秦王府十八学士列伝訳

秦王府十八学士の列伝の訳


李世民は乱を平定すると、儒學に留意し、宮城西に文学館を開き、四方から学士を募った。大行台司勳郎中杜如晦、記室考功郎中房玄齢于志寧、軍諮祭酒蘇世長、天策府記室薛収、文学褚亮姚思廉、太学博士陸徳明孔穎達、主簿李玄道、天策倉曹李守素、記室参軍虞世南、参軍事蔡允恭顔相時、著作佐郎攝記室許敬宗薛元敬、太学助教蓋文達、軍諮典簽蘇勗らを本官と兼ねて学士とした。天策府記室である薛収が卒すると、虞州録事參軍の劉孝孫を補員として入館させた。世民は画家である閻立本に彼らの姿を描かせ、名前と爵位を付した。また文学の褚亮に賛を作らせ、図を《十八学士写真図》と號した。この図は書府に収められ、賢人の重きを彰顕するものであった。世民は学士に珍膳を提供し、彼らを三番に分け、交代で宮城に直宿させた。常に軍事や朝務の暇を見れば彼らの元を訪ね、引見して典籍や過去の政治について討論した。時の人たちは学士に選ばれた人間を傾慕し、「瀛州(仙人の住むという東方の三神山の一つ)へ登った」と言って讃えた。顔相時の兄が顔師古であり、蘇勗の兄の子が蘇幹である。(『旧唐書』列伝第二十二 褚亮伝)


大行台司勳郎中 杜如晦 / 字:克明(585‐630)

『旧唐書』列傳第十六 杜如晦伝
賛に曰う、建平文雅、休有烈光。懷忠履義、身立名揚。


記室考功郎中 房玄齢 / 字:喬(578‐648)

『旧唐書』列傳第十六 房玄齢伝
賛に曰う、才兼藻翰、思入機神。當官勵節、奉上忘身。


記室考功郎中 于志寧 / 字:仲謐(588‐665)

賛に曰う、古稱益友、允光斯職。蘊此文辭、懷茲諒直。


軍諮祭酒 蘇世長(?‐627?)

蘇世長、京兆郡武功の人である。祖の蘇彤は北魏に仕えて通直散騎常侍を務めた。父の蘇振は北周で宕州刺史を務め、建威縣侯に封ぜられた。世長は十餘歲にして北周の武帝(宇文邕)に上書した。武帝は彼が年少であることを異として召し出し、何の書物を読んでいるかを尋ねた。世長は「『孝経』『論語』を修めております」と答えた。武帝はまた「『孝経』『論語』の言うところは何だろうか?」と尋ねた。世長が「『孝経』は『国を治むる者はあえて鰥寡を侮らず』と言い、『論語』は『政を為すに徳を以ってす』と言っております」と答えると、帝はその答えを喜んで「善し」と言った。虎門館で学び書を読んだ。父の振が亡くなると詔を受けて爵位を継いだ。世長が武帝の前で甚だしく號泣したため、武帝は彼のために優しく振る舞った。

隋文帝が禅譲を受けると政治についての上書し、頗る補益を出した。遷任して長安令となった。大業中に都水少監を務め上江の水運を監督した。江都にて楊廣が弒殺されると喪を発して慟哭し、道を行く人々は彼を見て心を痛めた。王世充が僭號すると太子太保、行臺右僕射となり、世充の兄の子王弘烈とその将である豆盧褒と共に襄陽を守った。

ときに弘烈は褒の娘を娶り二人は深く結託していた。李淵は褒と旧交があったため璽書を送って彼を諭したが、褒は従わずたびたび使者を斬り殺した。武徳四年(622)に洛陽が平定されると世長は弘烈に勧めて共に唐へ帰順した。長安に至ると李淵は褒を誅殺し、世長の帰順が遅れたことを責めた。世長は頓首して「古来より帝王は命を受けて中原に鹿を逐うと言い、ただ一人が天下を穫り、萬夫は拱手致します。鹿を獲た後に、同じく鹿を逐った人間を肉を巡って争った罪に問うことがありましょうか?いま陛下は天命を受けて民心を得、徳を敷いて恩を与えておりますのに、管仲、雍歯の故事を忘れて良いものでしょうか?臣は武功の人間で、乱離を渡り歩き、周囲の人間はことごとく死に絶えてしまいましたが、ただ臣だけが生き残り聖朝を見ることができました。陛下がもし私を殺せば私のような人間が絶えてしまうでしょう。天恩によって私の子孫を絶やさないことを望みます」と答えた。李淵はこの言葉によって笑って彼を許した。にわかに玉山屯監を授けられた。

あるとき世長は玄武門にて李淵と引見した。平生のことについて語らい、恩意は甚だ厚かった。李淵はからかって世長に尋ねた。「卿は自分のことを諂佞と思うか?正直だと思うか?」。世長は「愚であり直でしょう」と答えた。李淵は「卿が直であるとするならば、何故世充に背いて私に帰順したのかな?」と問うた。世長は答えて「洛陽は平定され天下は一つとなり、臣は智慧に窮し力尽きて陛下に帰順致しました。しかし尚も世充が生き延びられているのは、臣が漢南に拠り、天意があるべきところに帰っても人事によって大敵足り得ていたからでしょう」と言った。李淵は大笑いして、世長を試して嘲って「名は長だが考えは浅はか、言葉は正しく心は邪である。鄭国への忠貞を棄てたのならば、吾家への信義も忘れるだろう」と言った。世長は言った。「名は長であるが考えは浅はかである、これは真に聖旨でありましょう。しかし言葉は正しく心は邪である、とは奉詔できかねます。昔竇融は自身の治める河西の地から漢に降り、十代に渡って侯に封ぜられました。臣は山南から帰順して、玉山屯監に任ぜられたばかりです」。李淵はこの答えを喜び、世長をその日に諫議大夫に抜擢した。

