September 16,2015 劉文静の末路

劉文静の処刑について、両唐書の劉文静伝と『資治通鑑』の該当箇所をメモしておきます
全部引用すると長くなってしまうので文静が謀反の疑いをかけられてから

李綱、蕭瑀皆明其非反。太宗以文靜義旗初起、先定非常之策、始告寂知、及平京城、任遇懸隔、止以文靜為觖望、非敢謀反、極佑助之。而高祖素疏忌之、裴寂又言曰「文靜才略、實冠時人、性復粗險、忿不思難、丑言悖逆、其狀已彰。當今天下未定、外有勍敵、今若赦之、必貽後患。」
高祖竟聽其言、遂殺文靜、文起、仍籍沒其家。文靜臨刑、撫膺嘆曰「高鳥逝、良弓藏、故不虛也。」時年五十二。(『旧唐書』列伝第七 劉文静伝)

李綱、蕭瑀明其不反、秦王亦以文靜首決非常計、事成乃告寂、今任遇弗等、故怨望、非敢反、宜賜全宥。帝素疏忌之、寂又言「文靜多權詭、而性猜險、忿不顧難、醜言怪節已暴驗、今天下未靖、恐為後憂。」
帝遂殺之、年五十二。文起亦死、籍其家。文靜臨刑、撫膺曰「高鳥盡、良弓藏、果不妄。」(『新唐書』列伝第十三 劉文静伝)

李綱、蕭瑀皆明其不反、秦王世民為之固請曰「昔在晉陽、文靜先定非常之策、始告寂知、及克京城、任遇懸隔、令文靜觖望則有之、非敢謀反。」裴寂言於上曰「文靜才略實冠時人、性復粗險、今天下未定、留之必貽後患。」
上素親寂、低回久之、卒用寂言。辛未、文靜及文起坐死、籍沒其家。(『資治通鑑』巻百八十七)

(全部おおまかに訳)
李綱や蕭瑀らは劉文静に叛心がないのを明らかにし、また李世民は固く請願して言った。
「まだ晋陽にいた頃、先に非常の策を定めたのは文静であり、裴寂は事が決まってから策を知らされたにすぎません。しかしいざ京城を興してみれば、二人の待遇には大きな差があります。故に文静はこれを恨みに思ったのであり、謀反を起こそうとしたわけではありません。どうか助命してください」
しかし李淵は元より〔文静が謀反を企んでいるという〕上疏を忌んでいた。また裴寂は李淵に言った。
「文静の才略は天下に冠たるものですが、その性質は粗暴。(『新唐書』:文静は権詐詭辯に優れ、猜疑心が強い性格。改心の見込みはなく、粗暴さは醜言怪節に表れています。)天下は未だに定まっておらず、これを留めておくと必ずや後の禍となります。」
李淵は元より裴寂と親しかったため、考えた末に裴寂の言葉を用い、遂に文静を処刑し、その家と財産を没収した。
処刑にあたって文静は落胆し、嘆いて言った。「〈高鳥(こうちょう)盡(つ)きて、良弓(りょうきゅう)藏(おさめ)らる〉(捕まえる鳥がいなくなれば、よい弓も死蔵される)とは、果たして事実だったのだ。」と。
文静は五十二歳だった。連座して弟の文起もまた処刑された。