『酉陽雑俎』李淵の武勇

唐 段成式『酉陽雑俎』より 李淵の武勇
参考:『酉陽雑爼』巻一「忠志 君王の事跡」(段成式撰、今村与志雄訳、東洋文庫 1980)


高祖少神勇。隋末、嘗以十二人破草賊號無端兒數萬。又龍門戰、盡一房箭、中八十人。
(段成式『酉陽雑俎』巻一 忠志)

李淵は若くして武勇に秀でていた。隋の末期に十二人を率い、無端児と称する数万の匪賊を破った。
また龍門の闘いでは、一房(しこ)の矢を射つくして、八十人に命中させた。1『資治通鑑』巻一八二 隋紀六煬帝 大業十一年(615)の条によると、衛尉小卿の李淵は山西、河東慰撫大使となり、群盗を討伐した。李淵は龍門に進み、賊の首領毋端児(むたんじ)を撃ち、これを破った。毋端児は無端児のこと。龍門県は隋代河東郡に属し、現在では山西省河津県の西にあたる。
『旧唐書』および『新唐書』のそれぞれ本紀第一では、李淵が龍門の賊の首領毋端児と戦ったときの武功を記す。『旧唐書』では十余騎従え、矢を七十発射てみな命中したと記す。『新唐書』にも矢を七十発射てみな命中したとあるが、従騎の数までは記していない。


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    『資治通鑑』巻一八二 隋紀六煬帝 大業十一年(615)の条によると、衛尉小卿の李淵は山西、河東慰撫大使となり、群盗を討伐した。李淵は龍門に進み、賊の首領毋端児(むたんじ)を撃ち、これを破った。毋端児は無端児のこと。龍門県は隋代河東郡に属し、現在では山西省河津県の西にあたる。
    『旧唐書』および『新唐書』のそれぞれ本紀第一では、李淵が龍門の賊の首領毋端児と戦ったときの武功を記す。『旧唐書』では十余騎従え、矢を七十発射てみな命中したと記す。『新唐書』にも矢を七十発射てみな命中したとあるが、従騎の数までは記していない。