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唐の建国(李淵、劉文静、李世民、裴寂)

July 02,2018

李淵と唐朝創業の功臣たち 人間関係をもつれさせつつ結束して唐を興したり道を違えたりする四人 加工前(こっちの方が色味がまとまっていた) 劉文静の顔がお気に入りです エネルギーに溢れてそうだし軽率な言動しそう 文静は容貌が立派で才気才幹に溢れ権略に富むハイスペックインテリヤクザイケおじなのに、内側にどこか粗野な性質を持っていて、それをコントロールできないまま処刑されていく姿に悲哀と魅力が詰まっている 史実では 李淵:〈骨法非常〉(『舊唐書』高祖本紀) 李世民:〈龍鳳之姿、天日之表〉(『舊唐書』太宗本紀) 劉文静:〈偉姿儀〉(『舊唐書』劉文静伝) 裴寂:〈疎眉目、偉姿容〉(『舊唐書』裴寂伝) らしいのでここの四人でつるんでたら画の力が強いと思いました 太原にいる時点で李淵51歳、劉文静49、裴寂48歳、李世民18歳。援助交際の絵面だ…

李淵李世民親子

May 06,2018

4〜5月に描いてた絵 姉たちに着せ替え人形にされて泣いて家を飛び出した李世民とそれを迎えにきた李淵パパ(長い) 流行ってるので… 李世民は死刑に該当する罪を軽減する代わりに一度肉刑(脚切りの刑)を復活させたものの甚だ後悔し、紆余曲折して肉刑を撤廃した話が新旧唐書刑法志に載っています 太宗(李世民)は即位すると、長孫無忌、房玄齢らに学士や法官と共に現行の律令を改訂するよう命じた。戴冑と魏徴が「旧来の律は刑罰が重きにすぎます」と上奏したため、絞首刑に該当する五十条を審議し、死罪を免じてその右足を切り落とすこととした。これにより、死罪となるはずの者で生命を全うする者が多くあった。 しかし太宗は、刑を受ける者の苦しみに心を悩まし、侍臣に「前代の王朝が肉刑を行わなかったことはすでに久しい。今突如として罪人の右足を断つというのは、甚だ心中忍び難いものがある」と語って言った。 諫議大夫王珪がこたえて言った。「昔肉刑があったのは、死刑に比べて軽い罪とするためです。今陛下は死刑の多いことを哀れんで、足切りの刑を設けられました。本来ならば死刑であったものが、今は生命を全うし生きながらえられるようになったのです。刑を受けるものは幸いに命を全うできているのですから、どうして足の一本など惜しみましょうか?また、人が刑を受けた者を見れば、懲誡(懲罰の恐ろしさを示すもの)として十分でしょう」と。 太宗は言った。「朕はもともと、刑罰を寛容にしようと思いこの法を行なったのだ。しかし刑罰が実行されたと聞くたびに心が痛み、それを忘れることができない。」と。 また蕭瑀、陳叔達らに言った。「朕は、死刑になったものは再び甦ることができないので、哀れみを与えようと考え、死罪にあたる五十条を右趾切りの刑に軽減したのだ。しかし今は彼らの受ける苦痛が気にかかり、到底忍び得ない」と。 陳叔達らはみな言った。「古の肉刑は、死刑の他に独立した刑として存在したのです。陛下は死罪の中から律を改訂して足切りの刑としました。これは生を以て死に変える、寛大な法ではないですか」と。 太宗は言った。「朕の思うところもそのようであったので、足切りの刑を行うようにしたのだ。しかしその後の上書には、まったく適切とは思えないものもあった。公らは改めてこの件を検討してくれ」と。 そののち、蜀王法曹参軍裴弘献が律令の時宜を得ていない四十余りについて上奏した。太宗は裴弘献にも参与させて律について再検討させた。裴弘献と房玄齢らは建議して言った。「むかし五刑があり、刖刑(足切りの刑)はそのうちの一つでありました。肉刑が廃止されるに至って、死、流、徒、杖、笞の五等を定め、これを五刑としました。今また刖足を復活させれば六刑となります。死罪を足切りに減刑するのは肝要な処置でしょうが、刑罰の種類が増えるのは、煩雑さと峻酷さを加えることになりましょう。」と。 そこで尚書八座と意見を定めて上奏した。これによって断趾の刑は廃止され、改めて加役流三千里、居作二年とした。 (『旧唐書』刑法志) 李世民さんの後悔しっぷりがすごい 李世民さんって聞き分けいいけど筋通さないといけないときは頑固なときめちゃくちゃ頑固になるところが好き…

太原にて(李淵、李世民)

June 13,2017

李淵が616年に馬邑にいた際、配下の優れた騎兵に突厥の風俗をそっくり真似させ、戦場で突厥の軍にその騎兵をあてて混乱させて大勝したというエピソードがあるのですが、その中に李世民がいたら面白いなと思ってます 馬邑(朔州)から太原(并州)に移る際にわざわざ世民を別所から呼んだとも考えにくいし、世民は常に李淵に随行して軍事を学んでいたのではないかなあ…

高祖本紀の(李淵、李世民)

May 14,2016

有史世良者、善相人、謂高祖曰「公骨法非常、必為人主、願自愛、勿忘鄙言。」高祖頗以自負。 (『旧唐書』本紀第一 高祖) (訳)史世良という者がおり、人相見を善くした。 彼は高祖(李淵)に「公の骨相は非常なものであり、必ずや人主となりましょう。願わくば自愛し、この鄙言をお忘れなきよう。」と言った。 高祖はこれをもってすこぶる自負した。 太宗本紀の方↓ 高祖之臨岐州、太宗時年四歲。有書生自言善相、謁高祖曰「公貴人也、且有貴子。」 見太宗曰「龍鳳之姿、天日之表、年將二十、必能濟世安民矣。」 高祖懼其言泄、將殺之、忽失所在、因采「濟世安民」之義以為名焉。 (『旧唐書』本紀第二 太宗) ときに高祖(李淵)は岐州におり、当時太宗(李世民)は四歳であった。 ある書生が自ら人相見を善くすると申し、高祖に謁見して言った。 「公は貴人であり、また貴子を有しております」 また太宗を見て言った。「龍鳳の姿、天日の表、齢二十歳になれば、必ず世を救い民を安んじられるでしょう。」 高祖はこの言葉が外に漏れ出るのを恐れ、書生を殺そうとしたが、書生はたちまちいなくなってしまった。 これに因んで、「済世安民」の意味を込めて「世民」を太宗の名前とした。…