カテゴリ「歴史」[48件](2ページ目)
『旧唐書』温彦博伝に
「彦博は宣吐(朗読、文章の読み上げ)を善くし、声は高朗で見る者が目を奪われるようであった」
「温彦博が突厥の捕虜となってからは宴席では李世民さんが読み上げ(宣告?)を代理していた(李淵はそれを見るたびに温彦博を思い出して彼の身を案じていた)」
という話があり、李世民さんはいい声の持ち主という説が私のなかで有力だったのですが、中国のオタクの人も「褚遂良が《請節勞表》で李世民さんの声を〈音若韶夏〉と書いてるからいい声に違いない」と主張してて元気が出ました
これを見習って今後とも定型表現とかオタクには関係ないんで…🤚のスタンスでいきます
よく通るクソデカ大声で「私が秦王だ!!!!!」(資治通鑑189の〈世民大呼曰「我秦王也」〉)って叫ぶ李世民さんは解釈ドンピシャすぎる
「彦博は宣吐(朗読、文章の読み上げ)を善くし、声は高朗で見る者が目を奪われるようであった」
「温彦博が突厥の捕虜となってからは宴席では李世民さんが読み上げ(宣告?)を代理していた(李淵はそれを見るたびに温彦博を思い出して彼の身を案じていた)」
という話があり、李世民さんはいい声の持ち主という説が私のなかで有力だったのですが、中国のオタクの人も「褚遂良が《請節勞表》で李世民さんの声を〈音若韶夏〉と書いてるからいい声に違いない」と主張してて元気が出ました
これを見習って今後とも定型表現とかオタクには関係ないんで…🤚のスタンスでいきます
よく通るクソデカ大声で「私が秦王だ!!!!!」(資治通鑑189の〈世民大呼曰「我秦王也」〉)って叫ぶ李世民さんは解釈ドンピシャすぎる
侯君集、母竇氏が墓誌で躾に厳しかったと書かれているのと(あくまで墓誌の表現であることに注意が必要だけど)、李世民に最も信愛されていた目上かつ年上の房玄齢と李靖を敵視したという点から李世民を母とするエディプスコンプレックスこじらせてるイメージがある
なので胎内回帰願望の表れとして李世民さん吸いするときもお腹を吸っててほしい
あと『酉陽雑俎』に収録されてるこの話(『酉陽雑俎』侯君集の見た夢 | FUDGE )はかなり直球で去勢不安のメタファーだと思う
なので胎内回帰願望の表れとして李世民さん吸いするときもお腹を吸っててほしい
あと『酉陽雑俎』に収録されてるこの話(『酉陽雑俎』侯君集の見た夢 | FUDGE )はかなり直球で去勢不安のメタファーだと思う
房玄齢と李世民は大人と子供、冷静と情熱、静と動…と正反対な印象だけど、根本的な価値観は似ていると思う
二人とも真面目で仕事熱心で能力主義で、他人をそこまで嫌うことがなく、争い事や揉め事を好まない
房玄齢伝にある玄齢の「国家を滅ぼすか、身名をともに滅ぼす(李世民を兄弟殺しの汚名を被せても即位させ天下を安寧に導く)かだ」という言葉が好きなんですが、この「名を棄てて実を取る」価値観が二人に共通しているからこそ李世民も玄齢の献策を受け入れ兄弟殺しの汚名を永久にこうむることになったというのがほんとうにめちゃくちゃ好き
二人が迷走した結果目先の利益のために兄弟殺しが発生したわけじゃなくて、天下の安寧という目的と二人に共通する価値観から弾き出された手段が兄弟殺しだったというのは筋が通っているから
李建成の死が必要悪だったという言い方はしたくないけど、この最悪の手段を選んだ二人が天下安寧のために出来うる限りの努力を果たし、それが貞観の治として結実したというのは、濃い影が落ちているけど同じくらいの光もあると思う
二人とも真面目で仕事熱心で能力主義で、他人をそこまで嫌うことがなく、争い事や揉め事を好まない
房玄齢伝にある玄齢の「国家を滅ぼすか、身名をともに滅ぼす(李世民を兄弟殺しの汚名を被せても即位させ天下を安寧に導く)かだ」という言葉が好きなんですが、この「名を棄てて実を取る」価値観が二人に共通しているからこそ李世民も玄齢の献策を受け入れ兄弟殺しの汚名を永久にこうむることになったというのがほんとうにめちゃくちゃ好き
二人が迷走した結果目先の利益のために兄弟殺しが発生したわけじゃなくて、天下の安寧という目的と二人に共通する価値観から弾き出された手段が兄弟殺しだったというのは筋が通っているから
