰景。布義行剛曰景。耆意大慮曰景。(義に由りて濟ナすを景と曰う。義を布シきて剛を行なうを景と曰う。耆ツヨき意もて大いに圖るを景と曰う。)
とのこと
つまり義によって功績・武功を立てたり武力・軍略で軍功を立てた人に贈られる諡号らしい
太原元従軍団の一人である温大雅と武勇と軍略に優れ吐谷渾・高昌平定に貢献した薛萬均が同じ景を贈られてるのも納得
『逸周書』諡法解の読み方については瀧野邦雄「景泰帝の諡号の恭仁康定景について」(『経済理論』391、2018)を参考にさせてもらいました

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626年8月9日(唐武徳九年八月甲子)は李世民さんが即位した日です
ついでにサイトも9年目を迎えました🎂今後もマイペースに創作やっていきま〜す

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丹陽公主(李淵の娘で李世民の姉か妹)と薛萬徹の話
下嫁薛萬徹。萬徹憃甚、公主羞、不與同席者數月。太宗聞、笑焉、為置酒、悉召它衞與萬徹從容語、握槊賭所佩刀、陽不勝、遂解賜之。主喜、命同載以歸。(『新唐書』諸帝公主 高祖十九女 丹陽公主)
↑これと
薛萬徹尚丹陽公主、太宗嘗謂人曰「薛駙馬村氣。」主羞之、不與同席數月。帝聞而大笑、置酒召對、握槊、賭所佩刀子、佯為不勝、解刀以佩之。罷酒、主悦甚、薛未及就馬、遽召同載而還、重之逾於舊。(『隋唐嘉話』巻中)
↑これと
薛萬徹尚丹陽公主。人謂太宗曰「薛駙馬無才氣。」因此公主羞之、不同席者數月。帝聞之、大笑、置酒召諸婿盡往、獨與薛歡語、屢稱其美。因對握槊、睹所佩刀、帝佯為不勝、解刀以佩之。酒罷、悦甚。薛未及就馬、主遽召同載而還、重之逾於舊日。(『唐語林』巻五 補遺 起高祖至代宗)
↑これ

丹陽公主が夫の薛萬徹を恥じて数ヶ月同席しなかった理由は、
『新唐書』丹陽公主は「萬徹が非常に愚かだった」ため
『隋唐嘉話』巻中は李世民が誰かに「薛駙馬(駙馬:皇女の夫のこと)は村気(野蛮、粗野)である」と言ったため
『唐語林』巻五 補遺は誰かが李世民に「薛駙馬は才気がない」と言ったため

『新唐書』丹陽公主と『隋唐嘉話』巻中をごっちゃにして創作物かSNSの投稿かで「李世民は薛萬徹をあほのこ扱いした」と説明した記憶があるので見つけ次第削除か訂正したい
粗野とは言ったけど愚かとは言ってなかったし『唐語林』に至っては李世民さんは何も言ってない(これちゃんと読んでなかったので驚いた)
その上で丹陽公主との仲を取り持つために宴席を開いて薛萬徹とともに楽しく語らい幾度もその美点を称賛し佩刀を賭けた勝負ではわざと負けて萬徹に自分の佩刀を与えて ハア…(恍惚)
李世民さんが姉妹思いかつ萬徹にも甘いの可愛すぎる。萬徹は李世民が兄の薛萬均のためにパンダの毛皮をお焚き上げしたのも見てるしその場にいる全員が感銘を受けたなら萬徹もそうだっただろうし(薛萬均伝)兄弟ともに親愛されてる自覚あっただろうな
そりゃ萬徹も死に際に「萬徹は大健児だ!留めて国家のために死力を尽さしめば誼みを固くすることができるのに、どうして房遺愛に連座して殺すのか!」って言う。それまで李世民に愛されてきたボーイなので
そしてそのあと服を脱いで「早く斬れ!」と言って執刀者が苦戦したら「なぜ力を加えないのか!」って怒鳴る
これが李世民さんの言う「村気」…でも言ってることは理にかなってるのでやっぱり愚かではないと思う
萬均もオラついた性格してるし兄弟でいい育ち方してる

