October 31,2016 『旧唐書』殷開山伝を読む

突如殷開山ブームが私の中で起こったので『旧唐書』殷開山伝をおおまかに訳しました。
一部『新唐書』から補完しています。
▼追記

殷嶠、字は開山。(新唐書:字を以て通称される。)
雍州鄠縣の人。司農卿殷不害の孫にあたる。
祖先は本居を陳郡としていたが陳が滅亡すると関中に移り住んだ。
(新唐書:本居を江南としていたが、陳が滅亡すると京兆に移り鄠人となった。)
父の殷僧首は隋の秘書丞を務め世間に名が知られていた。
開山は若くして学行で名声があり(新唐書:書物を渉猟し)、尺牘(書状を書くこと)に巧みであった。
隋では大谷県長として任用され、統治に名声があった。
李淵が太原で挙兵すると召し出されて大将軍掾の補任となり、謀略に参預し腹心となった。
累遷して光禄大夫となった。
隠太子(李建成)の西河攻略に従った。
李世民が渭北道元帥となると、引きいれられて渭北道行軍長史となった。
時に関中は群盜が多く集結し放縦していたが、開山は令を受けてこれらを招諭し、皆が収まるところとなった。
また劉弘基と共に軍を統率し六万の兵を長安故城に駐屯させた。
隋の将軍である衛孝節が自ら金光門に出戦すると、弘基と共にこれを撃破した。
京城が平定されると陳郡公爵位を賜り丞相府掾となった。 にわかに吏部侍郎に任ぜられた。
世民の薛挙征戦に従軍し元帥府司馬となった。
時に世民が体を病み、劉文静に軍事を委ね誡めて言った。
「賊衆は遠方から来ており急戦に利がある。持久戦に持ち込み、敵の食糧が尽きるのを待ち、その後に攻略を図ろう。」
開山は退出すると文静に説いた。
「王は体を病み、公の力が及ばないことを慮ってこう言ったのだ。機をみて敵を破れば賊を王に残すこともない。」
これより少ししてまた文静に言った。「王は病気で、敵が我らを軽んじることを恐れている。武を以て威光を示そう。」
遂に折墌に於いて出兵したが、薛挙に乗じられて大敗を喫した。
開山の罪は死罪に相当したが、(《襃勳臣詔》にある死罪免除により?)罪を減じられて除名処分となった。
後に世民の薛仁杲平定に從軍し、爵位を戻された。
武徳二年(西暦619年)、陝東道大行台兵部尚書を兼ね、遷任して吏部尚書となった。
世民の王世充征戦に従い、軍功を以て鄖國公に進爵した。
また世民の劉黒闥征戦に従軍したが、その道中に病で卒した。
世民は開山の喪に望んで甚だ慟哭した。
詔により陝東道大行台右僕射の位を追贈され、諡を節といった
貞観十四年(640年)、詔により司空が追贈された淮安王神通・河間王孝恭、民部尚書が追贈された劉政會と共に、生前の功績により高祖廟庭に配饗された。
貞観十七年(643年)、長孫無忌、唐倹、長孫順徳、劉弘基、劉政會、柴紹等十七人と共に凌煙閣に像が描かれた。
永徽五年(654年)に司空が追贈された。

おまけ:
李世民が薛仁杲を平定すると、李淵は李密に命じ幽州まで李世民を迎えに行かせた。
李密は李世民の優れた威容と神武、また軍威が厳粛であることに驚いて歎服し、私的に殷開山へ言った。
「真の英主である。彼でなければ、誰がこの動乱を治めることができる?」
(『旧唐書』太宗本紀)

太宗は殷開山と秦叔宝を遣わせて美良川で尉遅敬徳を討ち、大勝した。
(『旧唐書』太宗本紀)

李世民の軍に帰順していた劉武周の配下の人間が、尋相をはじめ大量に離反した。
諸将は尉遅敬徳が叛を起こすことを疑い、車中において捕縛した。行台左僕射屈突通と尚書殷開山らは皆言った。
「敬徳は国家に帰順して日も浅く、未だに心は服しておりません。彼は勇健で非常な人間、捕縛してしまった今すでに猜貳しているでしょう。必ずや怨望が生じます。後悔する前に敬徳を殺してください。」
李世民は言った。「寡人が見るところによれば、彼は非常な人間だ。敬徳がもし背く計算があれば、なぜ尋相に遅れをとろうか!」
(『旧唐書』尉遅敬徳伝)

李世民が渭北道行軍元帥となると、于志寧は召し出されて補記室となった。殷開山らとともに軍謀に参与した。
(『旧唐書』于志寧伝)