Tag Archives: 蕭瑀

李靖、蕭瑀、柴紹

November 29,2022

立ち絵の練習 アーカイブに今年書いた絵をまとめてきました 李忱ちゃんの漫画と絵はページ下部に晩唐のカテゴリ作って括りました。過去に十八史略宣宗のページにあげてた李忱ちゃんと令狐綯のアイコンも探したけど見つからなくてショック あったら賑やかしとして加えたのに… 晩唐は令狐綯x李忱ちゃん推しです 探したら2018年作の長安の地図に李忱ちゃん(左)と李隆基(右)描いてた 髪型こっちのが可愛い 李淵→冠、李世民→翼善冠、李隆基→幞頭と重複しない被り物で統一したかったから胡帽描いた記憶があります この李隆基はぽやぽやしてるけど史実の李隆基はかなり気が強く何か癪に触ることがあると周囲にバチギレするタイプの男です(則天武后の外戚として権勢を振るう武懿宗(武后の従兄弟である武元忠の子)を7歳にして叱りつけて「わが家の朝堂なのにお前と何の関係がある」と啖呵切れるくらいつよい) 今年5月の日記で「イーロンマスクの思想が嫌すぎる」と愚痴ってたんですが、 買収後の惨状があんまりなので重い腰あげてマストドンのアカウント作りました ここ:https://fedibird.com/@spfudge 今のところサイトとtwitterに書くまでもない独り言と歴史系のメモに使ってます aboutページにも書いてますが現状管理しているSNSは以下の4つです twitter:絵と歴史語りと妄想 mastodon:らくがきとか萌え語りとか lofter:頑張って描いた絵を載せる pixiv:跡地…

2020年版凌煙閣二十四功臣

November 24,2020

いい凌煙閣二十四功臣の日だったので即席で作ったまとめ /// 李世民と凌煙閣二十四功臣の兄弟姉妹をざっと調べたメモ 二十四功臣って長兄率高くない?と思って調べましたが自力で確認できる分では実際高かったです あと世民が一人っ子(?)や長兄の人に懐く率が高いという収穫を得ました 世民、次男坊で下に弟が大勢いて(李淵パパが即位後に大勢の妃嬪を抱えていたので弟妹がたくさんいる)実際には兄属性なのに、持ち前の弟属性で長男・兄属性の功臣に甘えてた節がある あと同母兄弟とは政治的に対立したのに歳の離れた異母弟たちとは関係良好だったで、自分が壊してしまったなにかを埋めようとした結果功臣に甘えたがりになったというより、もともと兄弟と仲良くできる性質だったのではと思います そもそも李建成や李元吉ともものすごく険悪だった雰囲気ではないし丹陽公主(妹)への気遣いとか半端じゃないし…そういう人が血を分けた兄弟を討たざるをえなかったのが悲劇的だけど 李世民は李靖のことを私的な場では兄と呼んで慕っていたらしいですが(『隋唐嘉話』)、おそらく太原で出会った当初からそんな関係性だったんだろうな 李世民さんが兄弟と険悪になったあとで李靖に「薬師殿のことお兄ちゃんって呼んでいい?」とか聞いてたらあまりにもつらすぎる…

長孫無忌

November 18,2019

凌煙閣二十四功臣の立ち絵の下書き 元絵が大きい分ここ半月のほとんどをこれを描くのに費やしています まだ頭身や身長の調整も残ってる この過酷なマラソンから抜け出したい 当サイトの歴史創作では功臣の身長差などは特に想定しておらず、漫画やイラストでは一律に同じ身長で描いていました 立ち絵をかきはじめたら二十四人の人間を全員同じ身長に描くのがあまりにも難しかったので、脳内イメージでなんとなく身長差が決まっていきました このあとまた調整しますが 秦叔宝=程知節>尉遅敬徳≧屈突通>段志玄=劉弘基>李靖=柴紹=李世勣>李孝恭=殷開山=長孫順徳=張亮=侯君集=張公謹=劉政会=唐倹>長孫無忌=高士廉>杜如晦=魏徴=房玄齢=蕭瑀>虞世南 くらいがいいなと思います 玄齢如晦魏徴王珪、敬徳と通、二李、張亮と君集は画面の映え的にも身長を揃えたい 李世民は虞世南をちょっと見上げるくらいの身長差だと可愛い〜…