世長は涇陽県にて李淵の狩猟に従った。獲物は大量に捕れ、李淵は御営に入ると左右の人間に「今日の狩猟は楽しかったか?」と尋ねた。世長は進んで「陛下の狩猟は萬機をないがしろにしても十日もかけませんから、大いに楽しいとは言えないでしょう」と言った。李淵は気色ばんだが、すぐに笑って「狂態を発したようだな?」と言った。世長は答えて言った。「臣自身にとっては狂でしょうが、陛下にとっては忠でありましょう」。ときに突厥が武功に入寇し、郡県の多くの戸口が失われたが、李淵は武功へ行幸して狩猟を行おうとした。世長は李淵を諫めて言った。「突厥によって民には多くの損害が出ましたのに、陛下はそれを憂慮する見舞いの言葉を発する前に、その地で狩猟を楽しもうとしております。仁育の心を欠くだけではありません。困窮した百姓は何を飲み食いに充てればいいというのですか?」。しかし李淵はこの言葉を聞き入れなかった。

あるとき世長は披香殿にて開かれた宴会に侍宴した。世長はすっかり酔ったまま李淵に「この殿は隋の煬帝(楊廣)が作ったものでしょう?雕麗とはこのことではありませんか」と言った。李淵は言った。「卿は諫言を好み直に似るが、その実は詐だな。この殿を作ったのが私であることを知っていて煬帝と言っているのだろう?」。世長は答えて言った。「臣は本当に知らなかったのです。傾宮や鹿台の瑠璃の瓦を見れば、民を愛して倹約に務める帝王の為せるところとは思いませんでしたから。もしこれを陛下が造らせたのならば誠に良くありません。臣は昔武功にあって常に陪侍しておりましたが、陛下の房舍は雨風が凌げるほどの質素なものでありました。しかしそれでも充分ではありませんか。天下は隋の驕侈に耐えられず陛下のもとに帰したのです。陛下は奢淫を戒め倹約に務めることをお忘れにならないでください。いま隋の宮室にさらに雕飾を加えておりますが、またあのような乱を起こされるつもりでしょうか?」。李淵はこの言葉に深く同意した。

のちに陝州長史、天策府軍諮祭酒となった。秦王府に文学館が開かれると招かれて学士となり、房玄齢ら十八人と図像に描かれた。文学の褚亮の賛に曰く「軍諮諧噱、超然辯悟。正色于庭、匪躬之故」といった。貞観初に突厥に対する使者を務めた。頡利と礼を巡って争ったが屈せず、また賄賂を受けとらなかったため、朝廷はこれを壮として讃えた。巴州刺史として出向し、載っていた船が転覆したために溺死した。

世長は機智に富み学問も修めていたが1『旧唐書』列伝第十三 蘇世長伝は〈世長機辯有學〉とする。『新唐書』列伝第二十五 蘇世長伝は〈世長有機辯、淺于學〉とする。、書物を読むことについては簡率で、酒を嗜み威儀がなかった。陝州にあったとき邑里の多くの者が法を犯し、世長は取り締まることができなかったので、自責して市街において自らを鞭打った。世長は流血すると痛みに耐えられない振りをして叫びながら逃走した。見る者はみな彼を笑ったが、議者は彼のこのいつわりを称賛した。
賛に曰う、軍諮諧噱、超然辨悟。正色於庭、匪躬之故。

参考:『旧唐書』巻七十五 列伝第十三 蘇世長伝、『新唐書』巻百三 列伝第二十五 蘇世長伝


天策府記室 薛収 / 字:伯褒(592‐624)

(十八学士の画が書かれたのが薛収死後のため、賛が存在しない)


文學 褚亮 / 字:希明(560‐647)

賛に曰う、道高業峻、神氣清遠。學總書林、文兼翰苑。


文學 姚思廉 / 字:簡之(557‐637)

姚思廉、字は簡之。『新唐書』では名前を簡、字を思廉とする。雍州萬年の人である。父の姚察は陳で吏部尚書を務め、隋の太子内舍人、祕書丞を歴任し、北絳郡公に封ぜられた。儒史に精通し、父の姚僧垣と二代において重んじられた。陳が平定されると関中に移り住んだ。思廉は幼くして父察に漢史を学び、家学をよく継いだ。勤学で嗜欲はなく、家人に財産や産業について尋ねたことはなかった。はじめ陳の会稽王(陳後主の八男である陳荘)の主簿を務めた。隋に入り漢王府の参軍事となったが、父の喪に服して辞職した。

