『酉陽雑俎』侯君集の見た夢

唐 段成式『酉陽雑俎』より 侯君集の見た夢
参考:『酉陽雑爼』巻五「夢 夢と夢占い」(段成式撰、今村与志雄訳、東洋文庫 1980)


 侯君集與承乾謀通逆、意不自安。忽夢二甲士錄至一處、見一高冠彭髯、叱左右取君集威骨來。俄有數人、操屠刀、開其腦上及右臂間、各取骨一片、狀如魚尾。
啽囈而覺、腦臂猶痛。自是心悸力耗、至不能引一鈞弓。欲自首、不決、而敗。
(段成式『酉陽雑俎』巻八 夢)

候君集1侯君集(600以降‐643)。豳州三水県の人。唐初の功臣で、文武で李世民の治世を支えた。李世民が秦王であったときから征討に従い、恩恵を蒙ると謀策に参与するようになり、玄武門の変でも功績を上げた。世民の即位後に兵部尚書になり、朝廷の政治に参与し、貞観九年(西暦635年)、李靖らと共に吐谷渾を征討した。貞観十一年(637)、長孫無忌らと共に世封を受け、陳州刺史を授けられ、陳国公に封ぜられた。高昌討伐から帰還したのち戦利品を私した件で弾劾され、岑文本の上疏によりことなきを得たが、内心で蟠りを抱えていた。他の功臣と共に凌煙閣に画像を掲げられたが李承乾の挙兵の謀議に参与した。しかし謀略が漏れるのを憂慮して落ちつかず、毎夜夜半とびおきては嘆息していた。妻はあやしみ「もしよからぬことがあるなら自首なさるように」と勧めたが、君集は聞かなかった。承乾の事件が発覚すると李世民は群臣に君集の助命を懇願したが許されず、貞観十七年(643)に収容され、斬刑に処された。『旧唐書』列伝第十九、『新唐書』列伝第十九に伝がある。
は李承乾と通じて反逆をはかったが、心が落ちつかずにいた。あるとき夢を見た。二人の甲士が君集をある場所へ連行し、高い冠をいただいた一人の男が頬ひげをふるわせ2段成式『酉陽雑俎』巻一 忠志では、李世民が立派な頰ひげの持ち主であったことが記される。、左右の者に君集の威骨を取るように命じた。
にわかに数人が屠殺用の庖刀を使い、脳と右臂(うで)のところを切り開き、それぞれ骨を一片取り出した。形は魚の尾に似ていた。
そこでうわ言を言って目が覚めた。脳と臂とはなおも痛く、心は落ち着かず力も無くし、一鈞の〔軽い〕弓も引くことができなくなった。
自首しようとしたが決められず、そのまま破滅した。


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    侯君集(600以降‐643)。豳州三水県の人。唐初の功臣で、文武で李世民の治世を支えた。李世民が秦王であったときから征討に従い、恩恵を蒙ると謀策に参与するようになり、玄武門の変でも功績を上げた。世民の即位後に兵部尚書になり、朝廷の政治に参与し、貞観九年(西暦635年)、李靖らと共に吐谷渾を征討した。貞観十一年(637)、長孫無忌らと共に世封を受け、陳州刺史を授けられ、陳国公に封ぜられた。高昌討伐から帰還したのち戦利品を私した件で弾劾され、岑文本の上疏によりことなきを得たが、内心で蟠りを抱えていた。他の功臣と共に凌煙閣に画像を掲げられたが李承乾の挙兵の謀議に参与した。しかし謀略が漏れるのを憂慮して落ちつかず、毎夜夜半とびおきては嘆息していた。妻はあやしみ「もしよからぬことがあるなら自首なさるように」と勧めたが、君集は聞かなかった。承乾の事件が発覚すると李世民は群臣に君集の助命を懇願したが許されず、貞観十七年(643)に収容され、斬刑に処された。『旧唐書』列伝第十九、『新唐書』列伝第十九に伝がある。
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    段成式『酉陽雑俎』巻一 忠志では、李世民が立派な頰ひげの持ち主であったことが記される。