李淵李世民親子

May 06,2018

4〜5月に描いてた絵 姉たちに着せ替え人形にされて泣いて家を飛び出した李世民とそれを迎えにきた李淵パパ(長い) 流行ってるので… 李世民は死刑に該当する罪を軽減する代わりに一度肉刑(脚切りの刑)を復活させたものの甚だ後悔し、紆余曲折して肉刑を撤廃した話が新旧唐書刑法志に載っています 太宗(李世民)は即位すると、長孫無忌、房玄齢らに学士や法官と共に現行の律令を改訂するよう命じた。戴冑と魏徴が「旧来の律は刑罰が重きにすぎます」と上奏したため、絞首刑に該当する五十条を審議し、死罪を免じてその右足を切り落とすこととした。これにより、死罪となるはずの者で生命を全うする者が多くあった。 しかし太宗は、刑を受ける者の苦しみに心を悩まし、侍臣に「前代の王朝が肉刑を行わなかったことはすでに久しい。今突如として罪人の右足を断つというのは、甚だ心中忍び難いものがある」と語って言った。 諫議大夫王珪がこたえて言った。「昔肉刑があったのは、死刑に比べて軽い罪とするためです。今陛下は死刑の多いことを哀れんで、足切りの刑を設けられました。本来ならば死刑であったものが、今は生命を全うし生きながらえられるようになったのです。刑を受けるものは幸いに命を全うできているのですから、どうして足の一本など惜しみましょうか?また、人が刑を受けた者を見れば、懲誡(懲罰の恐ろしさを示すもの)として十分でしょう」と。 太宗は言った。「朕はもともと、刑罰を寛容にしようと思いこの法を行なったのだ。しかし刑罰が実行されたと聞くたびに心が痛み、それを忘れることができない。」と。 また蕭瑀、陳叔達らに言った。「朕は、死刑になったものは再び甦ることができないので、哀れみを与えようと考え、死罪にあたる五十条を右趾切りの刑に軽減したのだ。しかし今は彼らの受ける苦痛が気にかかり、到底忍び得ない」と。 陳叔達らはみな言った。「古の肉刑は、死刑の他に独立した刑として存在したのです。陛下は死罪の中から律を改訂して足切りの刑としました。これは生を以て死に変える、寛大な法ではないですか」と。 太宗は言った。「朕の思うところもそのようであったので、足切りの刑を行うようにしたのだ。しかしその後の上書には、まったく適切とは思えないものもあった。公らは改めてこの件を検討してくれ」と。 そののち、蜀王法曹参軍裴弘献が律令の時宜を得ていない四十余りについて上奏した。太宗は裴弘献にも参与させて律について再検討させた。裴弘献と房玄齢らは建議して言った。「むかし五刑があり、刖刑(足切りの刑)はそのうちの一つでありました。肉刑が廃止されるに至って、死、流、徒、杖、笞の五等を定め、これを五刑としました。今また刖足を復活させれば六刑となります。死罪を足切りに減刑するのは肝要な処置でしょうが、刑罰の種類が増えるのは、煩雑さと峻酷さを加えることになりましょう。」と。 そこで尚書八座と意見を定めて上奏した。これによって断趾の刑は廃止され、改めて加役流三千里、居作二年とした。 (『旧唐書』刑法志) 李世民さんの後悔しっぷりがすごい 李世民さんって聞き分けいいけど筋通さないといけないときは頑固なときめちゃくちゃ頑固になるところが好き…