父の察は陳にあって梁と陳の二史を編纂したが、未完のまま死去した。察は臨終の際、二史の編纂を続けるよう思廉に託した。思廉はまた継母を亡くしたため、墓の側に廬を立て、喪に服し過度に毀瘠した。喪が明けると河間郡の司法書佐にあてられた。父の遺言を上表し、詔によって梁と陳の二史の編纂を継ぐことを許された。楊廣の命を受けて起居舍人の崔祖濬とともに『区宇図志』の編纂に参与した。大業の末に代王(楊廣の孫の恭帝楊侑)の侍読となった。

李淵が長安を征圧すると、代王の府僚の多くは震撼して逃げ去ったが、ただ一人思廉のみが代王の傍を離れずにいた。李淵の軍の者がいよいよ殿に昇ろうとすると、思廉は大声で「唐公(李淵)が義兵を挙げたのは王室を輔けようとしてのことだ。卿等は代王に対して礼を欠くべきではない」と言った。衆人はみな思廉の言葉を壮とし、退却して階下に並んだ。しばらくして李淵が長安に至るとこれを聞いて義であるとし、思廉に代王を扶けて順陽閤下へ向かうことを許した。思廉は泣いて礼拝して去り、彼を見た者はみな感嘆して「彼は忠烈の師である。『仁者必ず勇有り』とはこのことか」と言った。

にわかに李淵が受禅すると、秦王府(李世民の府)の文学を授けられた。のちに世民が徐円朗を討伐した際思廉は洛陽にいた。あるとき李世民が隋の滅亡について語った際、慨然として嘆じて言った。「思廉は兵刃を懼れず大節を明かにした。古人にこれを求めたとして、思廉以上の者がいるだろうか」。世民は使者を遣わして思廉に絹三百段と「卿の節義の風を想う。故にこの贈あり」としたためた書を合わせて贈った。ついで召し出されて文学館学士となり、世民が立太子されると遷任して太子洗馬となった。

貞観初に著作郎、弘文館学士となった。十八学士図に描かれた際、十八学士の賛を作った文学の褚亮は思廉を「志苦精勤、紀言實録。臨危殉義、餘風勵俗」と賛した。貞観三年(629)詔を受け秘書監の魏徴とともに梁・陳の二史を撰した。思廉はまた謝炅ら諸家の梁史を採用して父察の編纂事業を進め、旧事について推究し、傅縡や顧野王の記した舊史を修訂して梁書五十巻、陳書三十巻を撰し、父の遺した業を達成した。魏徴は総論を裁定したが、二史の著述はみな思廉の功である。褒賞を受けて綵絹五百段を賜り、通直散騎常侍を加えられた。

思廉は王府にいた頃からの旧誼もあり世民から深く礼遇されており、政治に得失があれば常に密奏し、また直言して隠すところがなかった。貞観七年(633)に世民が九成宮に行幸しようとした際、散騎常侍であった思廉は諌めて言った。「陛下は紫極にあって民を安寧させております。欲を抑えて人に従うべきであり、人を以て欲に従わせるべきではないでしょう。離宮の遊幸は、秦皇漢武の〔ような無道の君主の〕行いであり、尭舜禹湯の為すところではありません」。思廉の言葉は甚だ痛切であったが、世民は思廉を諭して「朕には気疾(持病)があり気温が高いと急激に体調が悪くなる。私欲で遊幸を好んでいるわけではない。しかし甚だ卿の意を嘉(よみ)する」と言い、帛五十匹を賜った。貞観九年(635)に散騎常侍を拝命し、豊城縣公の封爵を賜った。貞観十一年(637)に卒した。世民は深く悼惜し、廢朝すること一日、太常卿を贈り、諡を康とし、昭陵に賜葬した。子に処平がおり、通事舍人を務めた。処平の子の璹、珽は別に列伝がある。
賛に曰う、誌古精勤、紀言實錄、臨名殉義、餘風勵俗。

参考:『旧唐書』巻七十三 列伝第二十三 姚思廉伝、『新唐書』巻百二 列伝第二十七 姚思廉伝、『貞観政要』巻五 論忠義第十四


太學博士 陸徳明(陸元朗) / 字:徳明(?‐630)

陸元朗、字は徳明。字を以て通称される。蘇州呉の人である。はじめ周弘正に学び、玄理をよく談じた。陳の太建年間に後主(陳叔宝)が太子となると四方から名儒を集めて承光殿で講義を開いたが、徳明は弱冠にして同席した。この席で國子祭酒の徐孝克が、貴族であることを恃みとして好き勝手に弁じていた。衆人は大人しくそれを拝聴していたが、ひとり徳明だけが抗弁して孝克の説を論破したので、一座の者は嘆賞した。任官して始興国〔王陳叔陵の府の〕左常侍となり、遷任して國子助教となった。陳が滅ぶと郷里へ帰郷した。

