September 19,2016 玄甲軍武装考

昭陵六駿の颯露紫像(Wikimedia Commons

福本雅一先生の論文「中国における撃毬の盛衰と撃毬図屏風について」に興味深い一文がありました

〈隋末の戦闘で、隋の重装騎が、唐の李世民の軽装で俊敏な騎兵に翻弄され壊滅してからは、前者はすっかり姿を消してしまった。
先に触れた「昭陵六駿」も具装ではなく、考古資料によっても儀杖や鹵薄、つまり礼典の馬を除けば、具装の馬は少ない。
甚だしきは騎士でさえ、頭に幞頭を戴き、身に戦袍をまとっただけで、鎧甲さえつけていない。
これはそのまま撃毬に出場できる態勢である。武器の代わりに毬杖さえ持てば。〉
(福本雅一「中国における撃毬の盛衰と撃毬図屏風について」『京都国立博物館学叢』21 1999)

「昭陵六駿」の昭陵は李世民の陵墓の名称
六駿は李世民が隋末から唐の天下統一までの数々の征戦で騎乗していた6頭の愛馬を指します
李世民は昭陵を作るにあたって閻立本の画をもとに六駿のレリーフを作らせ、それを昭陵寝殿前の東西廡壁間に列し、自作の賛を歐陽詢に座右に刻させました
後世では昭陵にあるこの六駿の石刻を「昭陵六駿」と呼んでいます

昭陵六駿の中でも特に有名なのが颯露紫像です
颯露紫像は昭陵六駿の中で唯一の人馬像であり、兵士である丘行恭と共に石刻されているのが特徴
これは戦場での一場面を表したものであり、像に刻まれた状況について、『旧唐書』丘行恭伝はこう記しています

(訳)〈丘行恭は太宗(李世民)の王世充討伐に従軍していたが、あるとき邙山の上で会戦が起こった。太宗は世充軍の軍勢の虚実強弱を知るために数十騎を率いて出撃した。敵陣は大いに恐れて太宗の軍を攻撃できず、多くの人間が殺傷された。しかし太宗は戦場に深入りしてしまい、諸騎は周囲におらず、付き従う者は行恭のみとなった。数騎の追っ手が太宗を追い、颯露紫の胸に矢が当たった。行恭はすぐに敵に数回矢を放った。矢は当たらなかったが、敵は恐れてそれ以上前に進もうとしなかった。行恭は馬から下りて颯露紫に刺さった矢を抜くと、自分の馬に太宗を乗せて進んだ。行恭は太宗の乗った馬の前を歩み、長刀を取って巨躍大呼し、数人を切り、本陣へ辿り着いた。太宗は貞観年間に詔して行恭と颯露紫の刻石像を作らせた。行恭が颯露紫に刺さった矢を抜いている場面であり、その像は昭陵闕前にある。〉(『旧唐書』丘行恭伝)

昭陵六駿が李世民監修のもと作られていること、戦場の最前線での場面を描いていることから、行恭の像は当時の軍装を知る上で重要な資料だと考えられています
行恭像は非常に軽装で、李世民が騎兵戦術のために兵士の装備を簡素にさせていたことが伺えます。また行恭自身が李世民軍の精鋭の一人であるのを踏まえると、このときの行恭はいわゆる「玄甲軍」の軍装だったかもしれません

一国の皇子がそんな無防備な姿で戦場を駆けてたら、薄い本なら絶対オークの餌食になってる
世民に襲いかかるオークを行恭が撃退する薄い本…薄い本…?