『三国史記』薛罽頭伝

高麗 金富軾ら『三国史記』1『三国史記』は高麗仁宗(1109-1146)の勅により、金富軾らによって編纂された紀伝体の歴史書。新羅・高句麗・百済の三国時代から統一新羅末期までを対象とする。韓国側の資料としては『古記』『海東古記』『三韓古記』『本国古記』『新羅古記』・金大問『高僧伝』『花郎世記』などが一次史料として引用されているが、いずれも現存していない。薛罽頭伝


薛罽頭、亦新羅衣冠子孫也。甞與親友四人同會燕飮、各言其志。罽頭曰「新羅用人論骨品、苟非其族、雖有鴻才傑功、不能踰越。我願西遊中華國、奮不世之略、立非常之功、自致榮路。備簮紳劎佩、出入天子之側、足矣。」
武德四年辛巳、潜隨海舶入唐。會太宗文皇帝親征髙句麗、自薦爲左武衛果毅。至遼東、與麗人戰駐蹕山下、深入疾闘而死、功一等。
皇帝問「是何許人。」左右奏「新羅人薛罽頭也。」皇帝泫然曰「吾人尚畏死、顧望不前、而外國人、爲吾死事、何以報其功乎。」問從者、聞其平生之願、脫御衣覆之、授職爲大將軍、以禮葬之。
(『三国史記』列伝第七 薛罽頭伝)

薛罽頭(せつけいとう)は新羅の貴族の子孫である。2中国側の史料をそのまま引用している箇所も多い『三国史記』だが、薛罽頭の名前は中国の正史には登場せず、詳細は不明。
また同書において貴族の子弟とされる人物は<奚論、牟梁人也。其父讚德、有勇志英節…>(『三國史記』列伝第七 奚論伝)<金令胤、沙梁人。級飡盤屈之子、祖欽春角干…>(『三國史記』列伝第七 金令胤伝)のようにその父祖まで出自を記述するのが通例だが、罽頭伝は罽頭の出自を<新羅衣冠子孫>としか記していない。
あるとき親友四人と卓を囲み酒を飲んで各々の志を語りあった際、罽頭は「新羅では人を用いるのに骨品を論じ、いやしくもその族属でなければ鴻才や傑功があっても本来の身分を乗り越えられない。3新羅の身分制度である骨品制を指す。「骨」は血統や家系を意味し、氏族をその出自によって聖骨・真骨・六頭品・五頭品・四頭の5等級に分ける。骨品によって位階・官職・婚姻・衣服・住居までが規制された。願わくは中華へ行き、不世出の知略を奮い非常の功を立てて栄華の道をひらき、官吏の服に剣佩を身に付け天子の傍を出入りすれば満足だ」と言った。
武徳四年(西暦621年)、ひそかに海船に乗って唐に入り、おりしも李世民が高句麗に親征すると、自薦して左武衛果毅都尉となった。遼東に至り、高句麗軍と駐蹕山4高句麗遠征の際に、李世民が駐屯した山。の下で戦い、敵陣に深入りして戦死したが、その戦功は第一等であった。
李世民が「彼はいずこの人か」と尋ねると、左右の人間は「新羅人の薛罽頭です」と申し上げた。李世民は涙を流し、「国人であっても死を懼れ、戦うときには後ろを振り返るものだ。彼は異国の人でありながら、我が国のために死んでいった。何を以てこの功に報いれば良いだろうか?」と言った。
問われた従者が罽頭の平生の願いを伝えると、李世民は御衣を脱ぎ、それで彼の遺体を覆った。また罽頭に大将軍の職を授け、彼を礼を以て埋葬した。


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    『三国史記』は高麗仁宗(1109-1146)の勅により、金富軾らによって編纂された紀伝体の歴史書。新羅・高句麗・百済の三国時代から統一新羅末期までを対象とする。韓国側の資料としては『古記』『海東古記』『三韓古記』『本国古記』『新羅古記』・金大問『高僧伝』『花郎世記』などが一次史料として引用されているが、いずれも現存していない。
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    中国側の史料をそのまま引用している箇所も多い『三国史記』だが、薛罽頭の名前は中国の正史には登場せず、詳細は不明。
    また同書において貴族の子弟とされる人物は<奚論、牟梁人也。其父讚德、有勇志英節…>(『三國史記』列伝第七 奚論伝)<金令胤、沙梁人。級飡盤屈之子、祖欽春角干…>(『三國史記』列伝第七 金令胤伝)のようにその父祖まで出自を記述するのが通例だが、罽頭伝は罽頭の出自を<新羅衣冠子孫>としか記していない。
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    新羅の身分制度である骨品制を指す。「骨」は血統や家系を意味し、氏族をその出自によって聖骨・真骨・六頭品・五頭品・四頭の5等級に分ける。骨品によって位階・官職・婚姻・衣服・住居までが規制された。
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    高句麗遠征の際に、李世民が駐屯した山。