楊廣が即位すると秘書学士に抜擢された。大業年間に経学に通ずる士が召集されると四方から人間が至った。徳明は門下省で魯達2当時の著名な儒者、文人。『旧唐書』儒学上徐文遠伝によれば、大業のはじめ許善心、徐文遠、包愷、褚徽、陸徳明、魯達らはみな学官となり、時の人は文遠の左氏、褚徽の礼、魯達の詩、陸徳明の易を当時最も優れているとして讃えたという。、孔褒らとともに討論を交わしたが、彼の右に出る者はいなかった。国子助教となり、越王楊侗のもとで司業となり、入殿して経学を教えた。王世充が帝号を僭称すると、その子である王玄恕が漢王となり、徳明は師となってまさに束脩の礼を受けようとした(束脩:束ねた干し肉の意。古代中国において入学、入門の際に師に贈り物をする風習をいう)。徳明はこれを恥じて、巴豆散3巴豆(ハズ:トウダイグサ科ハズ属の植物)を主として作る薬。ハズは漢方薬で、強力な下剤作用がある。を服用し、東壁の下に体を倒してうずくまった。王玄恕が牀の前に跪き礼拝しても、徳明は糞便を垂れ流して口を利かなかった。この仮病によって成皋に移され、人付き合いを杜絶した。

王世充が平定されると李世民に召し出されて文学館学士となった。貞観年間に中山王承乾に経学を教え、太学博士に任ぜられた。李淵が釈奠(孔子を中心に、儒教における先哲を先師、先聖として祀る儀式)に臨んだ際、博士の徐文遠、沙門の慧乗、道士の劉進喜を召し出し、それぞれ孝経、般若経、老子を講義させた。徳明はこの三人よりも大義を理解しており、要点をくまなく説き、三人は太刀打ちできなかった。李淵は喜んで「三人とも誠に弁が立つが、徳明は一人で彼らを凌いでしまった。まさに賢というべきだろう」と言い、帛五十段を賜った。貞観初に国子博士となり、呉県男に封ぜられ、間もなくして卒した。

著作の多くが世に伝わっており、のちに李世民が徳明の遺した『経典釈文』を読み、甚だ感嘆して徳明の家に帛二百段を賜った。著作に『経典釈文』30巻、『老子疏』15巻、『易疏』20巻がある。子に陸敦信がおり、麟徳年間に左侍極、検校右相となり、嘉興県子に封ぜられた。龍朔年間に左侍極、同東西台三品となった。老疾によって致仕し、大司成(司成館の長)で終わった。
賛に曰う、儒術為貴、元風可師。儔學非遠、離經在茲。

参考:『舊唐書』巻百八十九上 列伝第百三十九上 儒学上 陸徳明伝、『新唐書』巻百九十八 列伝第百二十三 儒学上 陸徳明伝


太學博士 孔穎達 / 字:冲遠(574‐648)

孔穎達、字は冲遠(仲遠/沖遠)4孔穎達の字…『旧唐書』孔穎達伝は穎達の字を沖遠とする。『新唐書』孔穎達伝は穎達の字を仲遠とする。『新唐書』宰相世系表は穎達の字を冲遠とする。。冀州衡水の人。祖父の孔碩は北魏で南台丞を務めた。父の孔安は北斉で青州法曹参軍を務めた。穎達は八歳から学問を学びはじめ、一日に千餘言を誦記でき、『三礼義宗』5梁の崔霊恩が撰した書。計三十巻。をすべて暗記してしまった。長ずると服氏(服虔)の『春秋左氏伝』、鄭氏(鄭玄)の『尚書』『毛詩鄭箋』『礼記』、王氏(王弼)の易を最も明るく、また算暦に通じ、善く文を属した。ときに同郡の劉焯6劉焯(544‐610)は隋代の儒学者。字は士元。信都昌亭の人。儒学で名が知られ、文帝期に貢挙の秀才科に及第すると国史編纂や律曆の制定に参与した。また文帝に命じられ劉炫と共に磨滅した《洛陽石経》の考定を行った。楊素、牛弘、蘇威、元善、蕭該、何妥、房暉遠、崔崇徳、崔賾らと古今のことについて討論した際、焯は誰にも議論で負けることがなかったので、皆はその博識に感服した。劉焯は劉炫と共によく議論をし、諸儒を言い負かせたので、多くの人間から恨みを買い、とうとう除名された。博学で儒学に通じ、論争において彼の右に出る者はいなかったが、度量は小さく、束脩を納めない者には一切授業を行わなかった。劉炫の聡明博学と並んで「二劉」と称された。は海内でも非常に高名であった。穎達が焯を訪ねるとはじめ礼されなかったが、穎達が多くの意表をつく質問をしたので、焯も態度を改めて彼を敬うようになった。穎達が帰ろうとすると焯は固く留めたが聞かなかった。家に還り、教授の任についた。

隋の大業初、貢挙の明経科に及第し、河内郡の博士を授けられた。あるとき楊廣が天下の儒官を洛陽に集め、国子秘書学士と共に論争させた。穎達は弱冠で最年少であったが、一座のなかでも最も優れていた。名望のある儒者たちは穎達に屈することを恥じ秘かに刺客を使わしたが、礼部尚書楊玄感が家において刺客を討ったので無事難を逃れた。隋末に乱が起きると、虎牢の地に避難した。李世民が洛陽を平定すると召し出されて文学館の学士となり、武徳九年に遷任して国子博士に抜擢された。貞観初に曲阜県男に封ぜられ、転任して給事中となった。

ときに世民は即位して日も浅かったが、庶政を心に留めており、穎達が度々忠を以て進言するので一層親任を置くようになった。あるとき世民は穎達に尋ねた。「孔子の言う『能を以て不能に問い、多きを以て寡きに問い、有れども無きが若く、実つれども虚しきが若し』(「才能がありながら才能のない者にも教えを請い、学識がありながら学識の乏しい者にも教えを請い、〔才能が〕あるのに無いかのように、〔学識が〕充実しているのに空虚なように」)とは、どういうものを言っているのだろうか?」。