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李世民の馬周への親愛は褚遂良、劉洎、岑文本、唐臨といった若手官僚勢へのそれと比べても頭三つくらい抜けてる
後事を託された褚遂良と比べてもそう。なんなら房玄齢、杜如晦、魏徴、虞世南に匹敵する度合いだと思う
『貞観政要』巻二任賢第三でも房玄齢、杜如晦、王珪、魏徴、李靖、虞世南、李勣、馬周で章立ててあるし、当時(李世民崩御後40〜50年程度)の方がより存在感が認知されていたのかもしれない
呉兢が李世民死後のゴタゴタを踏まえて長孫無忌と褚遂良を上記の括りに入れず繰り上がりで馬周を入れた可能性もあるけど

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馬周が糖尿病で火色(頬の赤い貴相)であることって関連性あったりしないよな…とふと調べたら糖尿病性潮紅というのがあるらしい
ほっぺ赤いの可愛いとか言ってる場合じゃない もちろん病気と赤ら顔の関連性はわからないけど
岑文本の「騰上必速、恐不能久」も馬周の相から天命を予見していたというニュアンスだと思うけど顔色みて早死にするのをわかってたってことだとするとゾッ…(意味がわかると怖い旧唐書)

過去にtwitterで趙匡胤の顔色(紫黒色)と嗜酒について論じた荒木敏一「<論説>宋太祖酒癖考」を紹介したことがあるけど、中国史料における顔色の表現と病気についてきちんと調べたら小ネタにはなりそう
試しに自分で軽く調べたけど病気の生々しい描写のある史料読むのに気が滅入ったのでやめました おわり

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馬周
馬周のことが好きな人たち(李世民、岑文本、常何)
馬周の話をいっぱいしたので描いた ほっぺ赤いの(火色)可愛い
年長順に常何(586-653)、岑文本(595-645)、李世民(599?600?-649)、馬周(601-648)で馬周が一番若いです
#馬周 #李世民 #岑文本 #常何

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周每行郡縣、食必進雞、小吏訟之。帝曰:「我禁御史食肉、恐州縣廣費、食雞尚何與?」榜吏斥之。及領選、猶廢浚儀令。(『新唐書』馬周伝)
(訳)馬周は(監察御史(御史台に属する、地方を巡察し行政を監察した官)として)地方の郡県を訪れるたび、必ず鶏肉を食していた。小吏がこれを訴えた。李世民は言った。「私が御史に肉食を禁じているのは、州県の費用を恐れてのことである。鶏を食うことがどうしてそれにあたるという?」と。小吏を鞭打ちして退け、人事して浚儀県令に貶めた。


李世民さんは馬周が好き、馬周は鶏肉が好き、監察御史は地方で接待されないように肉食が禁じられてる、といういろんな情報が摂取できるエピソード
鞭打ちされている小吏は可哀想だけど、>>264のエピソードを踏まえると馬周に対する陰口や讒言を打ち止めるための一罰百戒としてたまたまこの小吏も罰されたのではないかと思う
李世民は李靖を讒言した高甑生(秦王府時代からの臣下)も流罪にしているし、高句麗親征で房玄齢を讒言した使者も処刑していて、臣下を守るためにごく稀にラディカルなやり方を取るときがある
讒言を信じて重臣を処刑するより断然いいけど、平穏な世界を目指しても良臣を讒言する人がいて、そこで無駄な血が流れているのは切ないな

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『旧唐書』『新唐書』馬周伝は馬周と李世民の親愛を強調するためなのか終盤雑多に説話が羅列されてるところがあって、そこが個人的に結構好き
一番好きなのはここ
周病消渴、彌年不瘳。時駕幸翠微宮、敕求勝地、為周起宅。名醫中使、相望不絕、每令尚食以膳供之、太宗躬為調藥、皇太子親臨問疾。周臨終、索所陳事表草一帙、手自焚之、慨然曰:「管、晏彰君之過、求身後名、吾弗為也。」二十二年卒、年四十八。太宗為之舉哀、贈幽州都督、陪葬昭陵。(『旧唐書』馬周伝)
(訳)馬周の消渴病(糖尿病か)は連年治らなかった。ときに李世民は翠微宮に行幸し、敕して景勝地を求め、馬周のために邸宅を用意した。名医や使者は相望み絶えることなく、尚食(皇帝の食事や医薬を担当する部署)に食事を用意させ、また李世民自ら薬を調合し、皇太子李治に見舞いさせ馬周の病状を伺わせた。
馬周は臨終において、陳上書の草稿一帙を手ずから焼き捨てると、慨然として言った。「管仲、晏嬰は君主の過ちを暴露して後世の名を求めたが、私はそのようなことは行わない」と。
貞観二十二年に卒し、年は四十八歳であった。李世民は馬周のために舉哀し、幽州都督を追贈し、昭陵に陪葬した。