李建成の死が必要悪だったという言い方はしたくないけど、この最悪の手段を選んだ二人が天下安寧のために出来うる限りの努力を果たし、それが貞観の治として結実したというのは、濃い影が落ちているけど同じくらいの光もあると思う
最近気づいたこと
竇氏が死去したのは涿郡にいた(『新唐書』太穆竇皇后伝)(613年の?)5月(『唐六典』巻4)
李世民は病の竇氏をつきっきりで看病し、竇氏が亡くなると三年(二十七ヶ月)の喪に服した(『冊府元亀』巻27)
楊廣が雁門で突厥に包囲されたのが615年8月。突厥が撤退したのが9月(『隋書』煬帝本紀)。この際に李世民が初陣を経験(『新唐書』太宗本紀)
房玄齢の父の房彦謙が死去したのは615年5月(《唐故徐州都督房公碑》)
玄齢は彦謙を三ヶ月間恭しく看病し、亡くなると過度に喪に服した(『旧唐書』房玄齢伝)
玄齢が自ら李世民を訪ねたのは617年の8月(『資治通鑑』巻184)
この二人の母/父を亡くしたあとの行動は相似なんだなーと思った
父母を愛し傍に侍って看病し深く喪に服し、喪が開けるやいなや世界に飛び出していく感じが
李世民と房玄齢が会ったその日に「一見して旧識の如く」親しんだというのもなにかわかる気がする
竇氏が死去したのは涿郡にいた(『新唐書』太穆竇皇后伝)(613年の?)5月(『唐六典』巻4)
李世民は病の竇氏をつきっきりで看病し、竇氏が亡くなると三年(二十七ヶ月)の喪に服した(『冊府元亀』巻27)
楊廣が雁門で突厥に包囲されたのが615年8月。突厥が撤退したのが9月(『隋書』煬帝本紀)。この際に李世民が初陣を経験(『新唐書』太宗本紀)
房玄齢の父の房彦謙が死去したのは615年5月(《唐故徐州都督房公碑》)
玄齢は彦謙を三ヶ月間恭しく看病し、亡くなると過度に喪に服した(『旧唐書』房玄齢伝)
玄齢が自ら李世民を訪ねたのは617年の8月(『資治通鑑』巻184)
この二人の母/父を亡くしたあとの行動は相似なんだなーと思った
父母を愛し傍に侍って看病し深く喪に服し、喪が開けるやいなや世界に飛び出していく感じが
李世民と房玄齢が会ったその日に「一見して旧識の如く」親しんだというのもなにかわかる気がする
李世勣が宴席で李世民さんに「李治を託せるのは卿しかいない」と言われ感激して指を噛んで流血して涕泣泥酔し、最終的に李世民さんが上着を脱いで李勣に掛けてあげた事件
世勣が指を噛んだのはテュルク系に見られる忠誠の証明や葬送儀礼として顔の一部を傷つける行為の亜種かなと思っていたけど、最近李勣墓碑に「肌に刻み込むために噛んだ〈便即噛指流血、銘肌為記〉」と書いてあるのを知って最高すぎました
というか銘肌鏤骨(肌に銘キザみ骨に鏤キザむ)って本当に物理的にやることあるんだ
父母からもらった身体髪膚を大切にする国で君主に使命を託された感銘を肌に刻む男というのもいいし、李世民にはこんな重い男が李世民崩御後には則天武后の立后に一役買い(李世民の忠臣にはなっても)後継者である李治、果ては唐王朝の忠臣にはならなかったのもポイント高いです
世勣が指を噛んだのはテュルク系に見られる忠誠の証明や葬送儀礼として顔の一部を傷つける行為の亜種かなと思っていたけど、最近李勣墓碑に「肌に刻み込むために噛んだ〈便即噛指流血、銘肌為記〉」と書いてあるのを知って最高すぎました
というか銘肌鏤骨(肌に銘キザみ骨に鏤キザむ)って本当に物理的にやることあるんだ
父母からもらった身体髪膚を大切にする国で君主に使命を託された感銘を肌に刻む男というのもいいし、李世民にはこんな重い男が李世民崩御後には則天武后の立后に一役買い(李世民の忠臣にはなっても)後継者である李治、果ては唐王朝の忠臣にはならなかったのもポイント高いです
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この蕭瑀は『旧唐書』蕭瑀伝の房玄齢や魏徴の前で李世民さんに「陛下に特別の訓戒を賜り、忠誠も認めていただけました、たとえ死んでも生きているのと同じです!」をかました蕭瑀がモデルです
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幼少期楊廣と李淵
#楊廣 #李淵