穎達は答えて言った。「聖人が教えを設けたのは、人々がへりくだってその徳が輝くように欲したからです。能力があってもそれを矜大とせずなお不能の人に物事を尋ねる。才芸が多くとも少ないものとして、少ない人に就いて、さらに多くの益を求める。自分に智や徳があっても〔それを表面に表さず〕その様子は無いようであり、心の中が善事で満ちていても〔なお足りないと思い〕外面は空虚な様に見える。これからことはただ匹夫や庶民だけのことではなく、帝王の徳もこのようであるべきでございましょう。
そもそも帝王とは、内に神明を隠しながら表面的には奥ゆかしく何も言わず、奥深く測りようがなく、遠くて知ることができないように思わせる存在です。それゆえ『周易』は『蒙を以て正を養う』(蒙昧な偽りのない心を持って正を養う)『明夷を以て衆に莅(のぞ)む』(明智を隠して民衆に臨む)と言っております。もし極めて尊い立場にあり、聡明を輝かし、才能を以て人を凌ぎ、自分の非を取り繕い諫言を拒めば、上下の心が隔たり、君臣の間の道に背くでしょう。古来から国家が滅亡するのは、すべてこのことに由来するものであります」。

李世民は言った。「『周易』も〈労謙す、君子、終有りて吉なり。〉(功労があっても謙遜する君子は、最後には功労が報いられて終わりを全うできる)と言っている。誠に卿の説通りである」。詔によって帛二百段を賜った。国子司業となり、一年余りして太子右庶子を兼ねた。暦及び明堂のことについて諸儒と論議したが、みな穎達の説に従った。慰労され散騎常侍を加えられ、子に封爵が与えられた。また魏徴とともに『隋書』を撰した。貞観十一年に朝賢と共に五礼を修定し、判断の難しい箇所はみな穎達が決裁した。書が完成すると子の爵位が進められ、帛三百段を賜った。また皇太子であった李承乾の命によって『孝経義疏』を撰した。規諷の道を啓蒙するものであり、学者はこれを讃えた。

穎達は東宮の職にあって左庶子于志寧と共に度々承乾の過失を諌めた。世民は大いに喜び、各々に黄金一斤と帛百段を賜った。貞観十二年に国子祭酒となり、東宮の侍講を兼ねた。貞観十四年に世民は国学に釈奠のため行幸し、穎達に命じ孝経を講じさせた。穎達はそののち《釈奠頌》を奏上し、手詔と褒賞を賜った。太子承乾が過失を犯す度、穎達は承乾の顔色を顧みることなく進諌した。承乾の乳母である安婦人が言った。「太子はすでに成人しているのです。幾度も面折して宜しいものでしょうか」。穎達は答えて言った。「私は国から厚い恩を賜っているのです。たとえ〔太子の恨みを買って〕死んでも恨むところではありません」。穎達の諌諍は常に手厳しいものであったが、承乾は聞き入れなかった。世民は穎達の姿勢を甚だ喜び、穎達に五百段と黄金一斤を賜い、承乾の意を励ました。

これより先、穎達は顔師古、司馬才章、王恭、王琰等諸儒と共に詔を受けて『五経義訓』凡一百八十巻を撰定した。はじめ名を『義賛』としたが、詔によって『正義』と名を改めた。世民は詔を下して「卿等は広く古今のことを統べ、正しい道理に通じ、儒学の旧説、異説を考察し、聖人の考えを書にまとめた。まさに不朽の行いである」と褒賞した。しかし『正義』には誤謬もあったので、太学博士の馬嘉運が駁正して過ちを指摘すると、お互いを誹りあう事態となった。世民は詔し再び問題箇所を裁定しようとしたが、ついに執り行われることはなかった。

貞観十七年に老齢のため致仕し、貞観二十二年に卒した。昭陵に陪葬され、太常卿を贈られた。諡を憲と言った。永徽二年に高宗が詔して中書門下と國子三館博士、弘文館学士と『正義』の過ちを正し、尚書左僕射于志寧、右僕射張行成、侍中高季輔らが増損して天下に布教した。穎達の子の孔志は司業で終わった。志の子の孔恵元は学問に励み寡言で、司業となり太子諭徳に抜擢された。穎達の家は三世に渡って司業を務めたので、時の人はこれを讃えた。
賛に曰う、道充列第、風傳闕裏。精義霞開、掞辭飆起。

参考:『旧唐書』巻七十三 列伝第二十三 孔穎達伝、『新唐書』巻百九十八 列伝第百二十三 儒學上 孔穎達伝


主簿 李玄道 / 字:元易7《李玄道墓誌》に拠る。(577‐645)