ここで馬周は管、晏の名前を出しているけど、自身の諫言の記録を起居注の褚遂良に横流ししていた魏徴のことも反面教師として念頭にあったのではと思う。俺はあんなダセーことしねーよ的な
高士廉にも表奏が成立すると直ちに焚稿したのでその功績は朝廷でも知られていなかったという話があり(高士廉伝)、功績を誇らず自身のしたためた書文を焼き捨ててしまう人は中国史にときどき登場する
魏徴の真意はどうあれ諫言の記録を起居注に横流しするような人間の方が断然異端だと思われる
魏徴も生きていれば侯君集・杜正倫の推挙や朋党疑惑含め弁明の仕様があったろうけど(そもそも起居注の褚遂良がなんのお咎めも食らってないわけだし)、こればかりは死去したタイミングが悪かったという他ない

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ドラマ贞观之治に対する視聴意欲が完全に萎えてたけど今後馬周が出るかもしれないと思うと視聴再開する気が出てきた
褚遂良とか劉洎は拗らせキャラ、岑文本は病みキャラにされそうなので(岑文本は実際病んじゃうけど)清涼剤として期待できるのは馬周くらいしかいない
でもこのドラマが資治通鑑に採用されてないエピソードを引っ張ってくる可能性はほぼないと思われるので私の好きな『新唐書』馬周伝の〈初、帝遇周厚、周頗自負。為御史時、遣人以圖購宅、眾以其興書生、素無貲、皆竊笑。它日、白有佳宅、直二百萬、周遽以聞、詔有司給直、幷賜奴婢什物、由是人乃悟。〉のくだりも映像化されないだろうな
絶対見たいよ…李世民に厚遇されてイキってる馬周を「あいつ家買おうとしてるけど山東の書生上がりで金ないだろ笑」とか影で笑ってたモブ官僚が後日李世民さんが家の代金と奴婢と什物まであわせて馬周に与えたのを見て呆然となるの…(スカッと唐王朝?)

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李世民「草創と守文どちらが難しいかな?」
房玄齢「草創ですね」
魏徴「守文です」
李世民「玄齢は私に従い草創の困難を知っている💦魏徴は私とともに天下を安んじ守文の困難を知っている💦草創の困難を乗り越えたいま、皆とともに守文の困難を乗り越えたいと思う!✊✨」
玄齢等「陛下がそう仰られるのは四海の福にございます!」

有名な草創守文(創業守成)問答は『旧唐書』房玄齢伝と『貞観政要』巻一君道第一では李世民の言葉で終わるけど、『資治通鑑』195では最後に〈玄齡等拜曰「陛下及此言、四海之福也。」〉の一文が入る。
この台詞房玄齢は李世民が自分と魏徴に優劣をつけなかったことを讃えて言ってても自分を優先してもらえなかったことへの嫌味っぽく言ってても可愛い
ちなみに『貞観政要』巻十論慎終第四十では貞観十四年のこととして李世民自身が「私は天下を平定したが功業を保つことは難しい」と語り、魏徴が「『戦い勝つは易く、文を守るは難カタし』と聞きます。陛下がそれを心に留めていれば国家は安泰でしょう」と答える話があるので、結論難しいのは守文だそうです

