October 07,2015 山下将司「玄武門の変と李世民配下の山東集団:房玄齢と斉済地方」を読む

山下将司先生の「玄武門の変と李世民配下の山東集団:房玄齢と斉済地方」を読みました
以下感想や雑感

山下将司「玄武門の変と李世民配下の山東集団:房玄齢と斉済地方」(『東洋学報』85、2003)
李世民配下の山東集団の存在と、清河房氏の房玄齢についての論文。
大雑把にいうと李世民配下の山東集団は房玄齢の手腕によって集結したものなんだよ〜という内容です。
面白かったのは、清河房氏が北魏以前から斉済一帯に勢力を築いていたことから、秦叔宝・程知節ら斉済出身者が王世充から李世民に帰順したのにも清河房氏の房玄齢の影響力があったのではないかとする考察。
玄齢が漢人貴族の横の繋がりだけでなく、土着した影響力も持っていたいう視点は興味深かったです。
清河房氏の影響力と文林館人士の子孫に渡る繋がり、この二つの性質の異なる人脈を持っていたことこそ玄齢が「謀臣猛将」を秦王府に引き入れられた要因だったのかもしれません。

この論文では更に李世民配下に玄齢を中心とした斉済集団があったのを踏まえた上で、李淵が武徳八年(625)に突厥対策のために設置した関中十二軍には東征で活躍した秦王府集団(斉済集団)の人間の名前がないことから、李淵には軍事の中心を世民から自分(と太原からの元従集団)に引き戻す意図があったと推論されています。
李世民は武徳七年に頡利・突利可汗の襲来を受けた際に突利可汗と盟友となり、一旦は二人を退却させたにも関わらず、そののちに突厥対策から遠ざけられていたのは何故なのか?
李世民は突厥を内部から切り崩そうと突利可汗と義兄弟になったため、李淵から危険視されて干されていた?
この考察は蓋然性が高いけど、李世民さんがあまりに不憫すぎると思います。
(追記:石見清裕『唐の北方問題と国際秩序』(汲古書院 1998)読んだら同様の考察がされていました。李世民さん不憫すぎて益々好きになってきた)

気になるところとしては、関中十二軍(太原元従集団)に属しながら玄武門の変に直接参与した人間についてあまり触れられていなかったのが引っかかりました。
関中十二軍の構成員は竇誕、楊恭仁、李神通、劉弘基、張謹、長孫順徳、樊世興(樊興)、安修仁、楊毛、王毛諧、羅芸、銭九隴の12名。
この中で玄武門の変に参与したことが正史に明記されている、あるいは参与したとされているのは劉弘基、長孫順徳、銭九隴、樊世興(樊興)の4人と少なくなく存在します。
関中十二軍個々の面々と李世民が対立関係あったとは考えにくく、また李世民集団内部でも唐倹や温大雅といった太原元従集団出身者への視点が薄いように思いました。
ともあれ李淵と太原元従集団、李世民と山東集団を考える上でとても興味深い論文でした。やっぱり玄齢は李世民にとってのフィクサーと言っても過言じゃないんだなあ