李玄道、本貫は隴西だが玄道の家は代々鄭州に住居し、山東の冠族となった。祖父の李瑾8北魏の李韶の次男。は北魏で著作佐郎を務め、父の李行之は隋で都水使者を務めた。玄道ははじめ隋に仕えて斉王府の属官となった。李密が洛口に拠ると召し出されて記室となり、李密が敗れると王世充に捕らえられた。世充に捕らえられた人々は死を恐れて眠ることも出来なかったが、玄道はひとり「死生とは天命によるものだ。憂いたところで何になる」と言いすっかり寝てしまったので、人々は彼の見識を讃えた。のちに世充に引見された際も堂々として平生と変わらぬ態度であった。世充はもとより玄道が高名であることを知っていたため、彼を重んじて縄を解き、著作佐郎に任命した。李世民によって洛陽が平定されると、世民に召し出されて秦王府の主簿となり、文学館の学士を兼ねた。

貞觀初に給事中に累進し、姑臧縣男に封ぜられた。ときに王君廓が幽州都督となった。朝廷は彼が武将で政治には不慣れであると考え、輔佐として玄道を幽州長史とし、玄道は府の事務を取り仕切った。君廓が幽州にあって法を犯すたび、玄道は義に則ってこれを糾弾し裁いた。またあるとき君廓が玄道に婢を与えたが、その娘はもともと良家の子女で、君廓が掠奪したものであった。玄道がそれを知り彼女を解放したが、君廓はそれを甚だ不快に思い、これによって二人の間柄は険悪となった。

房玄齢は玄道の甥にあたり9房玄齢は玄道の甥にあたり…『旧唐書』は〈房玄齡即,玄道之從甥也〉とする。『新唐書』は〈玄道寓書房玄齡,玄齡本甥也〉とする。書簡を交わす間柄であった。のちに君廓が入朝した際にその書簡を見つけたが、草書が読めなかったため自分を陥れようとしたのではないかと疑い、恐れて叛を起こした。玄道は連座して巂州に流されたが、幾ばくもせずに京師に召還され、常州刺史に抜擢された。玄道は清廉倹約を以て職に務め、民衆は安んじられた。世民は詔を与えて彼を褒称し綾絹を賜った。貞観三年(629)に上表して致仕し、銀青光禄大夫を加えられた。鄭州の邸宅にて卒した。子の雲将は名が知られ、尚書左丞まで務めた。
賛に曰う、李侯鑒遠、雅量淹通。清言析理、妙藻推工。

参考:『旧唐書』巻七十二 列伝第二十二 褚亮伝附李玄道伝、『新唐書』巻百二 列伝第二十七 李玄道伝


天策倉曹 李守素(?‐?)

李守素、趙州の人である。守素の家は代々山東の名族であった。守素は学問に優れ学才があり、容貌は魁偉10『冊府元亀』巻728 幕府部 辟署に拠る。で、弁舌に優れ見識を持ち合わせていた。(『冊府元亀』巻七百二十八)世民が王世充を平定すると、召し出されて文学館の学士となり、天策府倉曹参軍を務めた。守素は非常に氏姓や系譜に通じ、晋宋以降の四海の士流及び諸勲貴・華夷の閥閱について知らないことはなく、人々から「行譜」(『新唐書』『隋唐嘉話』では「肉譜」)と号された。

あるとき虞世南と守素は人物について論じた。はじめ江左(江南)・山東の出身者について語るときは二人で対酬していたが、北方の諸侯について話が及ぶと守素のみが世業を明らかにし、またその内容にはすべて裏取りがあったため、世南はただ笑って答えることができなくなってしまった。世南が「行譜はまことに畏るべきだ」と感嘆すると、許敬宗が「李倉曹は人物を善く談じて『行譜』という名を得ておりますが、立派なことであるのに美しい名前とは言えません。公の言葉は人々に定着しましょうから、改めた方が良いのではないでしょうか」と言った。世南は言った。「むかし任彦昇11梁武帝に仕えた名臣任昉のこと。彦昇は字。楽安博昌の人で、南斉の竟陵王蕭子良のもとに集まった竟陵八友の一人である。はじめ南斉に仕え、蕭衍(梁武帝)が実験を握ると詔勅などを掌握した。博識で駢文に巧みであり、『文選』には多数彼の文章が収録されている。は経籍を立派に談じ、梁代には『五経の笥(五経の収まった器)』と称された。いま倉曹のことは『人物志』とするべきだろう」。12あるとき虞世南と守素は人物について論じた…『冊府元亀』の引く『齊永元中表簿』五巻にはこの出来事の詳細が記されている。ある七夕の夜に虞世南ら六人が学館に宿直した。珍膳が提供され、六人は詩や賦について語り、話が人物談義に至った。(略)虞世南が許敬宗の言葉を是とし、今日から守素を「人物志」と呼ぶべきであると語ると、杜如晦らは皆それを佳としたという。ときに渭州刺史の李淹が譜学に明るく、守素と論じてただ淹だけが同等に議論することができた。貞観の初めに卒した。
賛に曰う、賢哉博識、穆爾清風。遊情文苑、高歩談叢。

参考:『旧唐書』巻七十二 列伝第二十二 褚亮伝附李守素伝、『新唐書』巻百二 列伝第二十七 李守素伝


記室參軍 虞世南 / 字:伯施(558‐638)

賛に曰う、篤行揚聲、雕文絕世。網羅百世、並包六藝。


參軍事 蔡允恭(?‐?)