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李世民さんの金髪に関しては『虬髯客傳』の虬髯客が赤ひげ(説話の亜種によっては黄ひげ)とされているので李世民さん自身も実際に茶髪や金髪だったのでは…とうっすら疑念を覚えるんですよね
虬髯(虯鬚)自体が「胡人の(ような)ひげ」を指して使われることもあるし
『虬髯客傳』も成立年代が李世民崩御後比較的早い伝奇なのでビジュアル情報も忠実に残ってそうだし
(虬髯客の虬髯が李世民さんのそれを反映していると仮定して)

歴史読書

今更だけど〈太宗獨與頡利臨水交言〉(『旧唐書』突厥上)の字面いかがわしいな
創作では李世民さんはこのとき頡利可汗に要求されて枕営業に応じているという設定があります
このとき使者を務めた執失思力は唐に留められたというていで李世民と接近していて、死ぬほど李世民から頡利可汗の悪口を聞かされているけど全部笑って流している

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独孤伽羅、楊堅
独孤伽羅、楊堅
楊堅の人相について、『隋書』高祖本紀は〈為人龍顏、額上有玉柱入頂〉
『北史』隋高祖文帝本紀は〈帝龍頷、額上有五柱入頂〉としていて微妙に違いがあることを知る
「玉柱」は額の上に盛り上がった筋肉があることらしいけど角っぽい(?)傷にしました 許して
中野美代子『中国の妖怪』( 岩波書店 1983)によれば、「龍顔」とはふつう「天子の顔」の意味であるが、もともと「顔」とは「額顙」つまり額を指す言葉であり、「龍のような額」=「高く盛り上がった眉骨」を表していたらしいです。ここでの用例がそれにあたるかはわからないけど
『北史』の「龍頷」は龍の顎の意味だし(これも龍顔の誤りではないかと思うが)目元も顎も龍っぽかったってことで
#楊堅 #独孤伽羅

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楊堅
楊堅のデザイン変えたくて練ってたもの
楊堅が竇栄定(竇抗の父)に「朕が若くして品性が悪く軽薄だったころ性格が合ったのは竇栄定だけだった」と語っている(『隋書』竇栄定伝)のが好きなのでその頃のイメージです
触覚と襟足は龍要素 真面目になるころには襟足が消えて口髭はやし始める
#楊堅

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西暦618年6月18日(新暦)は李淵が隋恭帝楊侑から受禅して唐を建国した日です
唐朝建国1404周年おめでとう(おめでとうでもないと思うけど)

歴史

幼少期李淵は厳格な母独孤氏に過度な期待と重圧を寄せられているがあまり意に介していない
でも独孤氏が亡くなってからのびのびとして過ごすようになり笑顔が増える
という設定があります

李淵の母独孤氏(元貞皇后)について伝える資料はかなり少ないのですが、新旧唐書太穆皇后伝には妻竇氏が元貞皇后に孝行を以て仕えたことが伝わっています
后事元貞太后以孝聞。太后素有羸疾、時或危篤。諸姒以太后性嚴懼譴、皆稱疾而退、惟后晝夜扶侍、不脫衣履者動淹旬月焉。(『旧唐書』)太穆皇后竇氏伝)
始、元貞太后羸老有疾、而性素嚴、諸姒娣皆畏、莫敢侍。后事之、獨怡謹盡孝、或淹月不釋衣履。(『新唐書』)太穆皇后竇氏伝)
(訳)太穆皇后は元貞太后に孝を以て仕えて名が聞こえた。太后はもとより厳格な性質で、年老いて病となっていた。李淵の側室たちは太后を恐れ、みな病と称して看病を避けたが、ただ太穆皇后のみが昼夜そばで世話をし、あるときはひと月ほども衣服を取り替えることがなかった。

(姒は夫の兄嫁、娣は夫の弟嫁の意味で、古代中国では夫を共にする正妻や側室を指しても使われる。李淵の兄三人は早逝しており妻帯していた可能性は低く、ここでは後者の意味で解釈しています)

つまり李淵パパって元貞皇后の看病全然してなかったんだな…っていう
李世民は竇氏を熱心に看病していたと『冊府元亀』にあるけど官に就く前の少年期だからそれができたのかな
元貞皇后を特段愛した様子も愛された様子もない李淵にとって、竇氏が崩御して幾年が経とうが母を追慕する李世民はどういう風に映ったんだろう

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