蔡允恭、荊州江陵の人である。父は梁で左民尚書を務めた蔡大業。容姿が美しく、詩を巧みとした。隋に仕え、著作佐郎、起居舍人を歴任した。楊廣は詩を賦すと必ず允恭に諷誦させた。楊廣に宮女へ詩を教えるよう遣わせられたが、允恭はこれを深く恥じ入り、度々病気と偽って召し出しに応じなかった。また内史舍人に任ぜられ、宮廷に入って宮人に詩を教えるよう求められたが固辞して従わず、これにより楊廣から疎んじられるようになった。江都の難にあたって、宇文化及に従い西上したが、化及が滅亡すると竇建徳に捕らえられた。世民が竇建徳を平定すると、秦王府に引き入れられ秦府参軍となり、文学館の学士を兼ねた。貞観年間、太子洗馬となり、まもなく致仕して自宅にて卒した。著作に文集が十巻と《後梁春秋》十巻があった。
賛に曰う、猗與達學、蔚有斯文。水霜比映、蘭桂同芬。

参考:『旧唐書』巻百九十上 列伝第百四十 文苑上 蔡允恭伝、『新唐書』巻二百一 列伝第百二十六 文藝上 蔡允恭伝


參軍事 顔相時 / 字:睿(?‐645)

顔相時、字は睿。敦煌公府文学顔師古の弟にあたる。兄と共に学問で知られた。武徳年間、兄と共に天策府に仕え、天策府参軍事と文学館学士となった。貞観年間に諫議大夫となった。相時は人々の過失や誤りを正し、他の臣下と争論する気風があった。転じて礼部侍郎となった。相時は病気がちで痩躯であったため、世民はいつも使いをやって医薬を賜っていた。仁愛な性格であり、兄の顔師古が亡くなると哀惜してやまず、まもなく卒した。
賛に曰う、六文科籀、三冬經史。家擅學林、人遊書史。

参考:『旧唐書』巻七十三 列伝第二十三 顔相時伝、『新唐書』巻百九十八 列伝第百二十三 儒学上 顔相時伝


著作佐郎攝記室 許敬宗 / 字:延族(592‐72)

賛に曰う、槐市騰聲、蘭宮遊道。抑揚辭令、縱橫才藻。


著作佐郎攝記室 薛元敬(?‐?)

薛元敬、蒲州汾陰の人である。隋の選部侍郎薛邁の子。叔父の薛収、および薛収の族兄である薛徳音と共に名声があり、人々から「河東三鳳」と称された。薛収は長雛、徳音は鸑鷟、年最少の元敬は鵷雛と言った。武徳年間に秘書郎となり、世民に召されて天策府参軍と直記室を兼ねた。世民が文学館を開くと、薛収と共に学士となった。

ときに薛収は房玄齢や杜如晦と心を寄せあい深く結託していたが、元敬は慎んだ態度で彼らに接し、馴れ合おうとしなかった。杜如晦は常に「小記室とは親しくすることもできないが、疏にすることもできない」と語った。世民が太子となると太子舍人となった。軍事や国政が東宮で総括されるようになると、元敬は文翰を司り、職に適うと讃えられた。まもなく在官のまま卒した。
賛に曰う、薛生履操、昭哉徳音。辭奔健筆、思逸清襟。

参考:『旧唐書』巻七十三 列伝第二十三 薛元敬伝、『新唐書』巻九十八 列伝第二十三 薛元敬伝


太學助教 蓋文達 / 字:藝成(578‐644)

蓋文達,冀州信都の人。経典や史書を渉猟し、『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『春秋左氏伝』の三伝に特に通じた。人となりは雅正で鬚貌が美しく、君子の風格の持っていた。あるとき冀州刺史の竇抗が広く儒生を集め討論を行わせた。劉焯、劉軌思、孔穎達といった儒家の大家が居並ぶ中、文達は難しい問題にも諸儒の意表をつく答えを出したので、一坐の者はみな感嘆した。竇抗はこれを大変不思議に思い、「文達は誰に学問を学んだのかな?」と尋ねた。劉焯が答えて、「彼は若くして岐嶷であり、これは天性の才能です。『多きを以て寡きに問う』(『論語』泰伯:自分の知識をひけらさず、自分より知識のない者にも教えを受けるの意)の言葉の如く、この焯を師としております」と言った。竇抗は「『氷は水から生まれて水よりも冷たい』(『荀子』勧学)とはこのことだろうか」と言った。

武徳年間に累遷して國子助教に任ぜられ、世民に召し出されて文学館の学士となった。貞観十年(636)に諫議大夫に転じ、弘文館学士を兼ねた。貞観十三年(639)に國子司業となった。間もなく蜀王(李愔)の師となったが、蜀王が罪に落ちたため連座して罷免された。貞観十八年(644)崇賢館学士に任ぜられ、間もなく世を去った。宗族の蓋文懿も儒業で名が知られ、当時において「二蓋」と称された。
賛に曰う、言超理窟、辯折談風。蒲輪遠聘、稷契連蹤。

参考:『旧唐書』巻百八十九上 列伝第百三十九上 儒学上 蓋文達伝、『新唐書』巻百九十八 列伝第百二十三 儒学上 蓋文達伝


軍諮典簽 蘇勗 / 字:慎行(?‐?)

蘇勗、字は慎行。本貫は雍州武功県。武徳年間に秦王諮議、典簽、文学館学士となった。貞観年間に南昌公主13李淵の第十女。『新唐書』の列伝には蘇勗に降嫁したとしか記されていない。(『新唐書』巻八十三 列伝第八 諸帝公主)を娶り、駙馬都尉を拝命した。累選して魏王李泰の王府の司馬となった。勗は学を修め高名であり、甚だ泰から重んじられた。勗は泰に勧めて文学館を開かせ、才のあるものを引き入れて蕭徳言・顧胤・蒋亜卿・謝偃らとともに『括地志』を撰した。吏部郎太子左庶子を歴任して卒した。
賛に曰う、業敏遊藝、躬勤帶經。書傳竹帛、畫美丹青。

参考:『旧唐書』巻八十八 列伝第三十八 蘇瑰伝、『新唐書』巻百二十五 列伝第五十 蘇瓌伝


薛収が武徳7年(624年)に卒し、虞州錄事參軍 劉孝孫が補員として入館した

虞州錄事參軍 劉孝孫(?‐?)

劉孝孫、荊州の人。祖父の劉貞は北周で石台太守を務めた。孝孫は弱冠にして名が知られ、時の人である虞世南、蔡君和、孔徳紹、庾抱、庾自直、劉斌らと山水に登臨し文会を共にした。大業末に王世充の弟である杞王辯の行臺郎中を務めた。洛陽が平定され辯が面縛されると麾下の人間は皆離散したが、ひとり孝孫だけが號慟し遠郊まで彼を見送り、時の人はこれを義とした。武徳初に虞州録事参軍を務め、李世民に召し出されて秦王府の学士となり、貞観六年(632)遷任して著作佐郎となり吳王の友となった。歷代の文集をもとに吳王のために『古今類序詩苑』四十巻を撰した。貞観十五年(641)に本府諮議参軍となり、しばらくして太子洗馬となったが拝命する前に卒した。
賛に曰う、劉君直道、存交守信。雅度難追、清文遠振。

参考:『旧唐書』巻七十二 列伝第二十二 褚亮伝附劉孝孫伝、『新唐書』巻百二 列伝第二十七 褚亮伝附劉孝孫伝


  • 1
    『旧唐書』列伝第十三 蘇世長伝は〈世長機辯有學〉とする。『新唐書』列伝第二十五 蘇世長伝は〈世長有機辯、淺于學〉とする。
  • 2
    当時の著名な儒者、文人。『旧唐書』儒学上徐文遠伝によれば、大業のはじめ許善心、徐文遠、包愷、褚徽、陸徳明、魯達らはみな学官となり、時の人は文遠の左氏、褚徽の礼、魯達の詩、陸徳明の易を当時最も優れているとして讃えたという。
  • 3
    巴豆(ハズ:トウダイグサ科ハズ属の植物)を主として作る薬。ハズは漢方薬で、強力な下剤作用がある。
  • 4
    孔穎達の字…『旧唐書』孔穎達伝は穎達の字を沖遠とする。『新唐書』孔穎達伝は穎達の字を仲遠とする。『新唐書』宰相世系表は穎達の字を冲遠とする。
  • 5
    梁の崔霊恩が撰した書。計三十巻。
  • 6
    劉焯(544‐610)は隋代の儒学者。字は士元。信都昌亭の人。儒学で名が知られ、文帝期に貢挙の秀才科に及第すると国史編纂や律曆の制定に参与した。また文帝に命じられ劉炫と共に磨滅した《洛陽石経》の考定を行った。楊素、牛弘、蘇威、元善、蕭該、何妥、房暉遠、崔崇徳、崔賾らと古今のことについて討論した際、焯は誰にも議論で負けることがなかったので、皆はその博識に感服した。劉焯は劉炫と共によく議論をし、諸儒を言い負かせたので、多くの人間から恨みを買い、とうとう除名された。博学で儒学に通じ、論争において彼の右に出る者はいなかったが、度量は小さく、束脩を納めない者には一切授業を行わなかった。劉炫の聡明博学と並んで「二劉」と称された。
  • 7
    《李玄道墓誌》に拠る。
  • 8
    北魏の李韶の次男。
  • 9
    房玄齢は玄道の甥にあたり…『旧唐書』は〈房玄齡即,玄道之從甥也〉とする。『新唐書』は〈玄道寓書房玄齡,玄齡本甥也〉とする。
  • 10
    『冊府元亀』巻728 幕府部 辟署に拠る。
  • 11
    梁武帝に仕えた名臣任昉のこと。彦昇は字。楽安博昌の人で、南斉の竟陵王蕭子良のもとに集まった竟陵八友の一人である。はじめ南斉に仕え、蕭衍(梁武帝)が実験を握ると詔勅などを掌握した。博識で駢文に巧みであり、『文選』には多数彼の文章が収録されている。
  • 12
    あるとき虞世南と守素は人物について論じた…『冊府元亀』の引く『齊永元中表簿』五巻にはこの出来事の詳細が記されている。ある七夕の夜に虞世南ら六人が学館に宿直した。珍膳が提供され、六人は詩や賦について語り、話が人物談義に至った。(略)虞世南が許敬宗の言葉を是とし、今日から守素を「人物志」と呼ぶべきであると語ると、杜如晦らは皆それを佳としたという。
  • 13
    李淵の第十女。『新唐書』の列伝には蘇勗に降嫁したとしか記されていない。(『新唐書』巻八十三 列伝第八 諸帝公主)